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道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

hakobuluの回答

  • hakobulu
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回答No.14

(私の頭の中の)整理上、一部重複する内容も記します。 1、《趣旨》 bragelone さんの一番おしゃりたいことは、 >安寧第一のためにこそ 互いに 異なる考えを 差し控えるのではなく きちんと 述べ合って 明らかにし合い 出来るところは すり合わせつつ 共通の理解を つねに 得つつ 共生していく :ことが重要である。 ということなのだと思います。 この出発点が誤りであろうはずはなく、これに関しては全くおっしゃるとおりと思います。 個別に(本心を)問うてみればおそらく圧倒的多数の人が同意するはずです。 少なくとも、「そのようにできるのであれば、それにこしたことはない」 と答えることでしょう。 (と断定的に述べておきますが、2において、関連した内容を補足してます) 2、《疑問と答え》 にも拘わらず、なぜ、 >常識では 感情を 凹凸の凹のほうつまり 抑制するほうを 選んでいる :のだろうか。 とbrageloneさんは 疑問を投げかけておられる。 ご自身としては、 >☆ これに関して 得た一つの結論は 凹という二分の一のそのまた二分の一の選択肢として 社会の統治のためだというものです。もっぱらの公民の世界から見ると 道徳規範を掲げることによって その威厳から 市民らは あたかも思考停止になり ただちに 同じくあたかも条件反射のごとくに 感情を抑制し 《公的安寧》に随順することをよしとする統治術だというわけです。その歴史の重みがあるというものです。――たぶん 四分の一の確率で 妥当な見方だと思っています。 :と述べておられる。(*備考1) #4で述べたことの繰り返しになりますが、私としては、 「他者の脅威から自分を防衛するため、つまり一種の慎重さ、あるいは臆病さの結果ではないかと思っているのですが。 社会秩序よりも本能の変形という感じでしょうか。」 と答えます。 「慎重さ、臆病さ」に関して、おっしゃるところの 「きちんと 述べ合って 明らかにし合い 出来るところは すり合わせつつ 共通の理解を つねに 得つつ 共生していく」 に則ってさらに述べます。 以下、意図的に抜粋します。 「述べ合って 明らかにし合い すり合わせつつ 共通の理解を 得つつ 共生していく」 これが、1で述べた、 (圧倒的多数の人が)「そのようにできるのであれば、それにこしたことはない」 の、「そのように」の内容(と同じ)です。 抜粋しなかった部分を示してみます。 「きちんと、出来るところは、つねに」 となります。 つまり、誰もが brageloneさんと同じように望んではいるが、 きちんとは出来ないだろう、 出来るところはあまりないだろう、 つねにとは、とてもいかないだろう、 と感じたり、思い込んだりしている。 のではないか、ということを言いたいわけです。 この総意が「常識」として顕現している。 というふうに考えます。 そこにあるのは、他者への不信であり、あるいは怖れでしょう。 それはとりもなおさず、自身への不信であり、怖れであろうと思われます。 この意味で、常識とは、理屈や思想というよりは本能的な一種の防衛形態と捉えています。 余談ですが、本能の抑制(抑圧)によって文化文明が発展発達(と捉えることが可能であればですが)してきたことは確かで、いわゆる民度というものも同様と思われます。 重要な側面において常識が幅を利かせすぎる国というのは、後進国と評価されるのが自然なのでしょう。 3、《趣旨の実行に際して》 ご趣旨には賛同しますし、ご質問に対する直接的な回答も一応述べたことになると思われます。 整理上このように述べています。 あとは、趣旨の実行に際して、 > ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。(なぜなら)《悪は 存在しない》 :のだから、つまり、相手が傷つくことはないのだから、 「>互いに 異なる考えを 差し控えるのではなく きちんと 述べ合」うことのみに留意していけば良い。 というご見解(ですよね?)についてですね。 色々補足していただき、少し読み直してもみ、前よりはおっしゃっていることの内容が多少なりともわかるようになってきたかもしれません。 今までの投稿といただいたご返事を再読しつつ、上の点に限って感じるところを次項で述べてみたいと思います。 自己変革ということを言い出した理由についても触れることになると思います。 重複内容も含まれることと思います。 まだ誤解の点があるようであれば、またお時間と忍耐が許すようであればさらにご指摘もお願いいたします。 4、《悪は存在しないのか?》 > ○ そのように外からやってきた悪による傷つきは 《疑似体験》である。  ☆ というものです。したがって   ○ 悪は 現象として 起きているが 悪そのものとしては 存在していない。  ○ 心が 傷つくのは おのれの内面における《ゆがみ》をめぐるその現象としての悪による。 :とおっしゃっておられます。 これは、 >それによって心が傷つくところの悪が 外からやってくる場合のお話 :なのですよね。 しかし、疑似体験とはいえ傷つくのは事実なのですから、このように捉える意義というか、それがよくわかりません。(*備考2) いや、それは1での《趣旨》を実現するための免罪符という位置づけであることはわかるのですが、そのように規定しなければ、あるいはそこまで徹底しなければ、かの趣旨は実現され得ないものだろうか。 ということです。 #11では、 仮に、  「ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ある。あり得る。」  とするならば、問い質すのが普通ではないとお考えになる理由を教えていただけないでしょうか。 という問いに対して、 > ○ 自分の内面に起きた心のゆがみとしての自己表現における悪によって 相手が 傷つくものであるとするならば 問いかけるにしろ 対話をするにしろ 気をつけて そのような《わが悪による相手に対する傷つけ》を起こさないようにしたい。  ☆ この理由からです。 :とお答えいただきました。 ここでは、(相手が 傷つくものである、かどうかとは関係なく)《わが悪による相手に対する傷つけ》というものを想定していることになると思います。 >そのように外からやってきた悪による傷つきは 《疑似体験》である。 :という理由によって(外からの悪によっては)傷つかない、とすることと、 >《わが悪による相手に対する傷つけ》 :というものを想定する捉え方との違いはどこから生じてきたのだろうか、ということを考えてみました。 条件が異なったから想定した、ということにはならないはずです。 しかし、 > ★☆ 正しいからと言って ただちにそのまま 何でも 悪を生じさせていると疑われる相手に対して 問い質してよいとも 思われない。  ☆ と 一たん 立ち止まって考えてみるというおもんぱかりは 大事だと思われるからです。 :ともお答えいただいたので、そういったスタンスをお持ちの上でのことであれば、これ以上、悪が存在するか否かを論じる意味も私には見出されません。 面白そうではありますが、これ以上考えると頭が痛くなるのでこの件(悪は存在するか)に関しては、一旦据え置きます。 前置きが大層なわりにあっけなかったですね。^^; 次項では少し切り口を変えてみます。 5、《悪が存在するとすれば》 まず、次の箇所によって、「悪は存在するか」についてもう一度だけ蒸し返します。 >《悪と呼ぶ現象が 存在する》ことに問題はないのですが このばあいは 《圧倒的な悪》によって 心が傷つくことはないし あり得ないという命題の問題です。恐怖に震えることは 傷つくこととは 別だという考えなのですが どうでしょう? すなわち みづからの心に歪みがないのならば そのように外から来る悪によって 肝っ玉が震え上がったとしても 心が傷ついたということではないという見立てです。恐怖体験による後遺症があるという場合は 弱さの問題だ:と捉えます。 :4で述べたように、私としてはよく理解できない箇所ですが、圧倒的な悪の最たるものは強制かもしれません。 人間の賛歌ちうものがあるとすれば、それは自由だと思っていますので、逆らいようのない強制ほどの悪はないような気はしています。 恐怖というよりは傷つきそのものに直結するような気がします。 であれば、必ずや強制者の存在があるわけで、それはもはや現象とは言えないだろうということぐらいしかわからないので、悪は存在すると表現したいと思っています。 この場合は、悪を為される者の内面について検討される必要はないと思うのですが、どうでしょうか。 次に、その者はなぜ悪を為すのか、という問題が出てきます。 悪を為された者が(代償行為として他者に)悪を為す。 というのが私の考え方です。 そうすると、最初に悪を為したのは誰か、ということになります。 しかし、実際問題として、人間の言動において、悪であるのか否かの区別はつきづらい、あるいは判断しづらい、ということもあります。 進化の現段階においては人間の能力的に無理である、ということであるのかもしれません。 つまり、いわゆる悪の連鎖(悪の連鎖によって悪は起こるということですが)を逆にたどることは意味がない場合が多いでしょう。 一番確実なのは、悪をなされた時点で即座に反撃をしておくことです。 このことによって(当事者外の)他者へと連鎖する必要がなくなるため、連鎖は止まります。 ですから、この意味で bragelone さんのおっしゃるところの《趣旨》は非常に大きな意味を持っていると最初に感じましたし、それが回答を思い立った直接のきっかけのひとつでもありました。 ところで、反撃されたほうの対処がまだ残っていました。 反撃された側としては、自らに原因があって反撃されたわけなので、というか、その場合には、自らの非を認める必要があります。 倫理的問題ではなく(多少は含まれるでしょうが)、精神衛生上の問題です。 非を認めることは瞬間的にせよ自己否定につながります。 常に自己を疑っているという幅を持っていなければおそらくできないでしょう。 因みに、自信があればこそ自己を疑うこともできるわけです。 その姿勢を指して「自己変革」と私は呼びたいと思っているわけです。   --------------------------- *備考1 「>二分の一のそのまた二分の一の選択肢として」という表現をしておられますが、 「社会の統治のため」以外にも理由がある、という意味でしょうか。 また、よく読んでない(または理解できていない)せいもあるのでしょうが「統治」と「常識」との因果関係についてはよくわかりません。 確かに為政者などが思いつきそうなことですが、彼らがなぜそのような発想になるのか、という点も、もしご見解があるようでしたら合わせて教えていただけると勉強になります。 いずれにしてもこの件に関してはとりあえず、お答えをいただいてから、ということにしておきます。   *備考2 もし、疑似体験では傷つかない、ということであれば、恐れ入りますが具体的な例をあげていただければ助かります。 私の頭では推測すら難しいので。 ほんとお世話かけて申し訳ありませんが。 無校正のまま投稿しますので悪しからず。  

noname#80116
質問者

お礼

 我が世の春をめでたいという輩が おっぱじめた悪事であるでしょう。用意周到 実力発揮 優秀も優秀 おまけに 勤勉ガリ勉と来ています。《世間虚仮 唯仏是真》という標語をかかげ 聖なるという描像をも 持たせます。つまりあるいは 一人のアイドルをそのようにこしらえ かれがその叡智をしぼって掲げたのだとお触れ書きを示させ さらには悲劇の英雄に祀りあげ 神聖不可侵に磨きをかけ あとは 《和が一番》とすり込みからかす。世界に冠たる国が築き上げられました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  因みに、自信があればこそ自己を疑うこともできるわけです。  その姿勢を指して「自己変革」と私は呼びたいと思っているわけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように《自己変革》の姿勢をもし持っているとするなら そして その結果 いまでも このあり方としての国のかたちがよいとするなら――そういう民意・総意であるのなら―― わたしは もう すみやかに 隠退します。  ★ ○ 自分の内面に起きた心のゆがみとしての自己表現における悪によって 相手が 傷つくものであるとするならば 問いかけるにしろ 対話をするにしろ 気をつけて そのような《わが悪による相手に対する傷つけ》を起こさないようにしたい。  ☆ 《わたし自身の悪によって 相手が 傷つくものであるとするならば》という仮定条件を わたしは まだ 信じていないという意味です。  だいたい お応えできたかと思いますが 哲学のためにも 不都合・不十分なところについて さらに ご指摘ください。  * 《☆ 常識では 感情を 凹凸の凹のほうつまり 抑制するほうを 選んでいる》――もしこれが 《本能》もしくはそれに近い自然本性であるとしますと それは それでも あくまで 横の人間どうしの関係において 現われる状態なのだと考えます。また 凸のほうで 本能ないし くせ・習慣が 現われる場合も あるのではないでしょうか。  それを考え合わせても 縦の人間関係においてのみ 《感情を抑制する》くせがついているのであって 横の場合にも それが 出ているとすれば それは 派生的な影響であると思います。夫婦間で感情を抑制する傾向を 生涯 つづけるとは 思えません。

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん 来ましたね。ご回答をありがとうございます。  大筋での共同主観(コモンセンス)形成の確認のもとに いくつか思ったところをつづります。引用・表現を短縮または割愛せざるを得ませんでした。ご了承ください。  ▲ 《レイプ殺人犯に誘拐・監禁された少女の手記》~~~~~  http://allabout.co.jp/family/bohan/closeup/CU20051013A/  「忘れることはできないが、自分の中で区切りをつけることはできる。この本を書くことによって、過去に起こった事実として、事件の形跡を残すことはできたが、これから始まり続いていく未来に、この不幸な出来事は、≫私にはもう 関係はない≪。  これからの人生を前に向かって歩んで生きたい」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1995-56年 ベルギーにおける誘拐・監禁・殺人にわたる《デュトゥルー事件》。80日間監禁されていて 救出された当時十二歳の少女は ちょうどその数年後の裁判の際に現わした姿を わたしもヱブ映像で見ましたが 《あぁ この人間は 傷ついていないな》と思ったものです。  この上の参照サイトの紹介者は  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  多くの人が子どもの頃に、程度の差はあってもなんらかの性被害に遭っていると考えられます。誰にも言えないまま心の底に閉じこめてある記憶が、≫心の傷になっている≪人は多いはず…。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と書いていますが わたしには もし趣旨説明の(2)の場合を除けば いっさい 心が傷つくということは ないし あり得ないと なお 思っております。触れておられた  ★ 《強制》  ☆ としての意志行為は へそ曲がりであり 悪であるだけではなく 無効であるという判断です。人情の問題としては 《蚊が刺しただけである》というべきものです。なら 傷つくことは ないでしょ?  つまり 被害者の側においても おのれの心に意志のゆがみが有るか無いかをめぐる(2)の場合を除けばという条件も 不可欠な要件になるのではないでしょうか。  ですから もしこの見解が通るなら  ★ 逆らいようのない強制〔という〕悪〔については〕・・・ / 恐怖というよりは傷つきそのものに直結するような気がします。  ☆ という場合にも 強制一般というふうに拡大しても 当てはまるように 強弁したいと 思っております。それは 傷つきの疑似体験であり 傷つきそのものではないのだという意味です。  無効の行為によって わたしの自由が奪われたとしても つまりそれは 無効なのであり 初めから まったく 無かったことになるのですから。確かに とばっちりがありますが あたかも その悪行者が みづからの自然本性の善に戻るのを わたしは 助ける役割を担ったというかっこうになります。身体や財産には傷を負ったことになるでしょうが。  ☆★ 統治 または 直接間接の統治手段として用いられる道徳規範の問題  ☆ 《和を以って貴しと為せ》は わたしたちの脳裡に刷り込まれているのではないでしょうか。《和》という音のひびきが聞こえたら わたしたちは ただちに 思考停止しますし おとなしくなるという条件反射を伴ないます。と言っていいのではないでしょうか。――これは   ★ 本能  ☆ の問題とは 別だと考えます。なぜなら 横のつながりとしての友だちや同僚 あるいは 直接に識別できるほどの範囲の仲間のあいだでは この《和》という言葉を聞いても たしかにそうだと思うくらいです。悪友どうしなら かっこうつけるなよと応答するのが 落ちです。そして 本能を持ち出すのでしたら 本能というのは こちらのほうの場合に合っている。つまりそのようなけんかもするが和気あいあいの情況のほうが 本能にとっても ふつうであり 合っていると思われます。  問題は 《WA》という響きが 頭の上から 縦の関係において 降りて来る場合です。これは 意識していないでしょうが もしそのように意識していないとすれば ますます マインドコントロールによるしわざであると断定したい気持ちに傾くのです。  《和》は大事ですが 誰かが 頭のてっぺんを超えた上から――ちょうど 或る日或る時 この地のあたりに 一本の線を引いて 内側は わが領土 外側は 外国である よく心得たまえと詔勅(みことのり)が降りてくるごとく―― 《貴しと為せ》と言われても 言われたから 和が貴いのではないではないかと 反発するのが むしろ ふつうです。国境も どちらかと言えば 悪でしょう。共生・共同自治にとって そもそも 個人としての人間のへそ曲がりに発しているでしょう。

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