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「前九年・後三年の役」の呼び名の由来は?

日本史に詳しい方、どうか教えてください。 平安時代後期の「前九年・後三年の役」ってありますよね。 鎌倉時代初期までは、前九年の役は「康平の十二年合戦」と呼ばれていたと古今著聞集にあるのですが、ではいつ頃からどういう由来で「前九年の役」と呼ばれるようになったのでしょうか。 同じように、後三年の役も、後白河法皇が後三年合戦絵詞をつくったことからそう呼ばれるようになったことまでは分かっているのですが、その後三年という言葉がどこから出てきたのか分かりません。 やっぱり、「前・後」というからには何かから起算して9年だったり3年だったりするんでしょうか? 学校の先生に聞いても「知らん」と言われてしまいます。よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • rost
  • ベストアンサー率38% (8/21)
回答No.2

源頼義と安倍氏の戦いは、古くは、「奥州合戦」とか、「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。それが、「前九年の役」と呼称されるようになったのは、鎌倉時代からです。ところが、この九年という年数がどこから出されたものかは甚だあいまいで、恐らくは十二年合戦というのを源義家の「後三年の戦い」を合わせたものと錯覚し、十二年から後三年を差し引いて出された年数と考えられます。もっとも、十二年合戦という呼称は、頼義が陸奥守となって赴任した永承六年から、安倍氏との戦いの終結する康平五年まで足かけ十二年に及んだことに基ずくのですが、実際に十二年の間戦闘が行われたわけではなく、こうしたことも後に誤解を生む原因の1つにもなりました。

nana777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「九年」には確固たる由来のようなものはないということですね。 私は三週間ほど前にPCを購入したんですが、知り合いの誰に聞いても分からなかったことを、見ず知らずの方にこうして教えてもらえるなんて・・・感動しました。 大変勉強になりました。

その他の回答 (1)

  • j-dream
  • ベストアンサー率40% (10/25)
回答No.1

前九年の役(1051~1062)、後三年の役(1083~1087)の名称は、それぞれの戦闘期間が由来していたように思います。私は歴史が苦手なので確証はありません。例えば後三年の役は戦闘の始まりから終わりまでは5年ほどですが、実際に戦闘のあった期間が3年なので後三年の役と命名されているようです。前九年の役も同じ理由と思われます。またそれぞれの頭についている「前」と「後」は、二つの戦乱の繋がりを意味しているのではないでしょうか?前九年の役は安部氏vs源氏・清原氏、後三年の役は源氏vs清原氏であり、大局的に見れば一つの戦乱と言うこともできます。専門外なので事実誤認があるやも知れませんが、歴史は本当に奥が深くて面白いですよね。

参考URL:
http://www.obako.or.jp/sennan/sougou/gosan.htm
nana777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 この質問をする前に、自分でもサーチエンジンを使って調べてはみたんですが、教えていただいたURLにはヒットできませんでした。何せ超初心者なもので・・・。 日本史は世界史と違って一国史のため、狭くて深くて一つのことを調べるにも大変です(だからおもしろくもあるのですが)。 しかし、歴史が苦手とはご謙遜ですね。充分博識ですよ!すごい!!

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