• ベストアンサー

道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

hakobuluの回答

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

>感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう? :単純に考えて(というかそれしかできませんが)、時と場合によるということにすぎないと思います。 たとえば、昼は淑女で夜は娼婦のような振る舞いが理想の女性像などとも言われます。 事実ではある(否定される方はおられないと思いますが)がどのようなタイミングで露にするのか。 が問題になるということはあるでしょうが。 >  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。 :確かにそういう視点はあるでしょうが、しかし、きっかけとなるものが外から来たのであれば、それによって傷ついたと表現するのが妥当ではないかと思います。 少なくとも、あり得ない、と言い切るのは疑問と感じます。 >  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。 :このような場合に限定してであれば、確かに(絶対的な)悪は存在しないと言うことは可能かもしれません。 この場合、 「>自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。」というよりは、 そういったものを持っていればこそ、やってくるものを「悪」と感じる。 という側面もあるように思われます。 ですから、個人的にはむしろ、 「>その歪みによって 傷つく」というよりは、 「(すでに)傷ついているものが悪を自ら招来する」という捉え方のほうがしっくり来るかもしれません。 しかし、その最初の「傷つき」が何によってもたらされたのか。 という問題が残ります。 これに関して解明することはまた別の問題になるでしょうが、このようなものである(=最初の傷つきというものが人間には必ずもたらされる)ために必要とされるのが「自己変革」ということではないか、と漠然とですが考えています。 ここで述べたいことは、 悪は存在すると捉えるべき。(1) つまり、 歪みがなくても人は傷つくのではないか。(2) ということです。 3,4,5に関してはおっしゃるとおりと思います。 >こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう? :「>かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。」 ということなので参考URLを拝見しましたが、さっぱりわからず・・・(-_-;) brageloneさんの質問に答えるなどと大それたことをする気になった自らを反省したところですが、せっかくここまで書いてきたことですし、ごり押し的に(=おそらく真意とは外れているでしょうが)続行してみます。 >相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう? :「相手に対して 問い質す」のは正しくはあるがふつうではない。 というように思います。 「常識=ふつう」ですから、「>そうではない」ほうが自然です。 常識とは個を抑制して集団に利するという精神?のもとに作られた了解事項でしょうし、しかし個を抑制することのみで全て事足りるわけもなく、さらに抑制が過剰に作用する場合も当然あるわけで、それが「正しくない」方向に作用することは容易に推測できます。 ではなぜそのようなものが常識としてふつうとされるのか。 人は感情と理性の両方を行ったり来たりしつつの生だと思いますが、両者は互いに関連し、影響を与え与えられつつ。 ということになっているでしょう。 ところが一個人の中でもその調整がうまくいかないことが多いのが人間の性で、まして他者からの(感情的)影響だと制御が難しい場合が往々にして生じる。 諍いの発端となり、集団の秩序が乱れやすくなる。 「>問いただす」ことによる切磋琢磨やら向上やらよりも(多少下降しても良いし何しろ)安寧第一というのが「常識」の基本精神なのだと思います。 つまり、(現在の進化段階においては)人間というものはその手の制御が難しいものだということに関してお互いに暗黙の了解があるのでしょう。 「正しい」と予測される行為を抑制してでも常識は守られるべき、と一般に(暗黙的に)考えられているのは、これが理由ではないでしょうか。 しかし、「制御できる」人々にとっては、何とも摩訶不思議なものだなあ、と感じる。 ということだと思います。 瞬間的な反射能力が普通の人の百倍ある人がいるとすれば、交通信号がなぜあるのか不思議に思うことでしょう。 このへんに関連する(と私が思う)最近の出来事はオバマ大統領の就任です。 ほんの半世紀ほど前まで、いやもっと近い過去においても、黒人の大統領が誕生するとは誰も想像すらしていなかったはずです。 時が変えた、とも言えるでしょうが、時が実質的な主語であるはずもなく、やはり変えたのは人間の思考の(地道な)集合であったのでしょう。 常識というものも、そのように段階的に変化していくのではないかと思います。 今でもクークラックスクランなどは、おそらく彼らなりの常識ゆえに歯噛みしているのでしょうが。 (変わらないように見える)常識の大勢が変わるということはあるのだと感じます。 ところで、リンカーンが宣誓に使ったのと同じ聖書を使う予定だったらしいですが無かったようですね。 同じものであればさらに盛り上がっただろうに、と少し残念。 どうも、「>忌憚のない(見解を)」とおっしゃっているのを、 「好き勝手なことでもOK」と勘違いしたかのような投稿になっているような気もしますが、一度回答してみたかったので。  

noname#80116
質問者

お礼

 どうでしょう。  ★ 自己変革  ☆ は みづから意識しつつ 意志によって 積極的に おこなうという性格のものでしょうか。ううーん。わたしの場合 いまの段階では 《あやまつなら》というように 受け身の姿勢を想定しています。――ちょっと 考えてみます。  * あっ。これは そもそも 最初のウソは その時点で 不本意と本意との間のゆがみを伴なっており わたしは そのことを知っていますね。そのあと 社会的な関係性の世界において 再確認することになるのでしょうか。これなら 受け身ですね。もっと 積極的な《ゆがみと傷つきにかんする気づき および そこからの自己変革》が あるでしょうか。うううーん。  * リンカンの聖書 を オバマは使えなかったのですか? 知りませんでした。宣誓を あとで やり直したことは 知っていますが。

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  一度 お話をしてみたかったです。ところが 今度 ハコ ブ ルさんだと正しく認識しました。なぜか ハコ ボ ルさんだと思いこんでいました。すみません。何でもないことです。  ★ 常識というものも、その〔* 黒人大統領の誕生という〕ように段階的に変化していくのではないかと思います。  ☆ ファビアン主義と言いますか なかなか 《常識》に立脚したむすびを掲げていただいたので――賛同すると思いきや いぢわる魂が むくむくと 頭をもたげてまいります―― このメタ常識にも 歯向かう豪胆ぶりを《発揮》することに決めました。  ★ 安寧第一というのが「常識」の基本精神なのだと思います。  ☆ こうは 考えられませんか? 安寧第一のためにこそ 互いに 異なる考えを 差し控えるのではなく きちんと 述べ合って 明らかにし合い 出来るところは すり合わせつつ 共通の理解を つねに 得つつ 共生していくのだ。――たぶん 例の《おのれの欲するところを ひとにもほどこせ》と《おのれの欲せざるところを ひとにおこなうなかれ》との違いなのでしょう。ということは 歴史と伝統の問題になるでしょうか。  じっさい 細かいことを言えば 友だちどうしなら 互いの異なる意見を いやというほど 明らかにし合って 互いに ばか呼ばわりでもして けんかを通じて 共同の主観を築き上げていきますよね。とは言うものの 離反という結果をもたらす場合も けっきょく あるので これも 一概には 言い切れないというところでしょうか。  ○ 常識では 感情を 凹凸の凹のほうつまり 抑制するほうを 選んでいることに関して なぜか。  ☆ これに関して 得た一つの結論は 凹という二分の一のそのまた二分の一の選択肢として 社会の統治のためだというものです。もっぱらの公民の世界から見ると 道徳規範を掲げることによって その威厳から 市民らは あたかも思考停止になり ただちに 同じくあたかも条件反射のごとくに 感情を抑制し 《公的安寧》に随順することをよしとする統治術だというわけです。その歴史の重みがあるというものです。――たぶん 四分の一の確率で 妥当な見方だと思っています。  あとは それによって心が傷つくところの悪が 外からやってくる場合のお話です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    悪は存在すると捉えるべき。(1)  つまり、    歪みがなくても人は傷つくのではないか。(2)  ということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの現段階での結論は  もしそうであれば  ○ そのように外からやってきた悪による傷つきは 《疑似体験》である。  ☆ というものです。したがって   ○ 悪は 現象として 起きているが 悪そのものとしては 存在していない。  ○ 心が 傷つくのは おのれの内面における《ゆがみ》をめぐるその現象としての悪による。  ☆ と いまのところ 固執しています。  ★ そういったもの(* ゆがみ)を持っていればこそ、やってくるものを「悪」と感じる。  ★ 「(すでに)傷ついているものが悪を自ら招来する」という捉え方のほうがしっくり来るかもしれません。  ☆ この二つの見方については 表現の問題として捉えるなら 《悪がおのれの心の内面において起こる》説と 矛盾しません。したがって このとき どうしても 《表現の問題にすぎない》と言い張り続けて  ★ 少なくとも、あり得ない、と言い切るのは疑問と感じます。  ☆ に対してさえ かたくなに抵抗しようと思うわけは 考えるに こうです。外から来る悪に《傷ついた》と感じる疑似体験を持つのは おそらく われわれ人間が うそから自由になることのむつかしさを いやというほど知っており その無力感が 外から来る悪に対して 忌々しさを感じさせるところからくるのではないか。  忌まわしいというのは 自分の非力に対するものでもあるわけです。これが 共鳴しているとすれば 疑似的な《傷つき》体験を持つ こう推し測りました。いかがでしょう。  あとは 《自己変革》のことですね。  ★ このようなものである(=最初の傷つきというものが人間には必ずもたらされる)ために必要とされるのが「自己変革」ということではないか、と漠然とですが考えています。  ☆ 少し 角度がちがうかも知れませんが わたしの場合は  ○ あやまつなら われ あり。(欺かれるなら われ あり。)  ☆ を持ってくるところです。

関連するQ&A

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

     次の二つの理由で あらためて問います。  新しい回答者から別解が得られるかも知れない。そして 究極の悪という現象に関して まだうまく捉え切れていない。  たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。     かつての質問は つぎです。  【Q:究極の悪とは――存在について――】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html  【Q:悪は 存在しない】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html

  • この感情はなんなんでしょうか?

    24才男です。 以前告白して振られた彼氏もちの女性と、振られてから現在にいたるまで連絡をとっています。 (振られた状況は、長くなるので過去の質問を読んで下さるとありがたいです。http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4010145.html ) 今でも、胸が苦しいんです。 現状としては、同僚が彼女のことを「かわいい」とか言ってたりするのを聞くと焦り?に近い感情をもってしまい、彼女に悩み事があることを聞くと自分が忙しくても、相談にのりたいと思ってしまいます。 でも、愛とか好きというドキドキや感情でもないような気がするのですがほっとけないのです。 そのくせ、電話やメールが終わった後、胸が苦しくなるんです。 この感情はなんなんでしょう? 私は彼女と連絡をとるべきではないのでしょうか? 誰か教えてください・・・悩んでいます。

  • 悪は 存在しない

     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • 一時の感情

    また来てしまいました。 自分の中ではダメな自分を切り替えていこうと思っているのですが。 皆さんに頼ってしまいます。。。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4537988.html(最初の書き込みです) また教えていただきたいことがありまして来てしまいました。 付き合っている人がいる時に自分のことで精いっぱいの人、忙しい人というのは その時の感情で別れを言ってしまっても ある程度時間(私の場合は最低10か月おけます)をおいたら 冷静になって考えてくれるのでしょうか? 一時の感情で別れを告げてしまった経験のある方、また告げられた方 どんな気持ちだったか、それからどうなったか教えてください。 よろしくお願いします。

  • 感情を体で表現してしまいます。

    http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2951829.html 上の質問をして回答者さんにお礼を書いた時、 気がついたのですが、私は感情が心より体に出るらしいんです。 嬉しくなったときは、しばらく部屋をうろつきます(笑)。 テレビとか見て、すごーい!!と思ったときや 芸能人の武勇伝を聞いた時なんか共感してなんか頑張れそう! と思った時、興奮のあまり2階から1階までかけ降りて、 そこでちょっと部屋をうろうろしながら なんでそう思ったんだろう?とかなんで感動したんだろ、 とか感情に動機の理屈をつけたがるのです。 動き回りながら。 そして、冷静になったところで、また2階のテレビの部屋に 戻って続きを見ます。 なんか書いてて変な人ですねw 感情が高まると体に表れることは別にして、私は自分の思ったことに なぜこう思ったのか?とか自分の考えの背景を知りたがるのです。 かなり理屈っぽい性格なので、こうなってしまったのかな? という気持ちもなくありません。 なぜこんな行動の取り方をしてしまうのか、理解出来る方、 ご回答をよろしくお願いします。

  • 素直に感情を表現すること

    こんにちは。 先日以下の質問をしました。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4224827.html こちらの質問では、素直に感情を表現して受け入れられなかったら 合わなかったと思って諦めろ…のような回答が多いと思います。 最近彼に自分の気持ちや感情(良いものも悪いものも)を伝えることが できるようになったのですが、毎回は重いですよね?(要求や批判ではないですが、最近は毎回深い話になってしまうので。。)  (1)みなさんにも、こういう話ばかりする時期ってありますか?そして、これは必要なことですか? (2)また、おかしな質問なんですが、そういう感情というのはできるだけ我慢して、たまに伝える…くらいじゃないと負担になりますか? 以前は気持ちを我慢して伝えられないのがストレスだったのですが…最近では伝えた後に彼が重いと感じなかったか等が不安でストレスです。 まとまりのない文章ですが、よろしくお願いします。

  • 胸が高鳴るのは「恋愛感情」がある時だけ?

    初めまして。 こちらをクリックして頂いて有難うございます。 一旦締め切りましたが、 やはりもう少し色んな方に相談に乗ってもらえたらと思い再投稿しました。 内容はそのままなので何かお返事頂けたら嬉しいです。 どうぞよろしくお願いします。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3414231.html 【胸が高鳴る時、それが「優しさ」に対する感情なのか、  「人間(相手)」に対する感情なのかが気になっています。  異性に対してドキドキする時というのは  必ずどこかに「恋愛感情」が潜んでいるからだと思いますか?そうでない時もありますか?】

  • 感情の不思議な性質について

    哲学か心理学かで迷ったのですが。 感情ーたとえば僕が誰かを好きとか嫌いとか、ほかのいろいろな感情は、僕自身の脳と心の中に抱く(生まれる)ものです。 でも同時にそれらの感情は必ず向ける対象を必要とします。一人相撲では感情は現れようがありません。感情を向ける対象が存在するからこそ感情が生まれます。当たり前ですが。 つまり感情は自分と外の世界(主として他人)との関係であるとも定義できます。 上の2つをまとめると、感情は自分の内面に存在するもので、かつ感情は自分と自分の外部との関係そのものであるということになります。 これは主観の世界のとても根源的な性質です。当たり前と思う人も多いと思いますが、僕自身はこの性質にとても驚きます。感情は自分の内に存在し、同時に外部との関係であるということに。 客観世界ではまずありえないことだからです。内と外に同時に存在するということは。量子力学の不確定性原理あたりを除けばですが。 こういうことは心理学ではどう定義されてるでしょうか?また脳科学でミラー細胞が発見されて、その性質とも深く関係してると思うのですが、そのあたりの説明はされてるのでしょうか? 事情にお詳しいかたおられましたら助言をよろしくお願いします。

  • 感情の整理がつかない

    下のリンクでBCASカードのドライブにmicroSDカードを誤って刺してしまい修理すればいいかと投稿した者です。 https://sp.okwave.jp/qa/q9893887.html 結局、修理に出すことに決めましたが、自分がやったことのあまりの情けなさに塞ぎ混んでしまい、感情の整理がつきません。 システム業界にいて、何でこんなミスをしたんだ馬鹿野郎と、自分をとにかく責めています。 心を落ち着かせるためには、どうすればいいか教えてください。 30代後半になって気持ちの切り替えもスムーズに出来ずすみません。