異質な人間とは?

このQ&Aのポイント
  • 昔も今も、人間には異質な存在が存在します。
  • 社会では支配欲の強い人間が力を行使し、周りを従わせることもあります。
  • しかし、それぞれが自分らしく生きることが大切であり、軟弱な人間も重要な存在です。
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以上でも以下でもない人間は異質なんでしょうか

20年程前に中学生だった者です 現在いじめが社会問題になっておりますが、程度の差はありますが昔から本質的なものは変わっていないと思います 同級生には自分が支配したいと考えている者とそれぞれがそれぞれで良いと考えている者が居りましたが、前者の人間が多いと権力で相手を従わせ様として、いじめの様な形をします 事実彼らは常に周りに喧嘩を売り相手を従わせ様としておりました 唯社会でも前者の人間は人を陥れたり、裏切ったり、権力を行使し、正しくは無いが、結果として支配すると云う形に成ります 映画 少年時代 60年以上前の戦時中の話ですが、武と云う恐怖で権力を使い相手を従わせ様とする少年が出て来ます 主人公進一はそれぞれがそれぞれで良いと思っている考えです 唯武タイプが社会では歓迎され 進一タイプは越えられない軟弱者となるのでしょうか

noname#250543
noname#250543

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回答No.3

 武たちは声を高くして人々を恐怖に落とす強い影響があります。  進たちは静かなので何もしていないかのようですが,多くがそうなので  原発反対のデモをしたり,海外でも静かなデモから内線にまで発展しています。  みんな混ざり合い,1面で見るだけでなく  武の中に弱さがあり進の中に強さがあるし其れもまだらだったりグラデーションだったり  場面や時期でかわります。  1人の人間としてみる場合と社会全体のかt値で見るのはべつの表現になるので  社会で反してみます。  会社のサラリーマン社長は立派だからではなく,競争相手の慣れれた区内人が弱いひとを担ぎだす事も在りし,何もしない出来ない事なかれの人が、影響を恐れる人たちが押して,見事社長になる事もあります。 早くから頭角を現す人は出来る先輩ににらまれて早くに出世コースを外されます。  目立たぬようすごし自分の時代が来て確固たる物になったら,急に強権を打ち出したりします。  ロシアのプーチンとメジョデーベフを見たら解り易いと思います。 今や強権も意味する強さではなく,優しい強さ優しさを維持出来る強さなど覇権を昔の価値観賭する考えがうまれ始めています。 そういう事を守って行くがんばりが私たちのちいさな毎日に求められています。 実生活があって物をいわなければ,夢物語です。 今世界は昔ながらの国家の頸城に戦う市民が居たり,新自由主義の名の下でだまされてきていつの間にかワーキンギプアの地獄に 落ちて這い上がれない仕組みにボーゼンとしてはえをむしられた市民が居て、ロンドンオリンピックの開会セレモニーで 紹介されたように素晴らしい誰もがただで受けられる医療の紹介で自国の素晴らしさをアピールしている市民が居ます。 自分がどこに立っているのかをまず調べて行きませんか どこに立ちたいのかも。

noname#250543
質問者

お礼

そうですね進一タイプも着実な進歩を遂げることもあるし、武タイプも突然クーデターを起こされる事もありますね どの位置にあるか客観的に見ていく事が大切ですね

その他の回答 (2)

回答No.2

映画は見ていないのですが、藤子不二雄のコミックは読みました コミックでは、武は最後に今まで殴っていた仲間に報復を受けて、 孤立しました 進一は、武との新しい関係を作りたいと思ったのですが 武はそれを拒否し、最後に進一が転校する所で、武が進一を 追いかけるところで終わっています このストーリーで武は、最後に報復を受け、その社会である学校でも孤立しました 進一は、何か運命のようなもので武から離れて行ったと理解します 実際の社会でも、このようなものでしょう 武は恐怖政治によってクラスを支配していたので歓迎はされていないし、 進一が軟弱とも思いません 大津市皇子山中学校のイジメ事件でも、同じような結果になりました

noname#250543
質問者

お礼

やはり恐怖政治は歓迎されないし、崩壊するのですね

noname#181154
noname#181154
回答No.1

こんばんは。 恐怖を与える人を歓迎するのは無いんじゃないかと思います。 進一(知りませんが)君も嫌ですね。 何されてもヘラヘラ愛想笑いするタイプでしょうか? 危機感持った方がいいですね。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 》こんばんは。 恐怖を与える人を歓迎するのは無いんじゃないかと思います。 唯怖いから従っていただけだと思います。 》進一(知りませんが)君も嫌ですね。 何されてもヘラヘラ愛想笑いするタイプでしょうか? 危機感持った方がいいですね。 可笑しいが逆らえない自分に葛藤する描写もありました。

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  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人       工的な性格のものとがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性       格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度       として固定させようとして出来たもの。        身分関係。世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度としての       社会力学的な交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて        いる社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはや堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  ご教授ください。

  • 戸塚宏校長が望むべき人間とは

    戸塚宏校長はヨットを通じ登校拒否や引きこもり等様々な問題を解決された事は皆様もご存知の事と思いますし、私自身もそのあたりは大変評価したいと思うのであります 唯 いじめは相手の弱点を無くし、鍛えるといじめ推奨の論理をマスメディアで繰り返し語っておられます そして、一つの集団(クラスや部活動)でも、別に支配したくもない、それぞれがそれぞれで良いと云う感覚の人間は偽善者だと云う様な事を何かで云っておられました 一つの集団でも支配するかされるかと云う感覚が好きらしいです 戸塚宏校長の感覚を整理しますと 1体罰、いじめ、喧嘩嫌いの人間が多いので、弱い人間が増えた 2 その様な人間を鍛えるべく、戸塚宏校長の体罰を行使する 3 以上でも以下でもない感覚の人間関係で日常生活を送っている人間は非難され、常に争い、強いから従うそしていじめも推奨する人間が好まれる と云う事だと思います 私は戸塚宏校長が問題のある人間を立ち直らせた、これは評価したいと思います そして、罰則としての体罰はある程度なら良いかと思います 又今の酷いいじめや暴力はれっきとした犯罪だと思います、体罰よりも法的に罰則を設けるべきだと思います 私は戸塚宏校長が社会生活を送れていてもいじめや喧嘩嫌い、以上でも以下でもない人間を駄目な奴軟弱者と云っており、強いから従い、いじめや喧嘩を繰り返し、支配するかされるかと云う中で生きている人間の方が正常と云う事に矛盾を感じます ご回答を頂戴出来れば幸かと思います

  • 《にんげんの前史》を終えてみませんか。

     にんげんの前史を終えるということ(!?)について――あらためて――問います。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人       工的な性格のものとがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  ご教授ください。  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度においてすでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

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