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シベリア捕虜収容所について

抑留時代の記憶がほとんど無しという父の、満州~ソ連~舞鶴までの足取りを追っています。 厚労省から取り寄せた記録によると、 1945年3月 満州第2作業大隊 1946年7月 第399独立労働大隊 1946年8月 第19独立労働中隊 1947年10月 第17独立労働中隊 ということがわかりました。 本人の身上申告書には、「アルタイスキ ウズベンク」という文字があります。いろいろなサイトで、それらしい地域に、上記の労働(作業?)大隊、中隊を探しましたが、みつけられません。 何か情報をお持ちの方、教えてください。

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  • Ja97KG
  • ベストアンサー率26% (222/840)
回答No.2

そのような理由とは知らず失礼いたしました。 ㈶全国強制抑留者協会にお問い合わせはされましたか ホームページがありませんのでURL等書けませんが 電話番号書きこみすると削除対象になってはいけませんので 書きません 検索してみてください 本部事務局は東京都千代田区九段北にあります。

mammachan2
質問者

お礼

ありがとうございます! 全国強制労働者協会、知りませんでした。 さっそく問い合わせてみます。 取り急ぎ、御礼申し上げます。

その他の回答 (1)

  • Ja97KG
  • ベストアンサー率26% (222/840)
回答No.1

抑留時代に関して思い出したくないことが多かったのではないでしょうか 何のために調べているのかわかりませんが そっとしてあげることも必要なのでは? 年金等で必要なら所属等が厚労省のリストで出ているので十分だと思いますけど

mammachan2
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 説明不足で申し訳ありません。 父が収容されていた場所に、行きたいのです。 老い先短い父が、このごろぽつりぽつりと、シベリアの話を口にし始めました。 父は、今まで封印してきた辛すぎる記憶を、一生懸命紐解こうとしています。 死ぬまでにせめて、自分の居た場所ぐらい知りたいと申します。そして、できるなら、そこへ行ってみたいとも言います。 私は娘として、何とか父の望みを叶えてやりたいと思うのです。

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