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豊臣秀頼の話す言葉

WiredLogicの回答

回答No.2

>秀頼の話す言葉ですが、現在の大阪弁に近い言葉で話していた可能性は ありますでしょうか。 なかったと思います。 時代劇の江戸では、侍の使う言葉と、町人の使う言葉には、ハッキリとした違いがあり、実際に、ああいうふうにしゃべっていたかは別として、違っていたことは、間違いない、 昭和の、それも、戦後になってからでも、城下町で、お館(やかた)言葉と町場(まちば)言葉は、ハッキリ違う、ということはありました。お館言葉を使う階層は、早い段階で、表向きでは、共通語を使い、内向きでも、段々、そっちメインになったりしたため、方言としては、町場言葉だけが残ってしまったため、お館言葉自体、今となっては、ほとんど誰も知らないものになってしまった、ということだと思います。 博多・福岡市では、博多が商人主体の町、福岡が御城下の地名(福岡は、元々、黒田家の本拠地の地名で、それを博多に持ち込んだ、市の名前を決めるときも、それですったもんだがあり、市の名前は福岡だが、駅の名前は博多になった、今でも、生粋の博多地区の住人は、自分の出身地を、福岡だと言いたがらない^^)、と、ハッキリしていて、長谷川法正のマンガ「博多っ子純情」では、博多地区出身で、そこの高校に通う、バリバリの博多弁をしゃべる、主人公の男子高校生が、隣の福岡地区にあり、上品な福岡弁(お館言葉)を使う女子高生にメロメロになる、というシーンがあります。今では、博多弁に押されて、福岡弁は風前の灯ですが、城下町なら、どこにでも、目立つ目立たないの違いはあっても、似たようなことがある/あったはずです。 竜馬の出てくる映画・ドラマなどで、郷士である、竜馬や岡田以蔵は、バリバリの土佐弁をしゃべり、上士である後藤象二郎や、郷士でも上士相手に出世を目指す武智半平太は、時代劇で一般の侍が使う言葉を使い、プライベートでは土佐弁が混じるものの、竜馬のようにはしゃべらない、というような演出がされていますが、実際の言葉がどのくたいその通りだったかは別として、そのような身分による言葉の違いは間違いなくあったでしょう。 時代が違うので、そのままの議論が通用する訳ではないでしょうが、普通の大名でも、こういう具合ですから、秀頼の場合には、大阪城の外へは一歩も出ない(関ヶ原のように、秀頼が、幼児だろうが何だろうが、形だけでも出馬すれば、大勝利できた可能性のある局面でも)生活で、生まれながらに、形式的には関白、実質武家の頭領として、ふるまわなければならない身分であれば、それ相当の言葉の教育がされたでしょうから、町場言葉である、現在の大阪弁をしゃべったとは、到底考えられず、周りに仕える武士のお国言葉の影響があったとしても、織田家ゆかりなら、尾張・美濃、秀吉が自ら召し抱えた武士は、主に近江出身、ということで、そういうお国言葉の影響があったとしても、大阪弁にはならないでしょう。

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