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存在しない色について

harepandaの回答

  • harepanda
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回答No.14

皆様がご指摘の通り、「存在するが人間には見えない色」は多数存在します。また、「存在するが、人間には見えないどころか、放射能として作用する有害な色」も多数存在するでしょう。 哲学者にAさんの立場をとる人もいるのですが、私はBさんの意見に近いです。AさんとBさんは議論がかみ合っていないようですが、人間の感覚器である目でとらえられないものも、機械を用いて検知可能なのであれば、Aさんももう少し妥協して「見えない色も存在する」ということは受容すべきだと思います。また、「人間には全くこの世に存在しないものや知覚できないものを想像する事はできない」という言葉が正確なものであれば、私なら、「世の中に存在しないものについては、知覚することは出来ないが、想像することは可能だ。だから、思考実験というものが可能なのだし、古い宗教のように、明らかに誤った科学知識に基づいた思考体系をとっているものも存在するのだ」と反論します。例えば、神が存在することなど、どうやっても知覚は不可能であり、神の存在証明はまさに思考実験と想像力によって議論を深めてきたテーマです。中世ヨーロッパのキリスト教神学が、神の存在証明や普遍論争(普遍的なものというのは本当に存在するのか、それとも、たんなる名前にすぎないのか)をめぐる議論をしていたことを考えると、存在しないものに対する「想像力」まで否定するのは、間違っていると思います。新しいところでは、フロイトの「無意識」の概念など、想像力なしには作り出せないものです。 物理学的に言えば、色という概念は物質の波長性をとらえたものであり、粒子性をとらえたものではないような気がします(量子力学では、全てのものは、粒子であると同時に波長であると考えます)。粒子の中には、ほとんど人間に作用せず、色として認識されることも無ければ、放射能として作用することもなく、単に人間や地球を通り抜けていくタイプのものもあります。一番有名なのはニュートリノというもので、この粒子が波長性を示しても現実的には「存在しない色」と呼んで問題ないような気がします。 また、思考実験の世界で現実には検出されていない架空の粒子に、タキオンというものがあります。これは、相対性理論の「質量のある物体に移動エネルギーを加え、光速に到達させるには、無限大のエネルギーの投入が必要となる(よって、光速より速く移動することはできない)」という原理を逆手にとり、「では、実数ではなく虚数で表現される質量を持った物質があったらどうなるか。おそらく、常に光速以上で動き回っており、この粒子の運動を止めるには、無限大のエネルギーの投入が必要となるだろう」という議論です。これも、現実問題として、本当に存在するのであれば、「存在しない色」と言ってよいかと思います。 生物学的アプローチで考えてみると、また、面白い話が出てきます。生物の色には、本物の青色色素を持っているケースは少なく、青い生き物のほとんどは色素による本物の青ではなく、光の反射を利用して青く見せかけているだけなのです。なぜそのような傾向があるのか、理由はよく分かりませんが、青は太陽光の色である黄色の補色にあたり、青い生物は目立ちすぎて捕食生物に発見され易いという弱点があるからではないかと、私は思っています。この意味では、青には「知覚されるが、あまり存在しない色」という傾向があるのです。(空の色や、現に存在する青の生物を無視しているわけではありませんが) Bさんの意見が、参加者の同意を得られなかったのは、おそらく、Aさんの発言が正確には、存在しないものや知覚できないものは「認識」することが出来ないというものであったのか、「想像」という言葉が特定の哲学者の議論で使われる特殊な概念であるという文脈を参加者が理解していたのか、それとも「想像」ではなく「直観」と書き込んでいたのかが、原因ではないかと思います。哲学者にも色々なタイプがいるので状況を想像するのは難しいのですが、認識論をめぐる議論が空回りしていた様子がうかがえます。

bragalone
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 えーーっと、確かにAさんの意見をここで正確に引用してない自信があります(泣 当時の私の読解力で理解できた文脈や単語から、質問を再構成しているのでかなり不正確な質問なのは間違いありません。 >>妥協して「見えない色も存在する」 ことは紫外線や赤外線を例に人間には見えないが昆虫や他の生物には見える色がある、事は述べられていました。その上で「存在しない色」という話になったのです(と記憶してます) 正直申しまして皆さんのご意見があまりにも異なった角度からの考察なので、ありがたいのですが消化しきれていないのが実情です(泣。もう一度No1さんからの意見を全部読み直してみたいと思います。

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