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神の認識

人間は不完全なものだという考えを根底に持っている上での質問です。 だったら、人間が知覚、認識した神という存在も不完全なものではないのかという疑問が湧いてきました。もし神があるとすれば我々の五感や思考を超えたものであり、人間が理解できる範囲のものではないのではないか? 古今東西、神の存在を現した芸術がたくさんあります。音楽、美術、建築、文学・・・。それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが、それが非常に人間的であるからという結論になってしまったのです。神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか?

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  • magga
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回答No.11

思ったことを書いてみますね。 完全・不滅とするならば、認識することは不可能でしょう。 認識とは変化でしょう。 変化しなければ知られることも知ることも不可能でしょう。 変化しないなら関係をもてないでしょう。 関係を持った、認識したというなら、変化する不完全なものと公言していることにはならないでしょうか。 本当に完全・不滅なら我ら変化する生命とは一切関わり無いのでは。 「在る・無い」の思考などは、どのような思考をとってもかかわりが無いのだから、それによって完全・不滅によって何かしらの影響も受け得ないし与えられないのでは。 その選択によって変化が在るなら、完全・不滅とは一切かかわりが無く、人間の作り出した言葉と人間の心理面と現実との兼ね合い・軋轢の量によって数多なる結果がつむぎだされているに過ぎないのではないか。 私もそのような疑問を持っています。 参考になれば幸いです。

minmin916
質問者

お礼

とても哲学的な考察で参考になりました。私の疑問が疑問として明確に把握できました。 回答ありがとうございました。

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その他の回答 (13)

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.14

神を知るための手法として、擬人化があり、 人を知るための手法として、擬神化があるのです。 人間が不完全な事実は言うまでもないことです。 問題は、初めから不完全な存在として創造されたのか、本来完全性をもって創造されたはずの存在が、何らかの理由によって後天的に不完全な存在に陥ったのかということです。 ただ、人間を不完全な存在と認めた時、同時に神もまた不完全な存在となってしまう矛盾が生じます。 また、全能の神が、はじめから完成品を創ることはありえないことでしょう。それでは全くつまらないからです。 神の気持ちになって考えたらわかります。 神が創った存在がはじめから完成品なら、自由意志のない単なるロボットと過ぎず、創る意味がないでしょう。面白くも何ともないからです。 創造や創作の根底には、その作品が喜びを与えてくれるものであることが前提だからです。 神が創る以上、神の気持ちになって考えれば、神をも上回る存在にしたかったことでしょう。 そういう作品であること以外に神がどうして喜びを感じられるでしょうか? 神は無限なる存在であるなら、その求める喜びにも無限性がなければならないからです。 そこからしても、ただ言うことに従うロボット的次元の存在に人間を創ることは考えられません。 喜びのメカニズムは相似性にあります。創造者が作った作品がその創造者に似れば似るほど喜びが大きいのです。 したがって、そのことを神に当てはめて考えれば、造られた人間は神に似ていなければならないのです。 神の持つ唯一性、絶対性、無限性、不変性、永遠性、創造性、愛などに似せて創らなければ、神も満足はしないということです。 つまり、そういうものを満たせる存在はロボットではなく、子供だけしかないのです。神が神以上に幸せになってもらいたい存在、神が寝食を忘れるほどの気の遠くなる時間性を投入して人間を創られたのだとしたら、神は人間を子として創造したことがわかるのです。 人間界の親子の姿・・・その関係性を擬人化すれば、神と人間の関係性が親子であることがわかるのです。 神以上の存在として創造しようとした神の気持ちはわかりますが、現実的には、神は創造主である限り、被創造者としての人間とイコールで結ばれることはないことは明白です。 しかし、イコールで結ばれなくてもイコールとして見做させる方法は存在します。神と人の一線、神と人の壁を取り払う方法は・・・ それは、神と被造物の境を無くすことにほかならず、即ち神が人間界に降りられる条件を満たせばよいことになります。 言い換えれば神と人が一体となる条件を成立させるのです。 即ち人間を創造するにあたって、他の原子や分子、鉱物、植物、動物との大きな違いは、自由を与ええられたということになります。 しかし、自由は必ず責任が伴います。 そして責任と喜びも一対です。自由意志と自由行動によって、自己責任を果たすようになる時、はじめて喜ぶことができるのです。 言い換えれば、人間がロボットや他の動植物との明らかな違いを示すためには、神ですら干渉できない自由意志でもって自らを創造したという条件を満たすことが必要であることがわかります。 完成品を創っても神は悲しい、空しいだけのことでしょう。 我々人間の思考でも悲しいなら、神の悲しみは無限の悲しみであるはずです。 人間にはどうしても自由意志を与えるしかなかったことでしょう。 神は唯一なら、その方法も唯一なのです。他にベストな方法があるのなら、最初からそのベストな方法を選んでいるです。 ビッグバンから始まった創造はあらゆる環境を人間にとっての最高の環境を整える・・・ただそのためだけに神は時を忘れて創造したことでしょう。人間の姿形すら人間自身では創りえないのです。 そのような創造の偉業を、実際には手掛けていない人間が相続できるのは、責任を果たすというわずかなことにすぎなかったのです。 神が干渉しないで、人間自身で自己を完成させた時、そのわずかな責任をもって、全宇宙を創造した神の子と同等に見做そうとしたのです。 しかし、この自由意志・・・神ですら干渉できない部分・・・ もし、人間が今のように不完全な姿になったのだとしたら・・・ その最初の人間の自由意志が責任を果たしたかどうかを問うてみなければならないのです。 その実際上の秘密を解き明かすこと以外なさそうです。

minmin916
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございました。 何度かゆっくり読ませていただこうと思います。

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回答No.13

 回答番号:No.9  お礼を拝読しました。所謂るキリスト教信者、クリスチャンが信奉している、教えの神とは異なります。  はい、どの宗教の神でもあります。  その中で私自身は、ここ45年ほどはParamahansa Yoganandaの思想に解答と精進の道を発見したつもりでおります。 URLは信仰の団体ですの、ここでは貼り付けられません。  Self-Realization Fellowshipというものです。  インド発祥の多神教で一神教です。  勧誘も宣伝もしておりませんが、URLはだしております。  自己の意志と思想だけの、精進の団体です。

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回答No.12

>だったら、人間が知覚、認識した神という存在も不完全なものではないのかという疑問が湧いてきました。もし神があるとすれば我々の五感や思考を超えたものであり、人間が理解できる範囲のものではないのではないか? その疑問はある意味で正しいと思います。いささか哲学臭がしますが・・・w 人間は神をイメージするが、神はそのイーメージに収まることは決して無い。小説の主人公が、創作している作家のことをすべて知ろうとしてもできないのに似ていると思います。(←この例えは「ソフィーの世界」ヨースタイン・ゴルデル著に出てくる) また、旧約聖書のヨブ記でも、人間は神の経綸を理解することができないことを示されています。 つまり主さん流に話せば、人間は不完全な存在ゆえに、ある程度までは神を理解できるが、完全なる神のすべてを理解することはできない、となりますね。ある程度までは理解できるという点が大事と思います。 芸術は、その人間らしさがひたむきに(ときには不器用に)、自分の信じる神(不完全な理解で間違った解釈もあるが)に向けて全精力を注ぐ姿、生き方、形、色などが作品に表れて、共感を呼ぶのではないでしょうか。人は聖人君子に感動するのではなく、不器用な人間のひたむきさに感動するのでしょう。 人間は不完全ではあっても、何が悪くて何が良いことかを理解できる力を持っている(持たされている?)から、その良心を抱えて世を生きていくということこそが生きるということなのでしょう。

minmin916
質問者

お礼

ソフィーの世界の例え、分かり易かったです。 >芸術は、その人間らしさがひたむきに(ときには不器用に)、自分の信じる神(不完全な理解で間違った解釈もあるが)に向けて全精力を注ぐ姿、生き方、形、色などが作品に表れて、共感を呼ぶのではないでしょうか。人は聖人君子に感動するのではなく、不器用な人間のひたむきさに感動するのでしょう。 この解釈で自分が芸術に対して感じる何かがすっきりしました。神そのものを感じているわけではなく、「人間」に感動していたのですね。 回答ありがとうございました。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.10

ギリシャ神話では、自然を擬人化しており、人間が想像した神だけに、自然なのに妙に人間くさい考えをしている。 神の息子を人間界によこしたら、息子だと神すらわからないくらい、ボロボロにされたという人間が人間の獰猛さを皮肉った物語も残している。 >古今東西、神の存在を現した芸術がたくさんあります。音楽、美術、建築、文学・・・。それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが <アレテー> http://74.125.153.132/search?q=cache:527nIVLQ5t4J:ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9+%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%86%E3%83%BC&cd=1&hl=ja&ct=clnk このアレテーとは<美>のこと。 馬のアレテーは、早く走ること。 では人間のアレテーとは何か? ソクラテスは人間のアレテーは<徳>だとした。 古代ギリシャでは美について探求して、神々を石で掘ってアレテーの美しさを表現した。 古代ギリシャの石造や建築物って感動するでしょ? 美を芸術で表現したので、絵画や音楽や建築や文学が盛んになったわけです。 古代ギリシャでは、ドームに人々が集まって、観劇とかやったわけです。 神の美と悲劇を演じたわけです。 悲劇は特に心にずしんとくる、感動を起こすわけです。 人々が信仰をする理由は、感動(美)を味わいたいからだと思うんですね。 だから、人間の罪を肩代わりして自己犠牲を払ったってギリシャ悲劇風な物語が人々の心を打ち、神はすごいとなり、信仰されるようになったんじゃないか と。 >神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか? 美が人間の知性で理解できるから、芸術が盛んになったんじゃないでしょうか。 美は驚きや感動のことで、人間にはそれができます。 動物も確かに驚きますが、その後畏怖しますよね。 人間は畏怖したあと畏怖対象を賞賛するって変な生き物。 日本のkamiは自然のことですが、病原菌もkamiだとしている。 病原菌が正体だとわからないので、結界を作り、そこに近づかないようにして病気にかかるのを防ごうとした。 畏怖して、近づいて祟られないようにしたわけです。 というわけで、西洋の神と日本のkamiの概念は違うんですね。 あなたのは西洋の神の概念。

minmin916
質問者

お礼

>あなたのは西洋の神の概念。 確かに。宗教、信仰とかかわりの薄い人生でしたが、なんとなく想像の中にある神は西洋の神です。

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回答No.9

 minmin916さん  認識って、知ることですか。受け入れることですか。  その状態になることですか。  objectたる対象たるものをそうするのですか。  神が我らを経験していて、我らがobjectであり神が主格だということは間違いでしょうか。  完全というものは何か、それは神というものである。  としたら、神が経験しているものは完全である。といえませんでしょうか。  人間が理解するのでなく神が理解するということかもしれませんね。  神が何を超えているのか、それでは超えてないものは何か。  超えたものと神との関係はどうか。  神にとって超えたものは何か。  人間を感動させるもの、それは人間の次元のなしているもの、しかして神はここを超えていないものか。  そういうご質問でしょうか?  これを宗教学や神学が答えているのか、哲学がテーマとしているのか。  浅学の私もそのことを、ちらちら垣間見たことがあります。  でも回答になっていませんよね。そういうのって。  判らないからゴタゴタ多くの難しい展開をしていたのを、たくさんの権威にみています。  明確にいえば、客体としてではなく、自分の中にそのお方にお会いし経験することしかないと存じております。

minmin916
質問者

お礼

神が主格である、という見解に初めて触れ新鮮です。私は宗教について知識が乏しいのですが、主格たる神、対象である人間という関係性であるから信仰というものが成り立つのかも、と考えが浮かびました。ここで言う神とはキリスト教的な一神教の神を勝手に想像しています。 回答ありがとうございました。

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noname#91067
noname#91067
回答No.8

>非常に人間的であるからという結論。 そうですね、芸術や現代哲学の潮流は「神」を問う(What)ではなく、 Howの記述に努めていくものだそうです。「神は如何にあるか」を問う わけです。

minmin916
質問者

お礼

>Howの記述 そう言われて捉え直してみると確かに神の存在そのものをあらわす目的ではないのだなと納得できる作品がいくつか思いあたります。 ありがとうございました。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.7

なにごとのおはしますをばしらね ども かたじけなさに涙こぼるる さあ誰歌でしょう。昔日本人は神の前では何ごとも願い事を祈らず、ただ無心に頭を下げていたそうです。こちらから願い事を言わなくては分からないような神様を日本人は相手にしていなかったそうです。

minmin916
質問者

お礼

畏怖、畏敬の念ですね。神とは何ぞや、と思考していても現れてくる存在ではないのかもと思いました。 回答ありがとうございます。

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回答No.6

>人間は不完全なものだという考えを根底に持っている上での質問です。 自分にとって自分の存在は疑う余地はありませんが、自分にとって自分の存在が不完全であることを知性は理解しますね。 存在に疑う余地のない自分が体感した神は自分の確たる神となるでしょう。 しかし、知性はその神を否定しているということですね。 知性は楽園から追放されている訳ですね。 >音楽、美術、建築、文学・・・。それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが、それが非常に人間的であるからという結論になってしまったのです。神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか? 神を芸術的に表現することと、神を知的に理解することで、後者は前者に遅れた理屈付けをするということであって、結果は懐疑的、否定的ということですね。 でも、これは面白いことで、神を大々的に崇めるお祭りの最中に、神なんて人間知性では理解できない代物ですよと主張してみても御輿は止まらないということですね。 これは、誰も、自分という知性が存在しているのではなく、自分そのものが存在しているからでしょうね。

minmin916
質問者

お礼

自分という存在の有無についてあまり考えたことがなかったです。 「神」をとらえる自己という存在について。神の哲学的考察。いろいな角度の意見をありがとうございます。

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noname#100496
noname#100496
回答No.5

宇宙の大元は、完全調和の世界です。調和の世界が成長、拡大するためには、回りの周辺部の不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が作られました。その地球に、調和世界から神の子が来て、不調和世界の脳の自我と、合体して人が誕生しました。現代人は、脳の思考に依存してますが、脳は不調和な存在です。だから脳の科学は、自然を破壊しました。また宇宙の主役ではないので、科学は限界があり、相対的にしか、宇宙は理解出来ません。また自我は対立と争いの源です。他方調和世界の、自然の心は、情緒は、人の心を癒し、人を育て、人を調和へ導きます。また宇宙の主役だからすべてを知ってます。脳が思考してる時は、脳が人と自然の交流を、遮断するのでストレスになります。脳が休むと、人と自然の情緒が交流するので、心が癒されます。だから物事の判断は、論理的思考を止めて、情緒的判断が必要です。脳を休めると、自然の情緒の調和の世界と、交流出来ます。幸い日本には、脳を休める方法が、たくさんあります。仏教の座禅があります。また日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを目的にしています。雅楽、文楽、能、日本画、浮世絵、演歌、茶道、華道、短歌、俳句などなど

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回答No.4

 こんにちは。  ☆ 神は一方で 基本的に   (α) われわれの経験合理性にもとづく思考を超えている。    ・ 表象しえない。    ・ 無根拠である。  ☆ と捉えられるのに対して 他方では    (β) 人間の言葉で表現されることがある。    ・ 《わたしは神を見た》と表現したり     ・ 《神の声を聞いた》と言ったりする。  ☆ ということは そうは言っても この後者(β)はけっきょくあたかも神のちからがはたらいたかのように感じるというのであって あくまで  ★ それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが、それが非常に人間的であるからという結論になってしまったのです。  ☆ と帰結されるようだ。だから 次の問いには 否をもって答えたい。  ★ 神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか?  ☆ これでよろしいでしょうか?  わたしの回答は あなたと同じように (α)を基本的な前提として しかもその上に何か《なぞ》があるのではないかというものです。  ○ 神は人間の知性で理解できる範囲にいない。=(α)  ○ ゆえに――つまりは この経験世界を超えているゆえに―― この経験世界をつつむことがあるかも知れない。≒(β)  ○ あるかも知れないということは ないかも知れない。つまり《なぞ》である。  いろんな意味でうつくしさに感動するのは 人間的な感性や知性に訴えるからであると同時に この理性や情感を超えたところのちからがあづかっているのかも分かりません。  なぞでなくなれば 神ではなくなるでしょう。どうでしょう?

minmin916
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分の質問の趣旨が自分でよくわかりました。 「なぞ」という点、納得です。

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    削除されたので再度質問します。利用規約違反があったとのこと。以後気を付けます。以前回答してくださった方々、申し訳ありません。 それで、改めて質問します。 神の存在を証明できる方いらっしゃいますか。 あるいは存在しないことを証明できる方でも結構です。 よければ、その理論をお教えください。 そして、下に私の見解を記します。よければ、これに関するご意見もお聞かせ願います。 -------------------------- 神の存在を証明できるか?    「できる」と私は考えます。ここで言う「神」とは、キリスト教的な神のことで、当然人間の目には見えません。それなのに、なぜ見えない神の存在を証明できると言えるのでしょうか。その根拠は大きく分けて以下の2つです。    (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。 -------------------------- (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    例えば、「1、2、○、4、5・・・」という虫食い問題の○で隠されているのは当然「3」ですね。しかし、なぜ○で隠されて見えない「3」が分かったのでしょうか。要するに、見えている数字の並びとの相互関係から推理した結果それが分かったというわけです。    同じように、例えば推理小説の名探偵などが実際に事件を目撃したわけではないのに、現場の状況や遺留品、関係者からの証言などに基づいて推理した結果、あたかもその事件を目撃していたかのようにそれがどのように起きたかを言い当てることができるのではないでしょうか。      このように人間は見えないものでもその存在を識別する能力を持っているということが確認できました。ですから、「神は目に見えないから信じることができない」という論理は人間の能力からすれば当てはまらないということができるでしょう。    では、以上を踏まえて、次に、(2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる、という点についてご説明しましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その1)    上で証明したように、人間には「見えないものでも推理によってその存在を識別する能力」を持っているということでした。ではその能力を使って、見えない神の存在を識別できないものでしょうか?    私がここで言う「神」とは、キリスト教の唯一神で、万物の創造者のことです。聖書によると、存在するすべてのものはこの創造者によって造られました。つまり、宇宙も地球もその中にある動植物、そして人間も神が造ったということです。    もしそれが事実なら、そのような神が造ったもの(被造物)を観察する時、見えない神が存在することを識別する手がかりを得ることができるはずです。    では、それらの被造物を人間と比較してみましょう。    まず、人間以上に大きいものは存在しますか。はい、当然存在します。例えば大型動物がそうですし、もっとスケールを大きくすれば地球も太陽もさらには大宇宙もあり、それらと比較するとき人間の存在の小ささを実感せずにはいられません。    また、人間以上に強い力が存在しますか。それも存在します。台風や地震や火山、さらには太陽の核エネルギーなど挙げればきりがありません。    では、次の質問はどうでしょうか。人間以上に賢いものが存在しますか。さて、その点どう思われますか。人間は地球上で最も賢い生物だと考えていますし、実際そうなのですが、しかし多くの研究者たちが様々な分野の研究をしてきたにもかかわらず、現実には人間の知性では到底及びもしない高い領域(人間ではまだ理解できていないこと)が存在することがいよいよ明白になってきました。    あなたは人間にはまだ「未知の領域」があることを認めることができますか? 次に、その具体例を考慮してみましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その2)    人間ではまだ及ばない「未知の領域」について、その具体例を考慮してみましょう。    例えば、鳥は人間が飛行機を発明するよりもはるか大昔から空を飛んでいました。ライト兄弟が飛行機を実用化するまでにどれだけ多くの人が苦労して「空を飛ぶ」ための研究をし、また失敗を繰り返してきたかを考えてみてください。    重力のある地球上で空を自由に飛行するということは実際には並大抵のことではないということです。それには綿密に計算された飛行設計が必須であり、それなくしてどのように空を飛ぶことができるでしょうか。    にもかかわらず、鳥は当たり前のように空を飛んでいます。人間の研究者たちは鳥の体の構造などについても研究を深めてきました。内臓の軽量化、骨の構造、羽毛のしくみなど飛行のための工夫が施されていることに彼らは驚きました。    では、そのような鳥の飛行設計や工夫を鳥自身が考えて設計し、製作したのでしょうか。そんなことはあり得ません。では、どうしてそのような人間でも驚くべき綿密な飛行設計や工夫が施されているのですか。    それは、人間よりも高い知性を持つもの(そのような設計・製作ができる者)が実在するということを意味しているのではないでしょうか。そのような設計・製作者なしでどのようにしてこのような高度な飛行技術が実用化され得るのでしょうか。 -------------------------- 結論    被造物(例えば地球上の動植物など)には人間以上の知性が見られるという事実から、    (1)被造物は綿密に設計され、製作された、ということが分かり、    さらに、(1)に基づいて、    (2)被造物を設計・製作した者、つまり創造者が実在する、    ということが推理できる、または証明できるのです。    しかも、それには人間にとってもっと重要な意味があります。例えば、人が何かを作る時それには何らかの目的があるはずです。同じように創造者が何かを造る時それには目的があったはずです。つまり、それは神が目的をもって私たち人間を造ったということを意味しています。    ということは、「なぜ自分は存在しているのか」、「人生の目的は何なのか」などという古今東西の人々が考え続けてきた疑問の答えを創造者は知っているということになります。ですから、神(創造者)が存在するかどうか、または人間が神から造られたかどうかは、私たちの人生観をも左右させるほど重大なテーマであることがお分かりでしょう。

  • 心理学者、精神分析学者と神

    心理学者、精神分析学者なら、なぜ人が知性を身に付ける中で 神を信じるようになったかが論理的に説明できると思います。 知性のない者は(つまり人間以外の動物は)神を信じることはありません。 人だけが神を信じます。ゴキブリには神はいません。 神を否定するつもりはありません。信じるのは自由です。 でも「なぜ人は神を信じるのか」を論理的に説明できるはずの 当の科学者はどうなのでしょう。 一般の人が神を信じるのはいいんです。 科学者が信じるのも(個人的にはどうかと思いますが)いいでしょう。 でも心理学者や精神分析学者は神を信じているのでしょうか。 私は神の存在についてはわかりません。 でも心理学者は神を信じてはいけないだろうとも思います。 当事者のご意見を伺えるとありがたいのですが。

  • 神の存在について

    私は神などいないと思っています。 理由としましては (1)神が居るのであれば、理不尽に奪われる命が多すぎる (2)死すべき人間が多い が主な理由です。 もし存在を信じられていたとしても 人の命を弄ぶ神が崇拝されえる意味が理解できません。 なのでキリスト教や仏教など信仰する人にとって 神とはどのような存在なのでしょうか。 また上記のような不条理はどのように理解しているんでしょうか。

  • 神は存在しないのか?

    苫米地英人の「なぜ、脳は神を創ったのか?」という本を読みました。 その中に、パトリックグリムという人が「神は存在しない」と証明 したと書いてありました。その概要は、(ゲーデルの不完全性定理などから) 完全な系は存在しないので、神という完全な系は存在し得ない、ということらしいです。 しかし、考えてみたのですが、「完全な系は存在しない」というのは、あくまでも 人間の言語から構築する系についての限界のことであり、人間の思考を超えた 完全な系が存在することは否定できないのではないでしょうか? つまり、全知全能の神は存在しえないのではなく、仮に全知全能の神が存在したと しても、その神の思し召しは人間(言語)には理解できない、ということではないでしょうか? まあ、そうだとしても、今ある宗教は神の言葉ではなく、人間の言葉の積み重ねにすぎない ことになるので、宗教における神の否定にはなるとは思いますが。 人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか? 私は、この世界には自分たちの思惑を超えた何者かがいるようには思いますが。 肝心のグリムやらゲーデルやら全く無知なので、そういうとっかかりでも 教えていただけたら幸いです。よろしくお願いします。

  • 『善の研究』における神の概念

    西田幾多郎の『善の研究』の第二編第十章に「実在としての神」という章があります。 この第二編は「真の実在」を規定する部分です。 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」(第二編第二章) 意識現象は、刻々と移りゆくものである。 その意識の根底に不変の統一力(「統一的或者」)が働いている。 この「統一的或者」は、我々の思惟意志の根底にあるもので、同時に、宇宙現象における統一力でもある。 「神」が出てくるのは、そうした流れです。 「この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」 さらにこの神は 「この点より見て神は無である」 「ただよく無なるが故に、有ならざる所なく働かざる所がないのである」 という存在でもあります。 西田の「純粋経験」の原理から導き出されたこの「神」の概念が、何度読んでもよく理解できません。 すでにお読みになり、ご理解していらっしゃる方に教えていただければ、と思っております。よろしくお願いいたします。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

このQ&Aのポイント
  • TS8130でWi-Fi接続の方法を解説します。
  • tp-linkのAX1800 DecoX20を使用したメッシュWi-FiでのTS8130の接続方法について詳しく説明します。
  • キヤノン製品に関する質問で、TS8130プリンターのWi-Fi接続について不明点があるようです。
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