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道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

hakobuluの回答

  • hakobulu
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回答No.6

#4です。 > 安寧第一のためにこそ 互いに 異なる考えを 差し控えるのではなく きちんと 述べ合って 明らかにし合い 出来るところは すり合わせつつ 共通の理解を つねに 得つつ 共生していくのだ。 :同感です。 それ以外のなにものもありはしません。 前回も『「相手に対して 問い質す」のは正しくはある』 と述べました。 しかし、 『が、(常識という視点からは)ふつうではない。』 とも続けました。 正しいのになぜふつうではないのか。 ということに関しては、 「他者からの(感情的)影響だと制御が難しい場合が往々にして生じる。」ために、 「人間というものはその手の制御が難しいものだということに関してお互いに暗黙の了解がある」からです。 (たとえば友人間において)「>離反という結果」をもたらしたとしても、おためごかしの友人ごっこを続けるよりは圧倒的に有意義なことでしょう。 >  ○ 常識では 感情を 凹凸の凹のほうつまり 抑制するほうを 選んでいることに関して なぜか。  ☆ これに関して 得た一つの結論は 凹という二分の一のそのまた二分の一の選択肢として 社会の統治のためだというものです。 :石器時代などよりさらに前の人類当初の祖先たちは凸だったと思われますが、社会当時のために凹を身に着けていった、ということでしょうか。 私としては、単に他者の脅威から自分を防衛するため、つまり一種の慎重さ、あるいは臆病さの結果ではないかと思っているのですが。 社会秩序よりも本能の変形という感じでしょうか。 >外から来る悪に《傷ついた》と感じる疑似体験を持つのは おそらく われわれ人間が うそから自由になることのむつかしさを いやというほど知っており その無力感が 外から来る悪に対して 忌々しさを感じさせるところからくるのではないか。 >忌まわしいというのは 自分の非力に対するものでもあるわけです。これが 共鳴しているとすれば 疑似的な《傷つき》体験を持つ こう推し測りました。 :実際、同じような現象が身に降りかかったときに、その現象を悪とみなす人もそうでない人もいるでしょうから、おっしゃりたいことはわかります。 しかし、全くの素人的発想になってしまうのでしょうが、有無を言わせぬ悪、あるいは圧倒的な悪、というものはやはり存在するのではないでしょうか。 個人にとっての「傷つき」が全て内面の歪みによるものという捉え方は、やはりよくわかりませんね。 自己投影的な悪も少なからず存在するというのであればまた話は別ですが、一般的に悪と認識されてきたもの全てに対して存在しない、と言い切るわけですよね。 私の理解が足りないのかもしれませんが、このへんがどうもよくわかりません。 地震で家が倒れるのは家の構造が軟弱だったから、というのは確かに事実でしょうが、しかし、そうであったとして、構造さえしっかりさせれば地震など無いも同然、という発想をする必要があるのかな、というイメージです。 間違ったことをおっしゃっているとは思いませんが。 > ○ 悪は 現象として 起きているが 悪そのものとしては 存在していない。  ○ 心が 傷つくのは おのれの内面における《ゆがみ》をめぐるその現象としての悪による。 :悪を凌ぐ方便としてはよろしいんじゃないでしょうか。 しかし、現象であるならば原因があるはずで、それはどういったものか、ということのほうにむしろ興味が湧きます。 >(うそから自由になることのむつかしさを いやというほど知っており) その無力感が 外から来る悪に対して 忌々しさを感じさせるところからくるのではないか。 :大体同感できる箇所ですが、ここも、私にすれば、 (元から持っていてそれと気づかない)ある種の忌々しさが無力感を伴って個人の内面にゆがみを生じさせ、外から来る刺激に対して不必要なほどの悪を捏造してしまうのではないか。 としたいところです。 捉え方の問題なので、おっしゃっているように殆ど差異はないものと思われますけれども。 >忌まわしいというのは 自分の非力に対するものでもあるわけです。これが 共鳴しているとすれば 疑似的な《傷つき》体験を持つ :ここが要点なのかもしれませんが、この論理の元になっているのは、非力であること自体が悪である、ということになりませんか? >★ 自己変革  ☆ は みづから意識しつつ 意志によって 積極的に おこなうという性格のものでしょうか。ううーん。わたしの場合 いまの段階では 《あやまつなら》というように 受け身の姿勢を想定しています。 :この部分は勉強不足で、よくわかりません。 「あやまつなら」がどのような意味で「受け身」となるのか。 また、自己変革とどのように関連(あるいは対応)するのか、もう少し噛み砕いていただけないでしょうか。 > * あっ。これは そもそも 最初のウソは その時点で 不本意と本意との間のゆがみを伴なっており わたしは そのことを知っていますね。そのあと 社会的な関係性の世界において 再確認することになるのでしょうか。これなら 受け身ですね。もっと 積極的な《ゆがみと傷つきにかんする気づき および そこからの自己変革》が あるでしょうか。 :同様に、この部分もよくわかりません。 bragelone さん頭良すぎるんだよなあ。 いや私が・・なだけか。 ご面倒でなければ教えてください。 どうも場当たり的な回答しかできなくて申し訳ないです。  

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。微妙に 焦点の当て方が違うのか それとも 基本的な善悪観から違っているのか。まだ 読み返す回数が少ないのですが どちらにも 当てはまるように受け取ってしまうわたしが います。どうしたものか 思案しながらのお応えです。  ★★ このようなものである(=最初の傷つきというものが人間には必ずもたらされる)ために必要とされるのが「自己変革」ということではないか、と漠然とですが考えています。  ☆ この《自己変革》につきましては 正直に言って よく飲み込めていません。憶測で わたしのほうからは 《あやまつなら われ あり》という場合の《気づき》の例を出しました。こちらのほうは 《あやまちに気づいたとき わたしが わたしである》というものです。  ウソの場合は ついた時点で 意志(こころ)からの歪みに気づいているはづですが それが あやまちだと気づいたときに 再確認するという意味で 例として 出したものです。その再確認のあと やっと 《自己変革》することになるので 《受け身》であると捉えたものです。もっと 積極的な自己変革の場合が あるのかなと思ってのことでした。  ○ 悪は 存在するか。  ☆ をめぐって どうも 見方によっては 互いに 真っ向から 対立した見解であるようにも思われます。精確には 《現象としては 悪は 存在する》と言っていますので  ★(α) 個人にとっての「傷つき」が全て内面の歪みによるものという捉え方は、やはりよくわかりませんね。  ☆ ここらあたりの問題になるでしょうか。そしてこのことは  ★(β) しかし、全くの素人的発想になってしまうのでしょうが、有無を言わせぬ悪、あるいは圧倒的な悪、というものはやはり存在するのではないでしょうか。  ☆ とつながっていると思われます。(β)は 《悪と呼ぶ現象が 存在する》ことに問題はないのですが このばあいは 《圧倒的な悪》によって 心が傷つくことはないし あり得ないという命題の問題です。恐怖に震えることは 傷つくこととは 別だという考えなのですが どうでしょう? すなわち みづからの心に歪みがないのならば そのように外から来る悪によって 肝っ玉が震え上がったとしても 心が傷ついたということではないという見立てです。恐怖体験による後遺症があるという場合は 弱さの問題だと捉えます。そしてこの弱さの問題にかんしては  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >忌まわしいというのは 自分の非力に対するものでもあるわけです。これが 共鳴しているとすれば 疑似的な《傷つき》体験を持つ :ここが要点なのかもしれませんが、この論理の元になっているのは、非力であること自体が悪である、ということになりませんか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というご指摘ですが どうですかねぇ。もしおっしゃるように  ★ 非力であること自体が悪である  ☆ としますと この非力という悪によって ひとは 心が 傷つくでしょうか? 傷つかないと思うのです。歪みがなければ どれだけ 《うそからの自由を実現し得ぬという弱さ》を持っていても 傷つくことはないと思うのです。後ろめたくはないはづです。この弱さは 人間の条件であるに過ぎませんから。  ですから   ○★ 感情を露わにしてでも 『「相手に対して 問い質す」のは正しくはある』  ☆ ことは人間関係において ふつうであるという現実も ありうるとは 思うのです。歴史と伝統にそぐわないという場合があるかも知れませんが 可能性を排除する理由もないように考えます。  言いかえると 共同自治のためには   ○ 感情をあらわにする応対の仕方も 感情を抑えるそれも どちらも ありうる。  ○ けれども 統治の方式としては 特に 日本社会の場合には おそらく すすんで 感情を差し控えるのではなく 道徳規範の提示によって(つまり お上からのお触れによって) まづ 思考停止に陥り あたかも条件反射としてのように 感情抑制の動作に入る。のではないかという仮説。  ☆ このように なお 考えております。  ★ (たとえば友人間において)「>離反という結果」をもたらしたとしても、おためごかしの友人ごっこを続けるよりは圧倒的に有意義なことでしょう。  ☆ この文章を わたしは誤解したのでしょうか 上のような見解をまだ持ち続けています。どうでしょうか。

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