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サイパン島での日本軍の最期について

k762の回答

  • k762
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回答No.1

独守歩14大隊は第9派遣隊の一部としてヤップ島進出の為前進中、5月17日グアム島付近で潜水艦に撃沈され救助された兵はサイパンに上陸しました。 大隊長以下百数十名と兵器の大部分を失った大隊は同時に遭難した独守歩28大隊と共に独立歩兵318大隊を編成し独混47旅団に編入されています。 米軍上陸後独混47旅はヒナシスからドンニイ付近に後退する間に戦力の大部分を失い6月18日現在で戦力は歩兵半個大隊に過ぎずドンニイからタポーチョ付近で全滅したものと思います。 集成大隊の為詳しい事は不明の様です。 参考書籍 防衛庁防衛研修所戦史室 戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(1)マリアナ玉砕まで

nikohoko
質問者

お礼

早々にご回答いただきありがとうございます。わかりやすく解説していただきとても参考になりました。 海で眠っている可能性もあるのですね。この撃沈された戦艦(輸送艦でしょうか?)の名称もご存知でしたら教えていただけますでしょうか。 ご紹介いただいた参考書籍も探してみます。本当にありがとうございました。

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