• ベストアンサー

念仏と禅はくっつくのでしょうか?

ある本を読んでいたところ「念仏禅」という言葉を見つけました。 内容はあまり書いてなくて、ある時期、念仏と禅は同時に修行されていたということらしいのですが…。 念仏と禅というのは性格が正反対だと思っていたのですが、そんなことが本当にあったのかどうか、疑問と興味が湧きました。 この事についていろいろと知りたいと思いますので、詳細をご存知の方、情報をお持ちの方、どうぞよろしく教えて下さい。 (申し訳ありませんが、お礼はどうしても遅くなりますのでご了承ください。)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.2

念仏禅というのは実際に行じられています。ただ、言葉のうえから想像されるような単純なドッキングではありませんので、少々説明が必要です。 そもそも、念仏というのは「南無阿弥陀仏」と名号を口に唱えることだけではありません。本来は「観想念仏」、つまり「仏の姿を思い浮かべること」が狭義の念仏の意味です。「仏様の姿を念じる」わけですね。 平安時代の阿弥陀進行の盛んな頃、三昧講などと呼ばれる講組織が発達したのですが、メンバーが病になり重体になると阿弥陀堂などに移し、講員が見守るなかしきりに病人に仏の姿を念じさせ、さかんに周囲から「どうだ、(仏の姿が)見えるか」などと励ました、などという記録が各地に残っています。 一方で念仏を広く捉えると、身口意(しんくい)の三業(さんごう)念仏などといって、体で仏を礼拝し、口で名号を唱え、心にその姿を念じる、という全てが念仏だと位置付けられます。現在の念仏は法然、親鸞らの影響下にあって、特に口称(くしょう)念仏などと呼ぶのですが、名号を唱えることが全ての念仏行を包摂する、という立場から口業だけを専一に行うことになっているものです。 そもそもの「念仏」が「仏の姿を思い描く」ことだとすると、これは精神の統一が多分に必要ですから、いわば瞑想状態にもなって、かなり坐禅と親和性が高くなることは理解できるでしょう。黄檗宗で実際に行じられているご質問の念仏禅というのは、その意味で割と違和感なく融合していると言っていいでしょう。 ただもちろん、禅宗と位置付けられるなかでの行ですから、軸足は無論、禅のほうにあります。中国では中峰明本和尚が「禅は浄土の禅、浄土は禅の浄土」という表現をしたように、あくまでも禅を基盤にして、六字の名号の中にも禅があるとするものです。 念仏公案禅などとも言いますが、いわば名号を公案のごとく扱うことで悟道を得ようとする、と言えばいいでしょうか。 その際の浄土、阿弥陀仏の捉え方は「唯心の浄土、己身の弥陀」とよく説明されます。 前半部分は、唯心と呼ばれる個人の妄想なき仏心というのは、それぞれの肉体にあるものだけでなく宇宙に遍満しているので、極楽世界でもこの娑婆世界にもあるものだ、と考えるわけです。 また後半の方は、自性の阿弥陀仏を信じれば、三世に遍満する阿弥陀仏は自覚によって自身のなかに応化して出現し得る、ということを指します。 このような(やや抽象的な)阿弥陀信仰が禅を通じて体得されることを目指すのがその目標とするところですね。 黄檗宗(江戸時代)は、先行する臨済宗、曹洞宗とはかなり性格が異なります。それは導入した当時の中国(明)における禅の気風が反映されているためです。 念仏禅が生まれた歴史的な背景は詳述しませんが、いろいろな理由があると思います。 ごく荒っぽく言えば、およそ4世紀強ほどの間に念仏禅が中国で支配的になったのは、禅の庶民化のための必然的なプロセス(悪く言えば修行の脱落者救済的な意味合い)でもあったでしょうし、悟りを強調するあまりむしろ外道に近づいてしまいがちな禅の先鋭化に対するカウンタームーブメントであった、という評価もできるでしょう。

valhalla
質問者

お礼

ていねいなご回答をいただき、どうもありがとうございます。お礼が本当に遅くなってしまい、申し訳ありません。 やっぱり念仏と禅の完全な折衷ではなくて、禅宗の一環なのですね。。。仏教の歴史はやっぱり一筋縄ではいかないという印象をうけました。やっぱり所詮ひとの信仰も確固たるものでなくて移ろいゆくのだな、ということがよくわかりました。お世話になりました。

その他の回答 (1)

  • ranx
  • ベストアンサー率24% (357/1463)
回答No.1

隠元禅師の黄檗宗で行われるようです。 どう見ても「他力本願」ではなさそうですが。

参考URL:
http://www.fuchu.or.jp/~zenshoji/zenshu.htm
valhalla
質問者

お礼

その日のうちに早速回答していただき、どうもありがとうございました。お礼が遅くなって本当に失礼しました。 参考HP、ありがとうございました。黄檗宗というのはなかなかオリジナルな宗派なのですね。。。No2のお答えもあわせて読むと、本当に「他力本願」ではないというのがよくわかりました。

関連するQ&A

  • 禅とは?

    五木寛之さんの本で「禅」についてかかれていました。 中国から道灌(名前が違っていたらすみません)さんや、他の方が持ち帰った。 禅は、その国の文化に根付いて、その国特有の「禅」に変化して定着する。 ヨーロッパでも「ZEN」があり、それは無宗派で、「自分と向き合う」「自分を見つめる」ために用いられている。 と言う内容でした。 ここからが質問なのですが、「自分を見つめる」「心が和む」ことを目的として、禅を探すのは不謹慎なのでしょうか? 私は特定の宗教を持っていません。 禅をすることで、上記のようなことが得られるのか? 禅はどこでできるのか? 五木寛之さんは「生きる」ことをテーマに、色々な本を書かれているようです。 禅をきっかけに、「生きるヒント」も同時に得られれば、と欲張りなことを考えています。 禅をなさっている方、経験した方、色々な方からのご意見をいただければと思います。 よろしくお願いします。

  • 武道と禅 学ぶには?

    「禅と弓」という本を読んで、 武道を通して禅の修業をしようと思いました。 そこで疑問になったのは、そこら辺にある道場では精神鍛錬を伴った指導はしているのか?という疑問です。 小さい頃空手を習っていましたが、そういう指導を受けた記憶がありません。 また、精神鍛錬を伴う指導している場所が限られるなら、そこも知りたいです。 分かる方いれば教えてください。

  • 禅とは何か?禅の実践とはなにか?

    皆様方、タイトルどおり「禅とは何か?禅の実践とはなにか?」、お伺いしたいと思います。 こういう質問を掲げるということ自体、禅の実践ができていないことを示していますが、敢えて、お尋ねしたいのです。 澤木興道老師は、 1)禅をやっても何にもならない。 2)悟った人を見てごらん。たいてい迷っておる。 3)人間は何しに生まれてきたか。大体人生は無目的である。生まれてきて、うっかりしていたら人間だった。 4)(立派に思える人間も)今のところ辛抱して猫かぶっておるだけの話しで、ちょっと狂いが来たらどんな悪いことをするかもしれない。 5)やれやれこれで無事に一生しっぽを出さずに死ねる。 6)子供が啼いている時には、おおよしよしやらねばならぬのは当たり前のことである。これが方便というものである。 列挙しがたいほど、胸に響く言葉ばかりですが、4)のとおり日常生活のちょっとした狂いに、禅のことも仏教のこともあまり知らない人より、自身の心は動揺し、狂いそのものになります。なんとかせねばと思い、1)とは正反対の功利的坐禅をすることになります。 僧侶に対して、農民か労働者か知りませんが、こういったということです。「あんた方はええな。暇があって、みなからはえらいえらいとほめられて。わしらは生きるために死ぬほど働かにゃならん。」 無差別殺人という犯罪を犯してしまう若者たち、増加する狂気の通り魔、彼らに安定した職・食べ物があれば、あんなことにはならなかっただろう。いや、昔だってあったさ、という人々。そういうことが起きていることを知りながら、ほっとんどの人間は(私自身も)わが身をもてあまし、じっとしているだけ。 「あなた方が見ているものは本当に存在するのか?」と説く「唯識」。これだ。分かった、と思った時もあった自分。「いや、客観世界は実在する」と説く西嶋和夫老師。 この世、娑婆では、「自業自得」といって「自分のなしたことは、娑婆の規則にしたがって、自分が賞も罰も受けなければならない。しかし、死んだあとは娑婆の善人・悪人も阿弥陀様が極楽へ送ってくださる。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」という僧侶。澤木興道老師は「南無阿弥陀仏と言ったあとが大切だ。」と言われた。 ホームレスの人たちに、食事をふるまうキリスト教の教会。現金300円から暖かい食事をふるまう「さなぎ食堂」というNPO法人。仏教集団は? 経済が人間を規定するというような趣旨のマルクス思想。たしかにそう思えるときもある。カール・ポランニーという経済人類学者が、本来「土地・労働・貨幣」は商品にすべきでないと唱えています。現代人が苦しんでいるのは「商品化された土地・労働・貨幣」の世界を当然のものとして他の事を考えることが出来ないからではなかろうかと思うこともある。 地球が「開放系」でないことを初めて知った地球人。この「閉鎖系」の地球の中でウイルス・細菌のように、地球の隅々まで食い尽くしていく経済体のすすめるグローバル化という欺瞞的な用語をよしとして信じ込んでいる一般人。経済の世界でもエントロピー最大になれば、血液凝固DICのように死んでしまう地球人。 様々な真実らしきことばばかりが頭の中で響きます。禅とは何か?禅の実践とは何か?現代という特殊な時代において、何か、何か?とお尋ねしたいのですが。 特にお聞きしたい見地は、もちろん念仏、看話禅の方のご意見も歓迎ですが、特に私のよりどころとしている黙照禅の立場からのご意見をお伺いしたいと思います。

  • 禅の入門書など

    こんばんは。 昨年から今年にかけて、父の死、退職独立等様々なことが重なり、一時期精神的に追い込まれた時もあったのですが、父が私淑していた禅師の言葉に救われ一息つくことが出来るまでになりました。 以前から興味はあったのですが、そんなことも契機となり禅について勉強したいのですが、その禅師も故人となりどのように勉強したらよいか判りません。 いずれは参禅や考案についても学びたいと思うのですが、まずは基本として何を勉強すべきかわかりません。 造詣の深い方からのアドバイス等があればお願いします。

  • 禅と念仏

    禅と念仏、両者の関係でもよろしゅうございますし、それぞれ単独の立場でもかまいません。仏教修行経験者のお話し・経験をお聞かせ願えればと思います。教科書的なお話しは当方としても承知しておりますので、個人の経験の経緯などをお伺いできれば思います。疑団の意味も知らず、精神科へ行けとか心療内科へ行けとかいうご回答はご遠慮いたします。

  • カップルはなぜ正反対の性格がいい?

    カップルは正反対の性格のほうがうまくいくのですか? それはなぜですか? 交際経験が少ないせいか、あまりピンときません。 同じ性格のほうが気が合うんじゃないでしょうか? 例えば、こんなときに正反対だからうまくいった、などの体験談があれば教えてください。

  • 禅宗についての質問です

    少し前からお釈迦様のことが気になり、仏教に興味を持つようになり、本やインターネットで調べていた所、禅宗の姿勢は自力本願であり、毎日の生活こそ修行の場であり、その毎日を大切に生きる。死んでからのことではなく、生きている今のための教えのように私は感じ取り、非常に魅力を感じており、興味津々なのですが、この教えの要素というのは本を読んでいてもつかめるものではなく、実践していく生活の中で初めて味わえるものではないか?と、思っていまして、生活の中に禅の教えを取り入れたいと思っているのですが、どういう手順をおえばいいのか全然わからなくて困っています。 私の母親が真如苑という宗教に入っていて毎日お経を唱えたり、定期的にお寺に行ったりしているのですが、禅宗でも同じ様なことをするんでしょうか? だとしても、何処へ行きどういうことをすれば入会できるんでしょうか?そもそも「入会」って言うんでしょうか・・? 何も知らずに質問ばかりになってしまいましたが、何か足がかりになる応えを頂ければと思っています。 お願いします。 記し忘れました、 私の入りたい宗派は曹洞宗です。

  • 興味が拡散しやすい人間

    大学生です。 私の性格に関する質問です。 私の性格は、 1. 一つのことに興味がわくと、しばらくは中毒のようにそれにはまりこむ(それに関する本を大量に購入したり、それに関するWebサイトを大量に調べたり) 2. そういう時期が2~3年続く 3. 数年経って、それについてある程度理解できたら、そのことに興味を失ってしまう 4. 別のことに興味がわく(最初に戻る) というものです。 知の巨人・立花隆が『立花隆のすべて』という本で、 「僕は浮気性だから、大体わかったというところまでいくと、次は違うことがやりたくなる」 と書いておられましたが、これに近いものがあります。 こういう性格の方は他におられるでしょうか? また、こういう性格の問題として、「自分が何をしたいのか」が定まらない(あらゆることに興味がわくので、特定の「何」など存在しない)というのがあると思いますが、どうでしょうか?

  • お互いの性格について

    質問ですが、みなさんの今の恋人または好きな人は、自分と似た性格のひと ですか?それともまったく正反対もしくは反対の性格ですか? よく聞くのは「お互いに補える関係」がよいと・・・ わたしはどちらかと言うと優柔不断な性格で行動力もない方なので、 ぐいぐいとひっぱっていってくれる自分とは反対の性格の方がすきなのですが みなさんご意見下さい。

  • 彼氏と性格が正反対です。

    彼氏と性格が正反対です。 私20半ば・彼30前半 付き合って1年4ヶ月 2人でいる時には感じませんが、第三者といると性格の違いを痛感します。 彼 ・社交的 ・みんなで集まって飲むのが好き ・ノリがいい ・友達多い ・大学院卒 私 ・内向的 ・大勢の飲み会が苦手 ・ノリが悪い ・友達少ない ・高校卒 と丸っきり正反対です。 食の好み・ゲームや本が好き・料理をするのが好きという趣味は同じで、 一緒にいる時はとても落ち着けます。 彼は仲間内の飲み会に連れて行ってくれたり、 友人にも会わせようとしてくれます。 けれど私は上記のようにマイナス要素たっぷりの人間なので、 私といてもつまらないんじゃないか・場が盛り下がるんじゃないか… と不安になります。 「好きだよ」 と言ってくれますが、私といて我慢していないのか気になる部分もあります。 一緒に飲み会に行っても、私は場を盛り上げられないからです… 私が「人見知りを直したい」と言うと、 「いっぱい人のいる場に出るしかないね。でも直さなくてもいいんじゃない?」 と言ってくれるのですが… 彼のことは大好きですが、ここまで性格が違うとうまくいかないのかと不安になります。 同じように恋人又は配偶者さんと性格が正反対だという方。 実際どうですか? うまくいってますか? お話を聞かせてください。 よろしくお願いいたします。