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梵我一如と仏教の関係

neil_2112の回答

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  • neil_2112
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回答No.2

大まかに言うとかつてのインドの宗教思想や規律がまとまったものをヴェーダと言い、そのなかでも後代にまとまった哲学的思想がウパニシャッドと呼ばれます。「梵我一如」というのはそのウパニシャッドの中の最重要な考え方ですね。 基本的には仏教はウパニシャッドを否定するなかでできたものですから、梵我一如が仏教にとり込まれたとか、仏教がそれを受け継いだ、ということはありません。 梵我一如というときの我は、アートマン(atman、発音符は除きます)の漢訳語です。このアートマンというのは、ちょうど有名なデカルトの懐疑で表れる主体のように、疑っても疑っても疑う主体として現れてどこまでもそれを否定し得ない、懐疑の一番メタレベルに存在する、唯一至上の主体として想定されました。思惟のなかではどこまでも客体として扱えない、従って言葉では常に「~ではない」という否定を重ねる仕方でしか表現できないとされます。 つまり、アートマンというのは基本的には「私」という個別の実体を支える「本質、そのもの」と言ってよいものです。これは私を成立させる原理であると同時に、心臓に位置すると考えられる実体的存在でもあります。ウパニシャッドではもちろん輪廻を想定するのですが、アートマンはその際に自己同一性を保つ実体でもありますから、一面では具体的な「魂」とも考え得るわけです。 このアートマンが梵つまり宇宙の本質であるブラフマン(brahman)と実は一体であって交換可能な概念である、というのが梵我一如の思想ですね。恐らくいろいろなウパニシャッド書のなかで一番有名な言葉が「それはアートマンである」「自己はブラフマンである」といった短い聖句ですが、これがブラフマンとアートマンの究極的な合一を表すものとされています。(事実、サンスクリット語ではアートマンという言葉が「ブラフマン」を意味する場合がかなりあって、両者は相即的な関係にあります) 要するに、対象化すらできない自分の本質が世界全ての本質と通じている、ゆえにそこではすべての物がひとつのものになりますから、当然、個々の人間同士の差も問題にならなくなるし、善と悪だとか人と神といった一切の分析的な区別も超越される、というのがウパニシャッドの理想とした境地なのです。その合一は言語を離れた瞑想のなかでしか感得できないものとされます。宗教学の術語で言えば一元論的な神秘主義思想ですね。 一方、このような思想とは異なって、仏教では固定的な実体をもった「本質」なる存在を認めません。原始経典にもあるように、「私にはアートマンとしての我は存在しない、従ってアートマンに属するものとして我がものも存在しない」という認識が苦を離れるための仏教の実践の基礎にあるのです。 個々の事物が互いに関係し合いながら本質(仏教では自性と呼びます)を持たずに存在し、変化を続けていく姿を仏教は「縁起」として捉えました。言わばあるがままを根本原理としたのですから、永遠不滅にして普遍の実体を認めるはずがありません。これは初期仏教でも大乗仏教にも共通していますし、法体恒有(ほったいごうう)を唱えてモノの背後に実体を想定した有部という部派ですら、人間については何ら実体的存在を仮定しなかったのです。 仏教をかじり出した人は初期仏教と大乗仏教の差が気になるのですが、本質的には大乗仏教の始まりにあたる空観という思想は、隘路にはまった有部の思想と決別して釈迦の縁起説を復活させようとした言わばルネッサンスです。従って、ことアートマンに関するような根本的問題について両者の違いを論じるのはナンセンスです。 事実、八宗の祖などと言われ、大乗仏教の思想的基礎を確立した竜樹(ナーガールジュナ)は、『中論』という書物の中ではっきりと「我(アートマン)と我所(アートマンに属するもの)が無いことを知るところに解脱が生まれる」とか、「われわれは一切の縁起を空と呼ぶ」と書いています。これは明かに釈迦の縁起を正統に受け継いだもので、実体ありきの梵我一如の考え方とはまさしく正反対です。 そもそも、仏教が旗印とする縁起の思想から生まれた「無我」という考え方は、サンスクリット語ではアナートマン(anatman)と言います。この語頭のanは「無、非」の意味を持つ接頭語です。例えばaryaというのは「アーリア的な、高貴な」という意味ですがanaryaとなると「アーリア的でない、下賎な」という意味になります。つまり、「アートマンに非ず」という意味のアナートマンという言葉からして、仏教がアートマンを肯定する立場をとらないことは歴然としています。 あるいは原始経典に頻出する十無記、十四無記などを考えてもよいでしょう。釈迦は、「アートマンは存在するのか」という問いに対しては常に答えを保留したとされます。 要するに、仏教というのはヒンドゥーつまりインド的なものの中では基本的に異端なのです。例えば14世紀にマーダヴァが著した『全哲学綱要』という書物では、ヒンドゥー教の立場からインドで起こった合計16の哲学説をそれぞれ解説しているのですが、仏教はヴェーダ聖典の権威を認めない3つの異端のひとつ、という扱いを受けています。 ヒンドゥーにとって一番劣っているのは精神を認めない唯物論ですが、仏教はそれに次いで劣った思想、とされています。それというのも結局アートマンを認めないからなのです。一方でジャイナ教は3番目に劣った思想という位置づけです。ヴェーダは認めないけれどもアートマンの存在を認めるジャイナ教が仏教よりはまし、とされるというのは、ヒンドゥーにおけるアートマンの重要性を雄弁に語っていると思えます。事実、現在に至るもジャイナ教はインドで命脈を保っているのに対し、仏教は早くに滅んでしまいましたね。(むろんこれには、仏教がヒンドゥー教に近づいたためにインドでは価値が薄れてしまったという5~6世紀以降の歴史もあるのですが、ここでは重要な問題ではありません) 概ね、梵我一如を肯定しない仏教の立場は以上のようなものです。 さて、なぜその仏教が梵我一如と関係づけて説明されるのでしょうか。正直なところ私にもわからないのですが、いくつか誤解を生んだ理由は考えられます。 ひとつは、輪廻や業というインドでは空気のような考え方が結果的に仏教にとり入れられたこと。このことがアートマンまでとり入れられたという錯覚をもたらしたのでしょうか(そうだとするとあまり程度の高い誤解ではありませんが)。 次に考えられるのは、原始経典にbrahmana(=バラモン)の言葉が出てくることです。ダンマパダなど初期経典には、「欲望を鎮めた清浄なものはbrahmanaとなる」といった具合に、涅槃の目標としてバラモンを意味するbrahmanaという言葉が多く出てきます。もちろんヴェーダにいう支配階級としてのそれではなく、「高い地位」というニュアンスを表面的に拝借して「徳のある人間」という意味で使っているわけですが、内容を一顧だにしない人間にとってはあたかも仏教がブラフマンとの合一を願うように見える…のかも知れません。 この他にも理由はあるのでしょうが、あまり詮索する価値は無いかなとも思えます。 このサイトで「梵我一如」を検索してみるといろいろな回答が出てきます。内容の批評は控えますが、梵我一如を仏教が受け継いだというのなら、どこをもってそう主張し得るのか、ヴェーダと経典の対照を示して頂かないといけないでしょうね。

noname#9289
質問者

お礼

どうも回答ありがとうございました。 とても気迫のある熱い回答を頂きまして感謝です。 完璧な理解はできないんですが、自分の疑問は100%解けました。どうもありがとうございました。

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