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キリストの最期の心境の変化?

ray_rayの回答

  • ray_ray
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回答No.3

エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ、ですね。 さまざまな説があるようですが、有力なもののひとつがNo1さんも 書いていらっしゃる、詩編22編の最初を口にしたという説です。 かなり長いのですが掲載させていただきました。 最初は神を遠く見捨てられたように感じる気持ちからはじまり、 自分を囲む者達に嘲笑され、侮辱され、精神的苦痛を味わい、 しかし最後には神への信頼と賛美で終わる詩です。 イエスは神の子ですが、まことの人間でもあったので、 弟子は逃げ出してしまってひとりぼっちになってしまい、 十字架に付けられ、周りの者に「神ならば自分を救ってみせろ」と言われ、 死が目前に迫っているという状況で、人間なら当然感じる苦しみの中にありました。 まさにこの詩の前半部分の状況です。 しかし、イエスは最後には「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、 心から信頼しているのだということを口にしました。 神を信じる・信頼する詩ですから、矛盾はしていないのだと考えられます。 ちなみに、他の説もありますよ。 これが絶対ってわけではないと思います。 それこそ「神のみぞ知る」なんでしょうね。 -------------------------------------------------------------- 詩編22 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。 夜も、黙ることをお許しにならない。 だがあなたは、聖所にいまし イスラエルの賛美を受ける方。 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われて来た。 助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い唇を突き出し、頭を振る。 「主に頼んで救ってもらうがよい。 主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。」 わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。 母がわたしをみごもったときからわたしはあなたにすがってきました。 母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。 わたしを遠く離れないでください 苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。 雄牛が群がってわたしを囲み バシャンの猛牛がわたしに迫る。 餌食を前にした獅子のようにうなり 牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。 わたしは水となって注ぎ出され 骨はことごとくはずれ 心は胸の中で蝋のように溶ける。 口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。 あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。 犬どもがわたしを取り囲み さいなむ者が群がってわたしを囲み 獅子のようにわたしの手足を砕く。 骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。 主よ、あなただけは わたしを遠く離れないでください。 わたしの力の神よ 今すぐにわたしを助けてください。 わたしの魂を剣から救い出し わたしの身を犬どもから救い出してください。 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い わたしに答えてください。 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え 集会の中であなたを賛美します。 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。 イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。 主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。 御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。 それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。 いつまでも健やかな命が与えられますように。 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。 王権は主にあり、主は国々を治められます。 命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。 わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。

kondog1969
質問者

お礼

ありがとうございます。時間をかけて吟味させていただきます。いまはまだこれを読んでも勉強不足で認識できません。お恥ずかしながら。

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