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仏教・老子の哲学について良書を教えてください。

pneumaの回答

  • pneuma
  • ベストアンサー率50% (3/6)
回答No.9

老子に関しては歪められた解釈が氾濫しているので、その道の学者の書いた書物をしっかりと読むことから始めるのが宜しいと思います。  楠山春樹『「老子」を読む』(PHP文庫)・・・『老子』の訳と解説  金谷治『老子』(講談社学術文庫)・・・同上  蜂屋邦夫『老子』(岩波文庫)・・・最近のもので、解説が充実 このあたりの本は、まともに書かれていて良書といえます。あるいは 『老子』は断片的で、全文を一度に読むのは疲れるという方は、  楠山春樹『MY古典 老子のことば』『老子入門』(講談社学術文庫) を手始めに読んでみるのがいいでしょう。 仏教に関しても捻じ曲がった解釈が紛紛としているので、仏教学者の良質な著作を読むことをおすすめしますが、釈迦自身の思想はすでに復元不可能となっており、また扱う資料やその解析方法の差異によって学者の間でも見解が相当異なっていることに注意して下さい。  中村元・他『原始仏典』(筑摩書房)・・・原始仏教の資料集成  中村元の岩波文庫で出版されているもの多数 初期の仏教に関する入門書は数多く出ていますが、  中村元『原始仏教―その思想と生活』(NHKブックス) は大事なところを正確に書いた良書です。(大乗仏教は初期の仏教の思想を探るにはあまり重要ではありません) 老子や釈迦の思想を学ぶのであれば、孔子・孟子・荘子やヴェーダ・ウパニシャッド等の思想も併せて学習すれば理解が深まります。 こういう昔の聖人は、現代でも電波な言葉で語られることが多く、 世間では間違いだらけの本が飛ぶように売れていますが、大事なのは 自分の頭を使って経典を読み、考えていくことです。一般常識なるものに振り回されないように。

Wunderlich
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 とりわけこういう思想に関しては、学者ごとに見解に相違があったり 主流になっている学説が必ずしも正しいとは限らないこともあって、 難しいですよね。 そういう意味でも有識者のご意見を頂けることは 大変助かります。紹介して頂いた本も是非読ませていただきたいと 思います。 ありがとうございました。

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