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大岡越前

1・大岡越前の本名は大岡忠相ですが、長官=カミは例え大名でなくても名乗る事が出来たんですか?。 2・例え福井の出身じゃあなくても越前守なんですか?。 3・大名の場合でも広島の殿様なのに伊勢守とか、加賀守とか名乗っている殿様がいますが、あれはどう言う事なんですか?。 4・右京太夫、左京太夫とかはどう言った格式なんですか?。

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回答No.1

まず、「守(かみ)」というのは幕府の役職の長官を指すものではありません。大名の任地とも関係ありません。 これはあくまで、京都にある「朝廷」が定めた官職としての「守」なのです。平安時代には各地方を管理するために朝廷が「○○の守」を毎年任命したのですが、そのなごりです。 実際にはその任地である土地に対して何の権限もなく、お金ももらえません。完全な名誉職です。 当時は幕府が人事を決定すると、その幕府の役職に合わせた「官職(名誉職)」を朝廷が決定し、春弥生、旧暦三月に朝廷からそのお使い(勅使)がやってきてその内容を伝えました。 大名にも、その位に応じていろいろ官職が与えられました。 なので、 与えられた任地と本人の出身地は全く関係ありません。 役職が変れば官職も変ります。 引退すると官職も当然なくなりますが、最高位のときの官職名で、慣習的に(敬称のように)呼ぶことはありました。「越前どの」みたいに。 他に幕府の要職にいると、「官位」ももらえます。将軍は従一位(じゅ いちい)です。正一位にはしないところが朝廷のあざとさです。官職は、「左右近衛大将」兼「征夷大将軍」がデフォルトです。 官位の話が出たのでここに書きますと、「大夫(大夫)」というのは官位における、「五位」のことです。「六位」から帝の御所に昇殿できるのですが、六位は雑用係です。七位以下は、あまり官位としての権威はありません。 五位(太夫)より上だと、一応貴族の仲間入りというかんじです。 「右(左)京大夫」は、平安時代に右(左)京の人民の管理をした「京職(きょうしき)」と呼ばれる長官です。立場は、乱暴にくくると江戸時代の奉行に近いです。五位ですのでそれほど身分は高くないです。 ただ、ただのお侍が官位をもらうのはたいへんな名誉ですので、そいう意味では価値があるポジションです。 べつに朝廷に「官位」や「官職」をもらわなくても幕府は機能しますが、ことさらに朝廷を否定して事を荒立てるよりも、表向き敬して官職を受け、まだまだ朝廷への畏敬の念を持っていた一般市民の人心掌握にも役立てたほうがロスが少ないと歴代幕府は考えたのでしょう。このシステムは鎌倉から江戸まで続きます。 わかりにくい部分がありましたら、言ってくだされば補足します。 名前と官職の関係については、 こちらが詳しいと思いますので貼っておきますよ。 http://yokikotokiku.hp.infoseek.co.jp/mame/namae.html

参考URL:
http://yokikotokiku.hp.infoseek.co.jp/index.html
VHS-KATURA
質問者

お礼

ご丁寧にどうも。

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