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霊感ある方に是非聴きたいです!!

michael-mの回答

  • michael-m
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回答No.3

世の中には作り話が多いです。だからそれらを題材に意見を述べても仕方ありません。それに霊の事などほとんど判っては居ないのです。議論や仮説は多いですが、誰一人として検証も出来ていないのですから。もちろん否定する論証もどこにもありません。これもまた仮説でしかありません。 だから、私も含めて断言などできる人は存在しません。これは真の霊能者でさえ例外ではありません。客観的な証拠はどこにもないのです。 だから、あくまでも現段階での私の仮説として受けてください。異論があっても、それを含めてこれから考えていく事としか答えられません。 幽霊話のほとんどが作り話だからって事なんですが、だから幽霊は居ないという根拠にはなりません。 ロクに勉強もせず、まして歴史なんか判らない人が幾ら作り話でも原始時代や平安時代の幽霊は語れません。 それと幽霊は特別なものではなく、日常的に存在しているものです。いわば空気中の水分の様なもので、常日頃は見る事が出来ません。沸騰した薬缶の絵を書かせると一般の人の多くは注ぎ口から湯気を描きます。少し知識のある人なら僅かに距離を置いて湯気を描きます。 それはそう見えるから、或いはその程度しか見えないから、或いは知識があるからです。 一般の人が霊を感じない、或いは感じても良く判らないのは、これと似ていますし、知識として知っていれば見えていなくても口から距離を置いて湯気を描くように、霊が見えなくても自分の持っている知識の範囲で話を作ります。 でも本当に見える人や真の情報を持っている人は口から出る水蒸気の向こうに見える景色の揺らめきなども表現するでしょう。実際に霊を見る事ができる人は、間違える事はありません。但しその景色が真実だとしての話です。 「貴方の見ている風景はそこにあるのか」まるで仏教の問答みたいですが、同時に科学の大命題の一つでもあります。 虹は見る国の人によって色数も色の種類も配置も違います。外国人が書いた日本人はあまりにも滑稽で、日本人が怒らない方が不思議なくらい。その和服はまさにガウンでしかありません。 人は自分の持っている情報の範囲外の情報の分析は出来ないものです。 だから、目の前を原始人の霊が通っても判らないのかもしれません、或いは不審者として通報されているかもしれません。 蜘蛛の霊が歩いていても、蜘蛛としか認識しないでしょう。多分…。 これ以外に、動植物や昆虫は自我がないので念を残す事がなく、従って霊がこの世にとどまる事もないという人も少なくないです。 霊が結界以外で入れない場所があるのか… 私は基本的にないと考えています。 でも知り合いの霊能者が言うには「霊も電気のようなものです。人間もそうです。だから弱い力しか持っていない霊は電気的な結界の中に入れません。入れるのは電気的な影響を受けないものだけです。それは電気の強さにもよります。」とのこと。彼は普段自分に憑いた弱い霊を祓うのにコンビニに行きます。自動ドアの電気で除去できてしまうからだそうです。 夜中に買い物でもなく、何度も自動ドアを出入りしている人が居たら、ひょっとしたらその霊能者かもしれません。 霊と言っても全てが幽霊になる訳ではなく、ごく一部、あるいは実際に居ても人に見せる力のないものもいます。 特に古くなってくると力が弱まってきますから、見る機会も減るのでしょう。 これは、路傍の地蔵が次第に形を失っていくのと似ていると思います。 よほど強い力を持った霊であれば見える人も多く、複数の人が見えたということになるでしょう。でも普通は似たような波長を持つ人が見えるのです。これをラジオに喩える人も多いです。 優秀な霊能者はAMだけでなく、FMや短波も受診できるし微弱な電波でも受けられますが、そうでなければ強い電波しか受けられないということです。 つまり、呪われたとか、憑かれたとか自慢げに行ってる人が居ますが、これは、自分がその霊と似たような波長を持っていると吹聴しているようなものですから、本来自慢できる事ではないです。 職業としてではなく真に霊を見る人の多くは見える事を殊更言わないし、憑かれるとか呪われるという事もあまりないのです。 憑依体質という人が居ます。このような人も自慢げに言う人が多いですね。ほとんどは作り話ですが、表意されやすいということは、自分自身や自分の魂がしっかりとしていない、或いは体と一体化していないということを意味します。金縛りも同じです。 つまりそれは「自分は虚弱体質です」「すぐ風邪をひきます」などと吹聴しているのと同じで、これまた誇れる事ではないんです。 この世は修行の場だと考えているので、人生の目的は生まれ変わらない事だと思います。つまり仏教で言う解脱です。 守護霊と言ってもこの世にいるわけではなく、へその緒のように繋がって影響しあっているという感じです。 江原さんのように、魂というのは単体構造ではなく、金太郎飴のようにどこできれても同じものだという人が居ます。つまり、一部であって全部なのです。これはキリスト教の三位一体の考えに近いかもしれません。 だから守護霊であって生まれ変わる事は可能だというのです。が、この点については、私は考えがまとまっていません。 ただ、精神(魂)と肉体が別物だとすれば、或いは両立できる存在だとすれば、自分の魂の過去の姿が先祖という事もありえるでしょう。つまり、自らの精神そのものが守護霊という事になります。

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