• ベストアンサー

ユニセフと偽善と私

 たまにユニセフに寄付しています。年に1度くらいですが、会員です。  テレビなどで、貧困で可哀想な子供達のドキュメントをやるたびに、「やっぱり自分はお金がないっていっても、この子達に比べたら天国だな。生きるか死ぬかなんて、日本ではないもんね」と思って、寄付するのですが、本当のことを言うと、 ・良いことをすればいつか自分にとって、良いことがあるんじゃないか ・自分は死んでも地獄に落ちることはないだろう とか、自分のことを考えていることがあります。これでは偽善であって、善意ではないのでこんな考えのまま寄付をして、一体意味があるのだろうか?と思って今年はまだ寄付していません。  そこで、お聞きします。 A.こんな考えのままでも命が救われるのならば寄付するべきだ B.そんな考えの寄付には全く意味がないので止めておいたほうが良い  今はBの気持ちで、いずれ自分がもっと精神的な成長が出来た時に寄付を始めたほうが、自分のためにも良いのではないか?と思っているのですが、どうでしょうか? お願いします。

noname#76274
noname#76274

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.3

私はAですネ。 そのような気持ちがあっても、相手に届けば良いとしなければなりません。 あなたのお金で救える命があるのなら寄付を続けてほしいです。 お金を寄付することによって、自分のことをかえりみない 愛の心を育てていけばいいのです。 そんな考えは偽善なのかも知れませんけれど、 それでもあなたの中にあるかわいそうという良心があるではないですか。 その良心、真心を信じてほしいです。 いずれ自分がもっと精神的に成長できたときに寄付を始めるのもいいですよ。 けれども、それは寄付をしながらでも精神的に成長することは可能でしょう。 ユニセフに寄付をしてどうぞ子供たちを助けてあげてください。 偽善にとらわれずに、貴方の中の真心を信じて寄付してくださいませ。 人を救えることを本当に喜んで寄付が出来ればいいのですよネ。 良いことをすればよいことがかえってくるというのも一つの真実なのかも知れません☆ それはそれでいいのです、それよりあなたが寄付することで 救える命があるというのは一番大切なことです。 これからもぜひ寄付を続けて欲しいです、それによって人が助かるのなら良いではないですか☆ 見返りを求めない愛の心で寄付ができるように、願っていますネ☆ あなたの良心を信じてあげて下さいませ☆

noname#76274
質問者

お礼

やはり、少しずつだけでも寄付しようかなと思います。 今回、寄付を見送っていたのですが、すごく悪い気分になりました。 次回は、今回分も足して寄付しようと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (6)

noname#65880
noname#65880
回答No.7

一応Aになりますが、そこまで深く考える必要はないと思いますよ。 募金箱に入れるか入れないかの動作の違いなだけです。 気持ちなんて相手には分かりません。一対一じゃない限り。 私も昔パンダのマークのに動物なんとかって寄付をしてました。 でも数回寄付したあとに止めました。 入った理由も特にないです。たまたまお菓子の箱に書いてあったから どんなものかと興味本位でしただけです。 ただの気まぐれでやりました。 でもしてる間は質問者さんと似たような気持ちも持ってましたね。 寄付してんだから、してない人よりマシだ・・とか いつか自分にいい事があるって。 止めた理由はお金を全部自分に使いたいからです。 偽善だとか考えた事すらありませんよ。 それ以来寄付関係は進んでしてません。 会社とかで「寄付して」とかあったら本心では嫌々ながらしています。 しなかったら陰口言われそうだし、そこまで断る理由も特に ないから、まあその場の空気を壊さないためですね。 でも嫌々寄付したから善意では無いか?と問われると難しいですね。 お金という物体がその箱に入っているのは現実ですし 善意で入れた人のお金と、嫌々入れた私のお金が交ざれば もう見分けがつきません。 偽善かどうかも他人が判断することであって 自分自身で「これは偽善だ」とか考えなくてもいいと思います。 深く考えず、その時自分に余裕があれば寄付をする・・と 考えればいいんじゃないですか。

noname#76274
質問者

お礼

 余裕がある時にするというのも有りですね。  実は、ドンドン引き落とされていくお金があるので迷っていたこともあります。でも、「日本と外国では大変の意味が違うよなあ。。」と思って、寄付していました。  皆さんの意見を聞いて、寄付は少しづつでも続けることにしました。  無償の愛で寄付をされている人ってどのくらいいるんでしょう?  そういう人はすごいなあと思います。私はそういう時が来るのか分かりませんが・・・ ありがとうございました。

noname#94983
noname#94983
回答No.6

B. といっても「そんな考えの寄付には全く意味がない」からではないぜ。現時点で、寄付に疑問を感じ、やめているんだよな? だったら、納得できるまでやめておけばいい。そう思う。 こういうと冷血漢に思われるだろうが、寄付ってのは、「今、この瞬間にも失われていく命を、あなたのお金で助けるため」にするものでは、ない。いや、もちろん、寄付することで救われる命があるだろうことは確かだよ。だが、「だから寄付を」ということになったら、「寄付をやめる=寄付をすれば助かる人たちが死んでもいいのか」という話になってしまわないか? そうじゃないだろ? 寄付は、あくまで「する人間の意志」の問題だ。それでどこの誰が救われるかといったことは、寄付をした結果の話であって、寄付をする段階で口にすべきことじゃない。寄付をするかどうか、というところで「出せば命が救われる」うんぬんを持ち出すのはフェアじゃないだろ。そのことを出したら、「寄付しない」やつはすべて悪人になっちまう。寄付は、するのも自由、しないのも自由、のはずじゃないか? 少なくとも、寄付は、何らかの強制などでなく、あくまで個人の意思ですべきものだ。だから、自分自身で「寄付することへの疑問」があるならば、すべきではない。というか、「寄付に疑問を感じている人間に、寄付を強制すべきではない」といったほうがより正確だろうな。「寄付はやめておこうかな?」という人間に、他人が「いや、寄付すべきだよ」というのは、なんか違うとオレは思うんだよな。 真面目にどうするか考えたいなら、とことんまで考えればいい。その結果、寄付をやめても、それは天として恥じ入ることじゃない。むしろ、世の中に流されず、自分で考える道を選んだことを誇りに思おうぜ。

noname#76274
質問者

お礼

 ありがとうございます。Bの考えもあるのですね。  それも、寄付が無駄だとおっしゃっているのではないので、考える選択肢が広がり、少し休息点になるなと思いました。  ところで、今回の寄付の振込み用紙をしばらくとっておいたけれど、破って捨ててしまったのですが、すごく悪いことをしている気分になりました。ということは、どちらにしても、「私にとって後味が悪い」ということに気が付きました。 寄付をすることで、救われることがあるならたとえ偽善でも寄付をする意味はあるのだと思いました。 なので、次回に今回分を合わせて寄付をすることにします。 ありがとうございました。

  • sicco
  • ベストアンサー率27% (134/486)
回答No.5

A。 あなたはずいぶん矛盾したことを言ってます。 >いずれ自分がもっと精神的な成長が出来た時に寄付を始めたほうが、自分のためにも良いのではないか? それだって「自分のことを考えている」だけではないですか。

noname#76274
質問者

お礼

そうですね。 やはり寄付を続ける気持ちになりました。 ありがとうございました。

  • -poachi-
  • ベストアンサー率16% (58/347)
回答No.4

財団法人日本ユニセフ協会と国際連合児童基金(UNICEF)は別団体です。 本支部や構成機関でもありません。 UNICEFの正式な日本支部「ユニセフ東京事務所」は別に存在するので、寄附金全額を国際連合児童基金本部に届けたいのであれば、そちらに直接寄付をするのが良いと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%BB%E3%83%95%E5%8D%94%E4%BC%9A 寄付をしたい人が寄付をすればいいのです。 偽善でも善意でも、それで助かる人が居れば・・・ ということで「A」で。

noname#76274
質問者

お礼

やはり、寄付したほうがいいですね。 助かる人がいるんですもんね。。 ところで、同じような名称なのに違う団体があるのですね。 私は日本ユニセフ協会だったと思います。 ありがとうございました。

  • oo12
  • ベストアンサー率44% (26/58)
回答No.2

寄付しましょう。 >・良いことをすればいつか自分にとって、良いことがあるんじゃないか  こういうのは偽善とはいいません。純粋な善意です。 善意という機能が人間に備わっているのは、人間には他人から良い行いを受けると回りによい行いを、他人から悪い行いをうけると回りに悪い行いをしてしまう性質があるからです。 この善意という機能が備わっていることにより人間全体が繁栄できるのです。 したがって、多少乱暴な言い方になりますが、自分に見返りがあるかもしれないと期待してする行為は善意です。昔の言葉で言えば「情けは人のためならず」といったところでしょうか。 まあ、言葉に出して見返りを要求してはいけないとは思いますが。 最近は無償の愛にこだわるあまり、本来人間に備わった善意という機能がないがしろにされているように思います。 無償の愛は、自分のことを考えられる人間が次の発展段階として進むべき考え方であり、自分のことを考えられない人間が手を出すべきではないと思います。

noname#76274
質問者

お礼

そういえば「情けは人のためならず」っていう言葉がありますね。 これは私のことと当てはまるのかと思いました。 情けをかけることは人のためだけでなく、自分のためにも良いことなのだということですよね? 純粋な善意・・とまで言ってくださって申し訳ないくらいですが、ありがとうございました。

noname#97233
noname#97233
回答No.1

確かにやってることは良いことに見えても 実際は貧しい人たちを上から目線で見てしまって 偽善者の自分がいることもあります。 けれども、偽善者行為だとしても、しないよりはした方がいいと思います。 我々が思っている以上に貧しい人はいっぱいいると思います。 そんな人たちを全員を助けることはできないかもしれないです。 けれども、何もしないよりはした方が絶対いいです。 何かをすることで、誰かが助かれば、少しでも助けになれば、 その子一人の人生が救われるわけですから。 だから、偽善者行為だとしても たった100円の寄付するだけで 助けられるなら 意味がないことなんてない。 考えに意味はない。 寄付することに意味があります。

noname#76274
質問者

お礼

そうですよねえ。たとえ偽善だったとしても、お金を寄付すれば救われるんですからね。 悪い気もしますが、寄付しようかなと思いました。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 偽善者はなぜダメなのか?

    偽善者に対するイメージは悪いというのが一般的ですが、そんなに駄目なことですか? "何もしない"偽善者では無い人よりも、"結果を出して実際に世の中に役に立っている"偽善者の方が、評価されるべきではないのですか?? 例えば、A君とB君がいるとします。 A君は根っからの偽善者で、最近、震災による復興活動との名目で10億円を寄付しました。ただし偽善者なので、本当に復興に役立てたいという気持ちから寄付したのでは全くなく、虚栄心からくるものでした。 一方で、B君は、震災で困っている人のために募金活動等で役に立ちたいと、本心で思っていながらも結局、行動力のなさから募金はしませんでした。 この場合、明らかに、偽善者のA君の方が、復興活動に貢献しているではありませんか!? A君が内心どう思っていようとも、実際貢献したのはA君ですよね? 「結果」、つまり「何をしたか」ということに対しての価値判断を行おうとせず、 どう思っているか、本心はどうなのか、に対してのみ、その人の価値を判断するのは、おかしくないですか??? 偽善者ではないけれど”何もしない”人よりも、 根っからの偽善者だけども"実際に世の中に役に立っている"人の方を 評価するべきではないのですか!!?? 募金活動をしている人に対して「偽善者だ、偽善者だ」と言っている人がいますが、そういう人に対しては、募金活動を全くしていないあなたよりもよっぽどマシですよ!?と言いたいところです。だって実際に貢献しているのは前者ですからね。 他の例で考えてみると、例えば目の前に瀕死の人がいたとして、根っからの偽善者のC君が手早く確実な処置でその人の命を助けたとします。もちろん本当にその人の命を助けたいと思っていたのでは全くなく、お金や名誉のためです。一方でD君は偽善者ではないのですが勇気と行動力がないため呆然と立ち尽くしていました。この場合、どう考えても偽善者のC君の方が立派な人間じゃないですか!!!! 偽善者上等です。

  • 偽善的なのか?

    自分でもよく分からないのですが、変なことで考えこんでしまう性格で…ご意見をお願いします。不愉快に感じられる方もいるかもしれません。私も自分のことが分かりません。 ・道路にお供えしてあるお花が一本折れてしな垂れていたので、なおした ・轢かれてしまった子猫を片付けようとしてる女性がいたので手伝った ・ゴミ袋が飛ばされて道路にあり、車が通りにくそうだったのでゴミ置き場に戻した どれも小さいことですが、上記のような行動をとってしまう性格です。 「善い人だね」と言われたいとか、思われたい訳では全くありません。 ただ、こういう事をしている自分自身が、時々とても偽善的でずるい人間に感じてしまうんです。 その時は本当に自然と手が出るのですが、誰に見られている訳でもないのに小さいけどいい事をしたという自己満足でしかないような…。 これって偽善なんだろうか…結局自分の為に動いてるのかと悩んでいます。上記に挙げた行動も果たして「善」なのかも分からなくなってくる始末です。 街中で手助けをしている人を見た時は、心が温かくなるのに自分が手助けした後は「偽善だったかも…」と感じます。 意味不明な内容で申し訳ないです。 私はこのままでいいのでしょうか? 偽善だと思う必要はないのでしょうか…。 読んで頂きありがとうございました。

  • なぜ日本には偽善者が多いのか

    ビルとビルの間にはさまってしまった猫を助けるために 何十人もの消防隊員を動員して、おまけにはしご車まで使った といったニュースをよく聞きます。 助け文句としては 「猫とはいえ、たった一つの命を持つわれわれ人間と同じ動物だ!!」 といった偽善としか思えない助け文句がしばしば使われることもあるのが現状です。 以前は自分も「やさしい人たちもいるんだなぁ~」とテレビを眺めていました。しかし時がたち、思考も変わってきました。 たかが野良猫1匹のためになぜここまで金と時間をかけなくてはならないのでしょうか? 我々が払っている血税で彼らは動いているのです。 また、よく猫の虐待動画などがアップロードされて、動物愛護団体がこれを痛烈に批判している!といったニュースも聞きます 命を粗末にする行為は許されない!とか言っていますが、 いや、たしかに無意味に虐待するのはよくないと思います。 しかしこれが猫ではなく食用のブタだったらどうでしょうか? 食用のブタも同じ理論でいけば「我々と同じたった一つの命をもった動物」ですよね? 自分の予想では猫のときほど批判は来ないと思うのです。 予想ではなく実際に批判は猫の時と比べると格段に少ないでしょう。 本当に「たった一つの命!」っていうのは便利な言葉ですよね。 つくづくそう思います。 なぜ日本ではここまで偽善者が多いのでしょうか? 胸がムカムカするほど自分はそう思いますが みなさんはどうお考えでしょうか

  • 偽善者

    仕事をしていれば、そりの合わない(敵対視してくる)人間はいますよね。 それならそれでビジネスとして、自分は自分で働けば良いと思っています。 自分が新人の頃としての話ですが・・ 中には気遣ってくれているフリをして話しかけてくれながら、ハメようとする人間がいませんか?? 勤務開始直後にAという印象の悪い人がいて、なるべく関わらないようにしようと思っている。    ↓ Bという人当たりの良い人間が、いろいろと話しかけてくれる。    ↓ そのBがいなければある程度自分のペースで働けるのに、気遣ってくれるお陰でないがしろにできない。    ↓ 毎回、Aという嫌なヤツの機嫌を取って働かなければならない。    ↓ 自分のペースで働けなくなる。    ↓ 苦痛になってきて、私は仕事を辞めてしまう。    ↓ AもBも、自分には被害が及ばない。 こういうメカニズムの職場を何度か経験したのですが、どう思いますか? 結局AとBが組んで、新人を潰しているような気がします。 ちなみに私以外にも、同様に辞める人間がやはりいます。 Bさえ余計に関与してこなければ自分らしく仕事をこなせるのに、それができなくなります。 これって、悪意のある偽善者だと思いませんか? 似たような経験のある方は、いますか?

  • 「天国と地獄 長い箸」の話しの様な教えについて

    私はこの教えを小さいときにアニメ(確か一休みさん?)から学びました。 天国も地獄も環境的にはほぼ同じ  ・1mとかの異常に長い箸がある  ・器に食べ物がある  ・人が多数いる 地獄では皆自分で食べようとして、箸が長すぎて食べられずに飢えてしまう。 天国ではお互いに食べさせあって、ご飯も食べられ和み幸せ。 という様な話です。 人間(というか生物)は元来、自己中に出来ていると思いますので、 ついつい自己中になりがちです。 この考え方・精神であった方が好ましいと気をつけているつもりです。 家でも会社でも街中でも、何か自分のこと優先、自己中な感じの考え方が一般的な気がします。 こういう考えを気をつけているつもりであるけどついつい忘れてしまうのと、はなからそんなつもりはないのとでは大きな違いがあると思います。 一般的にははなからそんなつもりのない人が多いのでしょうか? ちなみに、私はそのつもりだけどついつい気づけていないことがありますm(__)m 補足説明: (この話は自己犠牲で他者を幸せにするということではなく、Win-Winの関係を築いて双方共に幸せになるというところが良い教訓だと思っています。だから私も自分が幸せになるために他人に親切にしようと思っています。いわば偽善です。偽善でも地獄状態よりも天国状態の方が明らかに幸せだと思っています。 しかし、この善(又は偽善)のループは地獄状態を好む人の割合が多くなってしまうと成立しなくなってしまいます。)

  • 高校生♀。私は『偽善者』なのでしょうか?

    私は高校に入ってからボランティア活動を始めてもうすぐ3年になります。 児童施設の絵本の読み聞かせ、ボランティアや募金の呼びかけなどは学校単位でやって、 個人的には動物愛護施設に通って、保護された動物たちの世話をしたり、里親を探すビラを作ったり。 それらを張らせてもらう許可を頂くために、お店や地域の組合をまわり、時には頭も下げます。 正直、高圧的な態度をとられて萎縮することもありますが、無理なお願いをしているのはこちらなので、下手に出ることで犬猫の命が助かるなら安いものだと思って活動を続けています。 あとは電車では極力立っているとか、毛皮製品を買わない、食べ物を残さない、街中で有意義だなと思ったもの(犯罪被害者や何秒間患者の救済とか、賛同できる法案の申請など)に署名をするくらい。 もちろんすべて両親の了解済みの上での行動です。 最近、そういったことを知人に『偽善者』と言われました。 彼の意見は、「人間は肉も魚も食べるのに、ペットを救うなんて矛盾している。まして養ってもらっている学生の分際でコドモの相手をするなんていうのは、身分不相応。所詮ままごとだろう」というものです。 彼はバイトでお世話になっている年長者ですし、周りに何人もいたので、その場ではあからさまな反発はしませんでしたが、内心はショック半分、心外という思いが半分でした。 私も『偽善』ということについてはよく自問自答しています。彼の言うとおり私はすねかじりの身ですし、今すぐに一人や一匹の命を支えるなんてことは出来ません。法的に権力のある資格もありません。そう考えると、問題に関わること自体、無責任なのかなとも思います。 未だに何が正しいのかはわかりませんが、 1.意見を人に押し付けない、強要して『余計なお世話』状態にしない 2.迷惑をかけたら素直に謝る 3.勉強や恋愛など、自分のやるべきことを疎かにしない 4.中途半端にせず続けていく こういった『偽善』と『社会貢献』を分けるルール、もしくは線引きみたいなものを守ることで初めて、ボランティアをする人間側の資格が生まれるんじゃないか、と結論づけて来ました。 自分の信念だけで動いて、周りを気にせず強制することは、ある意味新興宗教と同じで怖い事ですし・・・ けどこの考えも甘いのかなと思うようになりました。 偽善って、私にとってはきついというか、言われたくない言葉ですけど、向き合わなければいけないと思います。 皆さんの意見を聞かせてください。まとまりのない長文ですみません。読んでくださった方、ありがとうございました。

  • 地獄って最低ランクからまた十段階に分けられるけど

    地獄って、日本の考えもキリストの考えも同じようなもので日本では一番最低ランクから10段階に分けられていて、自分の罪がどれだったかでどこに属するか振り分けられるといったことを聞きました。また、キリストの地獄も日本より多くないもののざっくり、火炙り、針山、獣に食われる…とか、バリエーションはないものの大体段階で別れてますが、天国って天国しかないですよね?天国にいったら転生ってされるんでしょうか?なぜ地獄がたくさんあるのにたいし、天国って天国一個しかないんでしょうか?

  • キリスト教の死生観について(できればクリスチャンの方よろしくお願いします。)

    キリストが再臨して千年王国が始まるという「終末論」がありますが、これは何のためにあるのでしょうか?この時、死人は生き返り、生きた者も皆最後の審判を受けると聞きます。 **************************** まず、キリスト教の死生観について確認してよろしいでしょうか?下記が私の理解となります↓ キリスト教では、キリストを信仰することによって神の国に迎えられ、永遠の命をもつ。これは生前でも信仰があれば永遠の命に迎え入れられるということ、死後もまた同じように信仰を持つ者が永遠の命を与えられ、神の国に迎え入れられる。 こんな風に理解しています(ここまでで間違った認識があればご指摘お願いします。) ****************************** こんな風に理解しているのですが、この時疑問を持ちました。 信仰を持つものは神の国に迎え入れられ、永遠の命を与えられる、つまり、ここではっきり判別されましたよね、地獄へ落ちるものと天国へいくもの、信仰を持った天国へ行くものは永遠の命を与えられます。 これで終わりでいいと思ったのですが 千年王国、終末論というのは何のためにあるのでしょうか。もうすでに天国において永遠の命を得たものと地獄へいくものが判別されたのに、わざわざ死人を復活させ、生きた者も皆、審判を受けると言う事の意味が、よくわからないんです。 ☆また、この時復活させられる「死人」というのは、天国においてすでに永遠の命を得た者も叩き起こされるということでしょうか? 永遠の命をすでに得たはずの者(死人)が<<復活させられる>>ってどういう状態ですか?「さらに強化された永遠の命??」でしょうか?? また死んで地獄へ行った者も、叩きおこされ、審判を受けるのでしょうか。 つまり、終末論というのは、選別、つまり審判をやり直す、ということですよね。 信仰を持つものは永遠の命をえる、持たないものそれを得ないって決まってたはずなのに?もう選別は終わってたはずなのに。 なんででしょうか?終末論の意味、教えてくだささい。 地獄へいったものにもチャンスを与えるために、審判をやりなおすのでしょうか?すでに天国へ行った者が、「あ、こいつ一端天国送ったはいいが、案外不信仰者だな。最後の審判により、地獄行きへ決定。」なんていうふうに、選別やり直し(最後の審判)で地獄へ送られる、ということもあるのでしょうか。 疑問が多いですが、よろしくお願いします。素人ですので、出来るだけ簡単なご説明をお願いします。

  • 人の死について

    人は死んだらどこにいくのでしょう? 人は人生を全うしたら天国にいけるのでしょうか? また、自分で命を絶ったら地獄に落ちるのでしょうか? いやwたた聞いてみたっかただけです!(^^)!

  • 神の善悪に対する基準について

    仮に神様という人物が存在するとして、天国と地獄という 風に分けていますが、神様の基準て人間と似てるんでしょうか? よく悪い事をした人は閻魔大王のいる地獄へ行く、人を殺した人は地獄へ行くといい、善い行動をしている人物、徳を積んだ人は天国へ行くとなぜか 耳にしたり教えたりしていますよね?(一部は違うと思いますが) それならば戦国時代等で大切な人を守るために戦って死んで行ったり 戦死したり、はたまた武将等では相手の首を切ってもってかえって きたという人物なんかはみな人殺しになるのでしょうか? それらの方はみな地獄行きでしょうか? 大切な人を守る為に戦わねばならない、それで戦ったら相手の命を 奪ってしまった、それは罪でしょうか? それが罪ならば神様はやはり人間と似ていますよね? 何が悪いか良いかなんていうことは国によっても違うし時代によっても 違いますよね、あらゆる歴史の上で間違っているという事が 正しいとされる時代もある。 何を持って悪い事とされるのかは人間がかってに決めたルールですよね?またその善悪の基準も時代によって変化していって曖昧です。 人間は他の命を奪って食事とし、それに感謝し頂き、生かされていますよね? 本当に悪い事をしたら地獄?良い事をしたら天国? これは結局人が人である為に教えている一種の考えの一つに過ぎないと思うのですが、どうでしょうか? まあ私は地獄であろうが天国であろうが、人も自分も笑顔で生きられる ように互いを想いあって生きて行けたら最高だなと思っているのですが・・ でも仮に上記のような基準があてはまるのなら、神様は人間の考えと近い部分があるという事ですよね?