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もっと実用的な哲学はないものでしょうか?

ab92の回答

  • ab92
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回答No.13

東洋哲学は哲学というより"求道"だよね。 孔子とか老子とか空の思想とか。 西洋哲学=what? why?を問う論理性を重視する学問。 東洋哲学=how?を追究する直感的な人生の道標。 人間は必ずしも、確実性や真実だけを求めているわけではないから、 how??の方が重要だと思うよ。 だって月は直感的な感受性で見るからこそ美しいでしょ。 もし月を論理で考えて、「月も所詮、分子の集合体に過ぎない」 なんて言ったら、悪感が走るよね。 「人間の心が所詮は物理法則で説明できる」なんて証明されて、 それが真実だったとしても、だから何??ってことになるでしょ。 重要なのは、なぜ?ではなく、 どう生きるか、どう考えるか、だと思う。 よって日本人なら東洋の思想をお勧めする。

cat_v
質問者

お礼

>東洋哲学は哲学というより"求道"だよね >西洋哲学=what? why?を問う論理性を重視する学問。 >東洋哲学=how?を追究する直感的な人生の道標。 なるほど…。 おっしゃる通りですな。 ひょっとしたら現代哲学に抜けてるのはこれかもしれませんね。 >もし月を論理で考えて、「月も所詮、分子の集合体に過ぎない」なんて言ったら、悪感が走るよね。 まさにその通りです。 ただ、私が思うに「月が分子の集合体」である事と「月の美しさ」と“両方知っておく必要がある”と思うのです。 むろん、学問において専門化させ細分化させる必要があるのは確かですが、「どちらが正しい?」となるとまたおかしな話になるわけで。 「ある意味どっちも真実」であり「どちらも正しい」わけです。 しかしながらどちらも違う分野であり、ところが「対象は同じもの」である為、「見方が違う」事で違った見解や見識が見えてくる…。 これが膨大な量になり、より複雑である事が多くなってきた為に、‘仕分け’と‘共通性’を見出すのが難しくなってきている…。 価値観の多様性と自由性により、より状況がカオスになり逆にかえって不透明になってしまった…そんな印象を最近受けるのです。 ある意味、安易に「肯定」や「否定」ができない為に、世の中がより「曖昧」になってしまったとも言えます。 ちょっとおどけて言えば、「粋じゃない」世の中ですよね…。 人の‘温かさ’や‘優しさ’を証明しようとして、存在してるはずなのにかえって不透明になり、遠のき、感じられなくなり、なくなってしまった…。 なんともはや…う~んはっきりしませんね…;

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