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ZFCが一番少ない公理系ではない?

数学基礎論の本でZFCは一番少ない公理系(9つ) 外延性公理, 空集合の公理, 対の公理, 合併集合の公理, 無限集合の公理, べき集合の公理, 置換公理, 正則性の公理, 選択公理 と見かけましたが ZFCは図式は一つずつだが無限個の公理から成り立っている公理系だと聞きました。 もし,無限個だとすると一番少ない公理系で無限個とは意味不明だと思います。 どのように解釈したらいいでしょうか? それと公理図式と公理の違いは何なのでしょうか?

みんなの回答

回答No.3

あと、内包性の公理図式があります。 (空集合の公理は、”少なくとも一つの集合が存在する”ことを前提とすれば、内包性の公理図式に、論理式"A≠A"を当てはめて、導けます。,) 公理図式と公理の違いは何なのでしょうか? (難しいことは、他の人が書いてくれているので、簡単に説明します。) 公理は、その論理式の中に、「任意の論理式」を表す記号が“含まれていない”もの。 公理図式は、その論理式の中に、「任意の論理式」を表す記号が“含まれている”もの。 つまり、公理図式は、実際に、その記号に、何かの論理式を当てはめたとき、公理になるものです。 そこに当てはめられる論理式が無限にあるので、無限個の公理があるとなります。 (ちなみに、ZF, ZFCは、有限公理化不可能と証明されているらしいです。) ZFCでの公理図式は、内包性の公理図式と置換公理図式だけです。

  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.2

 ANo.1のコメントを拝見しました。  えとですね、一般に、記号の並べ方の規則だけを記述する(もちろん「これはこんな風な意味だ」などとたとえ話で説明することを排除する)ことによって、自己無撞着なやりかたでその記号の使い方を定めるのが形式的公理系です。  ZFC公理系は集合という概念に関する公理系ですが、「集合」という言葉は出てきません。出てくるのは"∈"だけ。そして"∈"は無定義の記号であり、ZFC公理系を書き並べる直前の段階では、記号"∈"は使い方が(従って意味も)定まっていません。ZFC公理系はただこの記号の並べ方(使い方)の規則を規定していて、これによって記号の意味が立ち現れる仕掛けなのです。  なお、ZFC公理系を書き並べる前に、まず1階述語論理という体系が公理系によって定まっていなくてはなりません。 > 公理図式とはつまり,公理を説明する為の"例え"なのでしょうか?  違います。1階述語論理の1変数述語がどういうものであるかは、既に1階述語論理の公理系において形式的に(すなわち記号の並べ方の規則として)定義されているので、図式に任意の述語をあてはめる、ということには何の曖昧さもありません。ただ、ZFC公理系で定まる体系の中には論理式や述語を指す手段はない(ZFCは集合の公理系ですから)ので、「任意の1変数述語」を意味する記号表現ができないだけです。 > なるほど,公理は集合等を定義する以前の話ですので,集合での記号は使えないのですね。  誤りです。「∀」は1階述語論理の記号として既に使い方が決まっています。しかし「∀A(....) (ただしAは論理式や述語)」は(2階述語論理の式であって)1階述語論理の式でも集合に関する式でもないので、ZFCの体系ではナンセンスな表現です。

  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.1

 置換公理(あるいは、その代わりに使われる分出公理)は、「任意の論理式Aについて…」という格好をしています。しかし論理式は対象(集合)ではないんで、 ∀A(....) とは書けません。(こう書いてしまうと、2階述語論理の式になってしまう。)  だからこれは公理そのものではなくて、論理式Aを具体的にひとつ決めるごとに公理ができると考えねばなりません。なので無限個の公理があることになります。こういう「公理の形だけを表していて、中身を入れると公理になるもの」を「図式」と呼ぶんです。

Nnarumi
質問者

お礼

有難うございます。 > 置換公理(あるいは、その代わりに使われる分出公理)は、 > 「任意の論理式Aについて…」という格好をしています。 公理図式とはつまり,公理を説明する為の"例え"なのでしょうか? > しかし論理式は対象(集合)ではないんで、∀A(....) > とは書けません。 なるほど,公理は集合等を定義する以前の話ですので,集合での記号は使えないのですね。 という事は公理を厳密に書き記すのは不可能ですね。 公理図式で雰囲気を表現する事しかできないのですね。 > (こう書いてしまうと、2階述語論理の式になってしまう。) >  だからこれは公理そのものではなくて、論理式Aを具体的にひとつ決めるごとに > 公理ができると考えねばなりません。なので無限個の公理があることになります。 > こういう「公理の形だけを表していて、中身を入れると公理になるもの」を「図式」と呼ぶんです。 つまり,「ZFCは一番少ない公理の種類数(9個)の公理系である」と表現すればいいのでしょうか?

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