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《ぼく(僕)》という呼び方は いいんでしょうか?
《しもべ》って意味ですよね? 何の? 誰の? しもべなんでしょう? たしかに漏れ聞くところによりますと ペルシャ語で バンデでしたか《しもべ》という意味の言葉が自称に使われたり あるいは アラブの人たちは 《神(アル・イラーフ)の僕(アブドゥ)》という意味で アブドゥ・アッラーフ > アブドッラーフ > アブドッラーという名前を人につけるようですが 日本語では どういう使い方をしているのでしょうか? あるいは どういう考え方で使っているのでしょうか?
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補足
Hidocchi さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。社会事情の移り変わりにつれて言葉もその使い方に変化が生じる。その実際を探っていただいたかと思います。 そもそもとしましては この問題に取り組むに当たっては 二つの――単純なものですが――課題があったかと思います。 ひとつは 《しもべ》という意味を持つ言葉が 民主主義の世の中でどうして生きながら得ているのか? 1. おおよその見方としては へりくだりであり その習慣がただ続いている。 2. 単に昔からの惰性である。 もうひとつには 言葉が言わば自然に変化するのは 一般であり実際でもある。そのとき ただし 場合によっては人びとの考えにもとづき これこれはどうも相応しくないものとなっているという言葉については 人為的にも廃語とすることがある。 3. したがって (1)(2)いづれの場合にも 自然の変化に任せほうっておくか それとも人びとの総意によって使わなくするか。ふたつの場合がある。 わたしの漠然とした考え(その方向)としましては 4. へりくだりの意義があるだろうが 必ずしもその効用が一般的だと言えない部分があるのではないか? すべての人が《ぼく》を使わないと 使うか使わないかで或る種の格差が生じるおそれがある。 5. へりくだりの意義にしても 《しもべ》という意味は どうも現代にとってふさわしいとも思えない。人びとはこのことを意識しても――そして話し合っても――いいのではないか? ☆ こういった方向でした。 この点は お伝えするのみとしますが 説明していただいた歴史的背景についてですが 一点なお理解の行き届かないところがあります。それを述べてお礼に代えます。 それは こうです。 ○ はじめは 書生がみづからのその書生であることの境遇にもとづき身の程をわきまえるために謙って使った。 ○ その後 その書生が中央官僚に出世するという事態が現われる。 ○ その将来の出世した立ち場から 同僚や目下の者に向かって 《ぼく》と自称したと言うのであれば それは もはや《へりくだり》の美徳とは別のものになっている。 ☆ のではないでしょうか? この点は解せません。見落としておられるのではないかと考えます。いぶかしいです。――それとも上にいる者はすべからくへりくだって下積みの頃の初心を忘れずに《ぼく》と自称するようになったと見るべきなのでしょうか? この点 率直にお伝えして ひとまづわたしのほうからのやり取りはここまでと致します。(むろん お答えをいただけば 応答いたします)。 と考えるのですが いかがでしょう。