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形而上学を学に至って

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.2

 ご参考になることをお伝えしようと存じましたが、プロフィールのところも公開されていませんで、どう書いていいのかわかりません。  小学校や中学の先生などでご相談できる人はいないのですか?  ともかく貴方の文章を翻訳しながら(私として理解しながら)、少し書いて見ます。  タイトルの【形而上学を学に至って】は【形而上学を学ぶにあたって】ということですね。 【形而上学に興味がある】とは、【形而上に関することがらを取り扱う学問などに興味がある】ということですね。しかしそういう関係のお仕事としては大学などの研究者か先生、或いは牧師さんや僧侶などとなりますね。或いは広くとって、心理学や社会学の一部分野になりますね。  或いはどんな分野の学問もそして仕事も、実学的に扱うこともできれば、形而上的に扱うことも出来るものです。  例えば、法律だって法哲学という分野もあるし、貴方の仰せの神の事だって、宗教学や宗教歴史、宗教民俗学、宗教社会学という形而下学もあります。  地球やものの存在論での理論物理もあるし、その価値的分野から創成を扱う専攻分野もあります。 むしろ何故に、どういう目的で、どんな内容として【(神の存在、人間の存在、地球や宗教について。)】をやりたいのかをもっと煮詰めることが必要ではないですか。  自己に問い詰めることが不足しているし、申し訳ないがそういう問題での友人との付き合いも読書も必要であると存じます。  私は、敢えてお節介の口出しをしていますが、むろん大学入試の資格を取るのが先決であり、そして社会科学か人文科学の学科を選択することだと存じます。  ともかくそういう一つをかじることから手探りしてはいかがですか?

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      かつて宗教カテは存在していました。 しかしある時期(2000年12月21日とされる)をもって宗教カテは消えたのであった。 その理由については、以下を見れば分かります。 http://okwave.jp/qa/q6616400.html 簡単に結論すると宗教に関する質問、議論、問題提起は口論になりやすく、管理上収拾がつかないので消されたということです。 つまり宗教一般には自浄能力が欠けているってことなのです。 神や仏を語る者に限って、自らを清める能力を欠いているって証拠なのです。 ではあるが宗教カテはやはり残すべきであったのではないか。 その理由は、宗教と哲学は厳然として異なるからです。 宗教は信じるものであって、神や仏を論じるもの、天国や地獄などあの世について信じ語るもの、その他これらに関連する奇跡とか終末とか末法とか戒名とか葬式事とかの儀式的なものの類です。 一方哲学は純粋に真理の探求であってその中心は人間と宇宙の正しい理解です。 宗教カテが存在しない現状においては、宗教は哲学とは無縁のものであるにも関わらず、あたかも哲学であるかのように錯覚して、神学やら仏教やらを哲学カテの中で論じているのですが、この状況は哲学にとっては甚だ迷惑なことなのです。 神や仏、天国や地獄、また奇跡や終末や末法や戒名や葬式事について語りたいのであれば、その共通世界の中で思う存分、徹底的に語ればよいのではないでしょうか。 その結果地獄絵のような議論が巻き起こるかもしれない。 しかしそれが宗教の本質を物語るのであれば、それはそれでよいのではありませんか。 それ故やはり宗教カテは残しておくべきであったと思うのですがどうでしょう。