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宗教のカテゴリーですが、質問させてください。

聖書に、「私が道であり、真理であり、命である。…」ヨハネ4:16とあります。 イエスは覚醒した人物と思いますが、この聖句は他の求道の道、他の宗教を否定するニュアンスを感じます。 もちろん信者だけが信じればいいのでしょうが、なぜこの道だけなのか? 無数の救済の道があっていいと思い、「この道だけ」と限定されることに一神教への違和感を感じます。 どなたか詳しい方、もちろん個人的なご意見でも良いので、教えて頂けたら幸いです。

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回答No.4

イエス君は覚醒に至る道の難しさを理解したが故に、覚醒を目指す場合は自分を指標とするように、と呼びかけたのだと思いますよ。 ゴータマ君だって悟った直後は“この道、やべぇ・・・”と、人に説いて理解して貰う事など無理だと結論付けて、衆生に説こうなどとは考えなかったらしいですから。 それでも乞われたので、んじゃまぁ・・・ってところで説き出したのは良いのですが、実際に悟りを得ようとする出家者と、そうでない衆生を相手にした場合ではその説く内容に大きな違いがあったとのことです。 というところで大乗仏教についてはここで考える必要は無いでしょう。 イスラム教については・・・何も知りません。 ということで、救済というものを各人それぞれの概念でどう捕らえるかは人それぞれなので、その人その人の置かれている状況や立場などによってその方法は無数にあってしかるべきなのでしょうけれど、自分とは全く異なる一個人を自分のように真に悟らせるにはどうすれば良いのか、と考えた時にイエス君が考えた方法は「この道だけ」だったのでしょうね。 まぁベースが一神教だったこともあるので、それが真に覚醒する道では無かったとしても一本道になりそうな気もしますが・・・ 何れにしろ混同してはいけないのは 覚醒する事と救済することは同義では無い、という点でしょう。

0327my
質問者

お礼

覚醒を目指す場合は自分を指標とするように… とても共感できる答えでした。 自分とは全く異なる一個人を自分のように真に悟らせるにはどうすれば良いのか、と考えた時にイエス君が考えた方法は「この道だけ」だった… なるほど、、 全体的にゆるやかな語り口調で、でも質問の真意を汲んだお答え、本当にありがとうございます。 ほかにも世界中あらゆる地、あらゆる時代に目覚める道、目覚めた人々はいたはずなのに?と疑問が膨らみ質問したので… 覚醒と救済、…そこにも違いがあり、少し混同していたように思います。

その他の回答 (3)

回答No.3

>なぜこの道だけなのか? 仏教など他の偉大な宗教を知らなかったからでしょう。 あの時代のことですから仕方ない事ですので、イエスを責めることはありませんが、情報や知識が普及した現代においても2000年前と同等の無知が横行することは噴飯ものですね。

0327my
質問者

お礼

仏教など他の偉大な宗教を知らなかった… 確かに。新しい視点です。 ご回答、ありがとうございました。

  • sinntyann
  • ベストアンサー率10% (67/641)
回答No.2

詳しくは無いですが、イエスが否定したとは思えませんが、キリスト教は否定しています。 イスラムもそうですね。宗派はわかれていろいろありますが、基本は、一神教。 だから、戦争が多い。 自分の宗派以外はダメ、自分の宗派以外は、間違ってる。自分の宗派が馬鹿にされた。など でも良い事もある。それを信じれば、他は間違いなのだから、自分の思ったことをすぐに行動に移せる。 悩まなくても良い。 でも、私も日本人「やおよろずの神」が良い。 川の神、風の神、火の神。すべての物に神がいるんだから、すべての物を大事にする。 これが日本人の基本に流れている。だから、日本が好きだ。

0327my
質問者

お礼

自分の宗派以外はダメとか、自分の宗教以外はダメというのは偏狭な気がします。 それゆえの不必要な争い… 私も一神教に嵌り込んだときの精神の危うさを知り、やおよろずの神・アニミズムの平穏さに 魅力を感じてます。 ご回答、ありがとうございました。

  • marbleshit
  • ベストアンサー率49% (5033/10253)
回答No.1

大乗仏教はこうした一神教を外道(げどう)として五重相対において論破しています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%9B%B8%E5%AF%BE

0327my
質問者

お礼

五重相対、読ませていただきました。 仏教の奥深さに関心もあり、初めて知る語彙や意味など、勉強になりました。 早速のご回答、ありがとうございました。

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