• ベストアンサー

きみはヨブを見たか。

noname#135843の回答

noname#135843
noname#135843
回答No.42

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。 > ☆ なるほど。おっしゃるとおりだと納得しました。それでこそ科学ですよね   ご同意くださり、誠にありがとうございます。 > ★ ナチスとの協力  ☆ これは やはり映画で『枢機卿』というのを見ました。これは アメリカ人で枢機卿になるという人の話でした。かれは オーストリアの司祭が ナチスに協力的であるので 諫めに行っていました。そういう側面もあったのだと思いますが 微妙ですね。日本の仏教界と言い。  少し話が変わってしまいますが、 ”宗教法人“ and ”売買“でGoogle検索してみますと、多数ヒットしてきます。確かに「信教の自由」は認められるべきでしょうけれど、日本の”宗教法人法“には、メスを入れる必要があるのでは? と考えさせられます。 > ○ 第二の死  ☆ 大きな議論になりましたね。黙示録は すいぶん久しぶりな感じがします。  まづ アウグスティヌスは 《予定説》ではなく《予知説》だと思います。人間がその自由意志で行為すること 一人ひとりの人間がそれぞれ簡単に言って善と善でないことの二つの方面での意志行為をなすこと これを神は予知しているというものだと考えます。  《予知説》なのですね。ご教示いただきまして、どうもありがとうございます。 > いま敢えてアウグスティヌスらの解説を見ずに考えますと  1. 第二の死は 第一の死 これが死ななくなると聞いています。 2. だとすると 第二の死に落ち入ったひとは いい加減長く生きていて 死にたくても死ねない状態にあると捉えられます。 3. こころは熱く燃えるが からだは冷えている。もしくは その逆の身と心の状態に落ち入りつづけている。 4. 永遠の火の中にある。と言うのは 想像しがたいので わたしは 《深い谷を まっさかさまに落ちて行きつづける状態。一万年のあいだ。しかも 意識が失われることがないという》と捉えたことがあります。 Hidocchi さんとの違いをわざと出すとしますと まづ《地獄》も第二の死も その当人の問題だと わたしの場合 捉えていることです。地獄の状態にいたいと言うのであれば そのまま放っておきます。  つまり、「来るものは拒まず、(第二の死へと)去るものは追わず」というところでしょうか。 “確かにそちらの方が快適だ!”と思う人もおられるでしょうから。愚生にも十分頷けるところがございます。この現実世界には“エントロピー増大の法則”なるものが存在します。つまり、全ての事象とは乱雑な方向に進んでいくというものです。この方向性に自然と進んでいくひとも確かに否定はできないように考えられます。 (“レポートエントロピー増大の法則” からでございます)  一方、以下のような説も立てられました。確かに“負のエントロピー”自体はその存在は否定されておりますが、ひとにはエントロピー増大とは”逆方向の意志”は存在しているものと解しております。(例えば、若いときのように、ハリのある肌でいたい。それには、コラーゲンの入った食事と適度な運動をする 等でございます)  生物学にけるエントロピー 「シュレーディンガーは、生命をネゲントロピー(負のエントロピー)を取り入れエントロピーの増大を相殺することで定常状態を保持している開放定常系とした。負のエントロピー自体は後に否定されたが、非平衡系の学問の発展に寄与した。」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC#.E7.94.9F.E7.89.A9.E5.AD.A6.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.82.A8.E3.83.B3.E3.83.88.E3.83.AD.E3.83.94.E3.83.BC からでございます。)   > もっとも パウロは あたかも人間が裁定する場合があるということをにおわせてもいます。まづ大前提を述べます。 ▲ (コリント前書3:6-7) ~~~~~~~~~~~~~~ わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そのあと次のように 自分の務めないし役割について触れています。 ▲ (同上4:1-29) ~~~~~~~~~~~~~~~~ こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計をゆだねられた管理者と考えるべきです。 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 確かに、初めて愚生がパウロのこの文章を読んだ際には、ある意味衝撃を受けました。普通は謙虚なのに、ここでは、言ってのけているからでございます。パウロ=神の啓示を受けたもの との考えから、コリント人への自省を促すために敢えてかような発言をしたものと解しておりました。ですが、bragelonne様のような解釈も十分、検討の価値があろうかと思われます。“ひとたるものも、軽視すべきものではない”このことは、断定できようかと考えております(どこに預言者がいるかわかりませんから)。 > 道が広がればいいのですが こればっかりは またまた崖っぷちの議論になった模様です。このわたくしの大胆ぶりは どうしたものでしょう? (この《4:1-2》の内容について 考えがあるという意味ではありません。何もありません。ひとえに 《預言=解釈》が一般的に ありうるのではないか。つまり 明らかにしていただいたように 第二の死についてのそういう意味での預言もありなのではないか。こういう思いです)。  まさしく、“円月殺法”を受け(!?)ました。bragelonne様の凄まじく深い“思弁的”解釈には、恐れ入ります。“崖っぷちの議論”とのご感想でございますが、いえいえ、案外中道を行っている可能性も否定できなものと解しております。  駄文、ご一読賜り、厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。またわたしが出しゃばってしまったようで もう少しきちんと用意してものごとは言い出すのがよいのかも知れません。ご回答をありがとうございます。  ただ いまは試行錯誤だと思っております。そうしてわたしの心つもりは 簡単に現代人にとって分かりやすく説明できて 信仰と矛盾しないのならば よいかなという単純なものではあります。またそういった主題や課題を ここでも質問してきているかと思います。  神のみこころに誤って触れると分かったときには そうですね まづむろん《預言=解釈》という姿勢は外します。さらに もし社会的な施策などとして一応妥当なものであればただちに いくつかある選択肢のひとつとして社会思想の問題に切り替えます。あぁ ずるい!!  ★ ”宗教法人“ and ”売買“  ☆ なるほど 税制では優遇されていますからね。もっとも 営利事業とはっきり分かるものであれば 宗教関係の非営利事業とは分けて 税率など一般と同じ条件で課税されますけれど。  ○ 第二の死  ☆ けっきょく 《関係の絶対性》に例外は出ないという線も 可能性を残しておきたいとも思います。  ということは どうも特定の二人なら二人のあいだで どういうコミュニケーションが行なわれて来たのか その内容に即して 相手の態度や思想を 《第二の死》に関係づけて捉えることもありうるとも言えるし いやそれは 或る種の仕方で一過性のことなのかも知れない。――このように いまだに流動的な見方のもとにあります。  ★(要約) 生物学におけるエントロピー:片やエントロピーの増大の法則の側面と 片や非平衡系の学問の発展の側面と。  ☆ 散逸構造とか 非線形とかでしょうか? 昔エントロピーという話を聞いたときには あぁ もう未来は呪われているのかと思ってしまったものでした。新しい発見もあるのですね。  ★ まさしく、“円月殺法”を受け(!?)ました。  ☆ これについては最初に思いを述べました。けっきょく こういう方面でいろいろ考えていましたので いわゆる哲学史ですとか 思想をめぐってその思想家の生きた時代やその社会情況などなどについての勉強をおろそかにしていました。ただただ そういう事情で来ているというだけのことで 一般から見れば特殊であったかなと いまごろ思っております。  軌道修正と言いますか 今頃 開放系に切り替えております。  いづれにしましても かのなぞのちからが《成長させてくれます》から その下にすすんで行きたいと思います。いろいろ 突っ込んでくださいませ。

関連するQ&A

  • きみはヨブを見たか。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神はヨブが試されることを悪魔に許した。  ヨブは試された。  悪魔は困惑させられた。  ヨブが神を自由に礼拝すること 神を自由に愛することを見出したからです。  神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。  ヨブは言っております。    主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。    主の御名はほむべきかな。(1:21)  と。試練の火はかれに迫った。  しかし その火はヨブが藁ではなく金であることを発見した。  その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。  (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    なおここから出発したい。  さらにこれを哲学のことばで表わして行って欲しい。    ○ 能天気  ○ 聖なる甘え    むろんヨブやアウグスティヌスへの批判をもまったく自由にお寄せください。

  • マタイの福音書 6:7について教えて下さい。

    神学や聖書学に精通した牧師や伝道師に尋ねるのが正しいのかもしれませんが、 なかなかそんな機会やタイミングというのはありませんし、 こういうweb上なら、 先入観なしに答えて下さる方がおられる場合がありますので、 どうぞよろしくお願いいたします。 ”あなたは祈るとき、異邦人のようにくどくど祈ってはならない” とありますが、 クリスチャンの方(私もクリスチャンですが)は結構長めに祈っておられますが、 また、祈祷会などもおこなって祈り合っておられますが、 それをくどくどとも考えられますが、 それをしなくても、そのあとに続くみ言葉の、 全能の神さまは祈り願う前から全てご存知なのでは? と考えてしまうことがあります。 これはひとつの私の長年の疑問であります。 マタイの福音書はユダヤ人向けに書かれたという背景は習っております。 異邦人というのもユダヤ人以外の、 例えばギリシャ人や異教徒を指すという解釈も習いました。 では、 1.”くどくど”という言葉を日本語に訳すのが難しかったのでしょうか? 2.それとも”くどくど”が適切な訳だとして、異邦人は祈りに1時間も2時間もかけていたから、それについてイエスさまはこう仰せになられたのでしょうか? もちろん、私は毎朝、そして就寝時、勤務前、勤務中、勤務後、 嬉しいとき、悲しいとき、そして礼拝のとき、また、他者のための執り成しを祈っています。 祈りというのは神さまへの霊的な話しかけであり、 神さまと聖霊さまとの親しき交わりだと思っています。 祈らなくて良いなどとは決して思っていません。 しかし、このマタイの福音書 6:7をそのまま解釈すると、 そのあとの主の祈りだけで良いのではと思われます。 繰り返しますが、 祈りが主の祈りだけで充分とは思っておりません。 主の祈りは基本であると思っています。 私は自分の人生で祈らずにはいられないほどになっています。 また、最近、 福音を宣べ伝える伝道者の補佐役として神さまに仕える立場になったので、 こんな愚かで弱い私を用いてくださったので、 その私自身が、 疑問を持って人様に伝道してはいけないと思うので質問させてもらっています。 福音書を初めて読まれて、 私と同じような疑問を持たれた方のためにも、 答えられなければならないと思うので質問させてもらっています。 ※しかし聖書は、  一生涯かけても解らない部分・疑問点があるのも理解しております。  核心部分を理解することが大切だというのも、  最近、伝道師の先生に教わりました。 長くなりましたが、 マタイの福音書 6:7について、 また、上記の1と2についての私の質問の回答もしくは意見を、 どうかよろしくお願いいたします。

  • 人間が神を揚棄する。あなたはどのように棄てるか?

     次のような《神のことば》を人間の命題――判断内容――として表わすにはどうすればよいか? という問いです。  ▲ (イザヤ書1:18~26;2:1~4)~~~~~~~~  論じ合おうではないか、と主は言われる。   たとえ、お前たちの罪が緋のようでも  雪のように白くなることができる。  たとえ、紅のようであっても  羊の毛のようになることができる。  お前たちが進んで従うなら  大地の実りを食べることができる。  かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。  どうして、遊女になってしまったのか 忠実であった町が。  そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに  今では人殺しばかりだ。  お前の銀は金滓となり  良いぶどう酒は水で薄められている。  支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり  皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。  孤児の権利は守られず  やもめの訴えは取り上げられない。  それゆえ、主なる万軍の神 イスラエルの力ある方は言われる。  災いだ   わたしは逆らう者を必ず罰し 敵対する者に報復する。  わたしは手を翻し  灰汁をもってお前の滓を溶かし  不純なものをことごとく取り去る。  また、裁きを行う者を初めのときのように  参議を最初のときのようにする。  その後に、お前は正義の都 忠実な町と呼ばれるであろう。  ・・・  アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。  終わりの日に  主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち  どの峰よりも高くそびえる。  国々はこぞって大河のようにそこに向かい  多くの民が来て言う。  「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。  主はわたしたちに道を示される。  わたしたちはその道を歩もう」と。  主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。  主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。  彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。  国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たたき台です。  (α) われわれは 一人ひとり 白紙に戻る。タブラ・ラサとなる。神という観念についてエポケーする。もっと言えば 能天気となる。  (β) 《オシへをいだく・守る オシへを説く者にしたがう》 こういったナラハシから自由になることではないか?  ローマ教会の権威は ゼロであると宣言すること。  神を持ち出して 同じ人間をさばくことから自由になること。  人間の名で・自分自身の考えで 自分をも他人をもその思想について自由に批判し合うこと。  (γ) 人間と人間との話し合いが すべてではないか。神は すでに・そして初めから 普遍神であるのだから もういっさいわれわれの人間どうしの話し合いには――待ったなしの場合などを別として――出さない。出す必要がない。  ☆ けっきょく神のことばは 或る意味で――非思考の庭にあって・主観としては――受け継いでいるのだと思いますが 果たしてみなさんはどうでしょう。

  • 原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

     ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。

  • アルファベットのカタカナ変換をお願いいたします。

    こちらはある魔導書に書かれている召喚魔術の呪文(祈祷文)なのですが、単語の一部がアルファベットになっており、正しい読み仮名と発音等がわかる方はおりませんか? 英語や英単語、アルファベットの読み仮名に詳しい方はどうかアルファベットの部分をカタカナ読みに変換していただけますと幸いです。 よろしくお願いします。 『"我は汝を求め、そして呼び出す、おお、悪魔 〇〇 よ。 至高なる神の力を得て、我は汝に強く命じる、 BERALANENSIS 、BALDACHIENSIS 、PAUMACHIA 、 そして APOLOGIAE SEDES によって。 最も強力なる王子達、Genii 、Liachidee 、 そして Tartarean に住まう大臣達によって。 さらに第九の軍勢 Apologia の玉座の第一王子によって、 我は汝を召喚する、汝を呼び出す呪文によって。 そして全能なる神の力を得て、我は汝に強く命じる、 語り、それを果たした、全ての創造物を従わせる彼によって。 そして我、神の姿に倣い、神より力を与えられ、 彼の意思のままに創られた者が、 最も強大かつ強力な神の名、 強く素晴らしき EL によって汝を召喚する。 おお、汝、悪魔 〇〇 よ。 我は汝に命じる、 言葉を語り、成し遂げた彼によって、 そしてあらゆる神の名によって。 さらに ADONAI 、EL 、ELOHIM 、ELOHI 、EHYEH ASHER EHYEH 、 ZABAOTH 、ELION 、IAH 、TETRAGRAMMATON 、SHADDAI 、 最も崇高な主なる神 の名によって、 我は汝を召喚し、そして汝に力強く命じる、 おお、汝、悪魔 〇〇 よ、 汝、直ちに、我が場所、この円の前へと現れよ、 どの様な奇形や異形でもなく、正しき人の姿で。 そして口にすべからず名、 TETRAGRAMMATON IEHOVAH によって、 我は汝に強く命じる、 その名を耳にした四大元素は打ち倒され、 大気は震わされ、海は引き戻り、火は静められ、大地は揺れ動き、 そして全ての天界、地上、地獄の万軍は共に恐怖に脅え、 さらに苦しみ、混乱に陥る。 それ故に汝よ、来たれ、おお、悪魔 〇〇よ、 直ちに、遅れる事なく、世界のあらゆる場所より、汝が何処にいようとも、 そして我が汝に求めるあらゆる事に対し、合理的な答えを示せ。 汝よ、来たれ、 穏やかに、目に見える様に、好意を持ち、 直ちに、そして遅れる事なく、我が望む通りに。 汝は、実存と真実の神の名 HELIOREN によって呼び出される、 それ故に、我が命令を終わりまで果たせ、そして我のためにだけ従い、 目に見える様に、好意を持ち、 どの様な不明瞭さもなしに理解出来るはっきりとした声を以って我に語りかけよ。"』

  • アルファベットの部分のカタカナへの変換をお願いしま

    こちらはある魔導書に書かれている召喚魔術の呪文(祈祷文)なのですが、単語の一部がアルファベットになっており、正しい読み仮名と発音等がわかる方はおりませんか? 英語や英単語、アルファベットの読み仮名に詳しい方はどうかアルファベットの部分をカタカナ読みに変換していただけますと幸いです。 よろしくお願いします。 『"我は汝を求め、そして呼び出す、おお、悪魔 〇〇 よ。 至高なる神の力を得て、我は汝に強く命じる、 BERALANENSIS 、BALDACHIENSIS 、PAUMACHIA 、 そして APOLOGIAE SEDES によって。 最も強力なる王子達、Genii 、Liachidee 、 そして Tartarean に住まう大臣達によって。 さらに第九の軍勢 Apologia の玉座の第一王子によって、 我は汝を召喚する、汝を呼び出す呪文によって。 そして全能なる神の力を得て、我は汝に強く命じる、 語り、それを果たした、全ての創造物を従わせる彼によって。 そして我、神の姿に倣い、神より力を与えられ、 彼の意思のままに創られた者が、 最も強大かつ強力な神の名、 強く素晴らしき EL によって汝を召喚する。 おお、汝、悪魔 〇〇 よ。 我は汝に命じる、 言葉を語り、成し遂げた彼によって、 そしてあらゆる神の名によって。 さらに ADONAI 、EL 、ELOHIM 、ELOHI 、EHYEH ASHER EHYEH 、 ZABAOTH 、ELION 、IAH 、TETRAGRAMMATON 、SHADDAI 、 最も崇高な主なる神 の名によって、 我は汝を召喚し、そして汝に力強く命じる、 おお、汝、悪魔 〇〇 よ、 汝、直ちに、我が場所、この円の前へと現れよ、 どの様な奇形や異形でもなく、正しき人の姿で。 そして口にすべからず名、 TETRAGRAMMATON IEHOVAH によって、 我は汝に強く命じる、 その名を耳にした四大元素は打ち倒され、 大気は震わされ、海は引き戻り、火は静められ、大地は揺れ動き、 そして全ての天界、地上、地獄の万軍は共に恐怖に脅え、 さらに苦しみ、混乱に陥る。 それ故に汝よ、来たれ、おお、悪魔 〇〇よ、 直ちに、遅れる事なく、世界のあらゆる場所より、汝が何処にいようとも、 そして我が汝に求めるあらゆる事に対し、合理的な答えを示せ。 汝よ、来たれ、 穏やかに、目に見える様に、好意を持ち、 直ちに、そして遅れる事なく、我が望む通りに。 汝は、実存と真実の神の名 HELIOREN によって呼び出される、 それ故に、我が命令を終わりまで果たせ、そして我のためにだけ従い、 目に見える様に、好意を持ち、 どの様な不明瞭さもなしに理解出来るはっきりとした声を以って我に語りかけよ。"』 どうかよろしくお願いします。

  • クリスチャンではないのですが教会の礼拝に参加してもいいのでしょうか?

    クリスチャンではないのですが教会の礼拝に参加してもいいのでしょうか? 悩んでいます...(長文です。) アメリカ在住なのですが、つい最近クリスチャンの友人が出来ました。(日本人の方です。) とても優しく、尊敬できる良い方で仲良くさせて頂いています。 その方はクリスチャンのようで毎週教会に通っておられるのですが、 ひょんなことから教会の話になり「教会に興味がある」と伝えると 「もしよければ一度一緒に」と誘って頂きました。 先週早速連れて行ってもらい、教会のみなさんには歓迎して頂き、説教もわかりやすく とても良い印象を受けました。無理やりな勧誘や献金等も特に無く、 「興味があればぜひまた行らしてください」というような雰囲気でした。 既に次の集まりにもお誘いを頂いています。 ここでふっと思ったのですが、クリスチャンではない人間が教会に行って説教を聞いたり、 礼拝をしたりするのは良くないことなのでしょうか...? 礼拝や賛美歌のときは下を向いて静かにしているか、周りの人に合わせて歌っています。 私自身は洗礼もなにも受けておらず、家族は仏教徒です。 私は自分はキリスト教徒だとも仏教徒だとも思っておりません。 どちらかというと思想的には無神論者に近いと思います。 しかし神様を信じる人を特におかしいとも思いませんし、信仰が人を救うことがあるのも 確かだと思います。 私は純粋にクリスチャンの方の考え、教会はどんなことをしているのか、聖書はどういうものなのか、 「せっかくアメリカにいるのだから教会に行ってみたい」「聖書を読んだり、説教を聞いたり、 教会で他の人と交流するのは英語の勉強にもなる」等という理由で教会に行ったのですが、 こういう理由は不純でしょうか? 私はどちらかというと宗教としてより学問や教養としてキリスト教に興味があります。 なので今のところ特にクリスチャンになりたいとも思っていません。当然聖書も持っていません。 皆様に質問なのですが上記のような理由で教会には行かない方がいいでしょうか? それとも私がそう思っていないだけで、教会に行っている時点で既にクリスチャンなのでしょうか? 教会の方からは特に「キリスト教の信者か?」というようなことは聞かれなかったのですが、 「教会に来ている時点で信者だと思われているのでは?」という不安と、 実は自分はクリスチャンではないという申し訳なさで一杯です。 小さな韓国系の教会なので、みなさんに名前を覚えられ始めています。 友人からの紹介という形で行っているので、失礼があったらその友人にも迷惑になると思うと 心配でなりません。それにもしかしたら友人自体も私がクリスチャンではないということを 知らないかもしれません... 失礼にあたるようなら、友人には理由を話し教会に連れていってもらうことは次回からは 丁重にお断りしようと思います。 ぜひクリスチャンの方、そうでない方、両方からのご意見をお伺いしたいです。 回答よろしくお願い致します。長文失礼致しました。

  • ヨブ記について

     私はプロテスタントのクリスチャンですが、旧約聖書のヨブ記を読んでいて、いくつかの疑問が浮かび、そのために今私たちが読んでいるヨブ記は全文ではなく、抜け落ちている箇所があるのではないかと思えるのですが、間違いでしょうか。  ご意見いただければ幸いです。 ・疑問1エリフの不自然な登場のしかた。 32章2節に、この物語のキーマンになるかもしれぬエリフが何の説明もなく唐突に登場するのは、あまりにも不自然である。 ・疑問2神様の登場しかた。 ヨブ記38章1節に主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。 とありますが、それまで、一言も嵐のことなど記されていない。 ・疑問3突然いなくなってしまうエリフ エリフとヨブのやり取りのあとヨブ記38章1節に神様が登場してから後、エリフはまるで初めからいなかったかのように文章中から消えてしまっている。神様はヨブの3人の友人に対してはコメントしているのに、エリフについては、全く言及していないのも不自然。  以上のことから、私はヨブ記には何らかの理由により、抜けているエピソードが存在していたのではないかと考えるのですが、この考え方は浅はかでしょうか。

  • 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか

     たたき台をしるしますので お考えを述べてください。  【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24)  (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。  (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。  【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17)  (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。  (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。  (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。  (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。  ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) のちに:  ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。  ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが:  ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする  ☆ とも言っている。  (8) イエスの出たあとでは こう言う。:  ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~  17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。  18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』    と主は言われる」(申命記32:35)  と書いてあります。  20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。    そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  (箴言25:21-22)  21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19)  (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。  (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。  【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.)  (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。  (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。  (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。  【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6)  (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。    (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~  2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。   文字は殺しますが、霊は生かします。  7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、  8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§6】 イエスの後の現代  (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。  (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。

  • ブラジル人の多いプロテスタントの教会の祈り方

    はじめまして。 私は最近知り合ったブラジル人の方に教会に誘われ、以前から興味があったので、 最近礼拝へ行くようになりました。 ちなみにプロテスタントです。  これまで教会という所には行った事がなく、その教会はブラジル人が多く集まる 「ミサオアポイオ(確かこんな名前でした)」という看板がありました。 私は教会に対してオルガンで静かな讃美歌を歌い、胸の前で手を合わせ、 厳粛な雰囲気をイメージしていましたが、そこではギターやベース等を使って、明るい感じの歌を歌い、 手を叩いてリズムに合わせて踊っている人も沢山いて、殆どの方がお祈りする時に、 手を合わせるのではなく、両手を天に向かって広げる祈り方をしていました。 何故?と聞いたら、神様は天におられるのだから、私のイメージしてたように 静かに手を合わせて祈らなければならない、という決まりはないし、 例えば良い事があり感謝の祈りの場合も、何かに悩んで助けを求める場合も、主を賛美する場合も、 天におられる神に向かって行うのだから、だけど決まりはないですよ。 ただ私達の殆どはその方が天におられる神に通じると思うからそうした祈り方をするだけで、 手を合わせて下を向いて祈ろうが祈りは祈りだから祈り方は自由です、 もし私達の祈り方に違和感があるなら、それに合わせる必要もないのですよ、と言われました。 聖書を頂いたのですが、聖書自体勉強になりますし、教会へ行く事も楽しいです。 天に向かって手を広げて祈ったり、ギター等を用いた明るい感じの歌は ブラジル人とかラテン系クリスチャン(カナダ人等もいますが)の特有のものなのでしょうか? それとも、プロテスタントの教会では珍しくないのでしょうか? どなたか教えてください。 長文失礼致しました。