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宇喜多秀家が秀吉に気に入られた理由
Pinhole-09の回答
- Pinhole-09
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宇喜多八郎(のちの秀家)が人質として、秀吉の元に来たのは八歳の時である。 なかなかの美少年でおとなしく秀吉は気に入った。 信長に目通りした時も、信長の気に入られ「備前から来たあの子、涼しげである。格別大事にしてやれ。」と言ったという。 二年後父の直家が病死の前に、秀吉に八郎の後事を託し、元服させた。 宇喜多家代々の「家」と秀吉の一字をもらい「秀家」と名乗り宇喜多家を継いだ。 のち秀吉は秀家を「猶子」とした。 準養子である。 先賢の答え通り、秀吉は直家の奥方の「於ふく」とはすでに関係があり、義理の父みたいなもの。 八郎ー直家が可愛くてたまらなかったようである。 直家は美麗を好み、黄金色まぶしく飾った刀を差していた。 秀吉の好みと同じだ。 直家の才覚は格別ではなかったが、宇喜多家は代々武勇に優れ、これを秀吉は期待していた事も確かである。
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