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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:与えられる人しか与えられない。)

与えられる人しか与えられない

noname#141408の回答

noname#141408
noname#141408
回答No.8

>与えること=自分から何かを奪われるような気持ちを強く感じます。 何もせずに何かを貰おうなんておかしな話ですが、抵抗感を凄く感じます。 これは現代日本では当然の感覚です。与えて貰う=自分が得をする 与える=自分が損をする という考え方です。 聖書では、一番になりたければ、他人に仕える者になれと書かれている箇所があります。聖書はキリスト教の経典ですが、他にも論語、仏教経典も同様な内容は必ずあるでしょう。 聖書は特に他者に与えるという発想が強く、命を捨てよと明記されている箇所が複数個所あります。物を与えるのではなく、命をも与えよと言うのですから究極的です。 私はこれが非常に困難で、仏教の瞑想系の教えに傾倒した時期がありました。 目の欲、耳の欲、舌の欲、その他の欲から自分を解き放ち、与える事からも与えられる事からも逃れたかったのです。 【質問に対する回答】 なぜ与えることが怖くないのか まず逆に与えられることが素晴らしいのは ○自分の得を優先して自分中心に発想し、どこまでも他者を利用して死ぬまで自分を充足させていけるから ○自分の所有物を増やし、他人の所有物を減らしても自分の安全を図っていけるから 与えることが怖くないのは (1)死ぬ時。モノを抱えて死ねないので不要だから。 (2)自分がつまらない人間だと悟った時。つまらないのだから、思い切って与えてみよう。 (3)自分が世界制覇した時。世界の帝王に君臨できないなら、一生その時は巡って来ない。 【検討】 (1) ⇒  死ぬときまで待つしかない (2) ⇒  自分を神仏に対比させ、経典の教えの中で「与えよ」「許せ」と説かれているので実行している。      神仏を自分より偉大であると認識する事が不可欠である (3) ⇒  一般的日本人の価値観 釈迦は王子として何不自由ない生活を捨て悟りを開きました。愛された経験は果たしてあったのでしょうか?キリストは無実の罪で十字架上で磔になり死の途中で父に苦しみを述べています。 >与えなければ、認められない、愛されない、価値がない。 と書いておられますが、 まず「認められるとはどういうことか」というテーマについて書かれた書物を自然科学、動物学、哲学、宗教学等において読まれ考察される事をお薦めします。 動物学を例に挙げれば、北極熊、ラット、チンパンジー......色々な動物が認められる為にどういう生殖活動や闘争をしているか考え最後に人間に関しても考察してみる、次に「価値」とは何か考えてみる.....企業家の価値観、僧侶の価値観、冒険家の価値観、多種多様な人に次々に会ってみて(会えないのであれば講座等)最後に自分の価値観に関して考えてみる.........そこでまた、「価値」という観念について哲学や宗教や歴史(第二次世界大戦前の日本社会上の価値観など)における価値を考えてみる.....とやってみてはどうでしょう。 子供時代がどうこう、といった定義をしているのは、心理学だけです。 心理学だけかじっていても人生は広がりません。人間は自分に都合の良い事を、自分に都合良く学ぶこともありますので、必ずある定説に対する反対意見の学説も読んでみる必要があります。ひいては、一つの分野だけではなく、様々な分野に触れて『与える』という行為に関して考えてみてはいかがでしょう。 与えるという行為は確かに宗教に親和性の強いものですが、他分野でも取り扱う機会は多数あると思います。

shibitonoKEN
質問者

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ありがとうございます。

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