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《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

les-minの回答

  • les-min
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回答No.5

こんばんは。  議論するつもりはないので・・・  思うところだけ列挙するだけですみません。 (1)について  梵我一如と仏教(とくに密教の即身成仏論)は、よくのその類似を指摘される事柄だと思いますが、構図は似ていても、明確に異なる点があります。梵我一如が梵と我がという「異なったものが融合する」という印象が強い構図であるのに対し、仏教の場合は「もとから一つであったことに気付く」というような「内的な到達」という印象が強いことでしょうか。仏教がヒンズーの影響を受けたことは確かだと思いますが、その影響を過大に観るべきでないと思っています。  この外的・内的の違いはバラモン教と仏教の違いを考える上でも役に立つと思います。 (2)について  個人的には、経典等で説かれる「如実知自心」というのが、いちばん合うと思います。  仏教が説くのが非我であれ無我であれ、仏教の言いたいことというのは、自分の「心」を観、心を通じて真理を見出せ、ということかと思います。  挙げられている文言は、とくに間違いとは思いませんが、少々「生々しい」というか、「自己」という言葉の強さから、表現として他者に真意が伝わるものだろうか?という印象を受けました。 (3)について  最終的には、仏教は外的な力を必要としていないと考えて良いかと思います。仏教は無神教であり、超越的な人格や力を想定していません。  「如来加持力」といった一見、明らかに外的な力を想定しているのではないかという文言も、そのまま外的な力が「ある」ということを指さないと思います。  仏教は「心」を扱う教えと言っても良いぐらいだと思います。仏教での「心」は「人それぞれの個々の心」と、個々という垣根(彼我の別を越えた)「真理」とを意図的にオーバーラップさせながら説かれていると感じており、心を観ることによる「内的到達」という傾向は強いと思っています。  それらどう表現するかの問題もあるので、なんとも言えませんが、個人的には、仏教には「宇宙との合一」や「宇宙生命」を持ち出しての言説には違和感を感じています。  あくまで個人的な見解ですが。では。          

noname#80116
質問者

お礼

No.4のBABAaさんのご回答をいただいてから わたしの中で そのブッディスムが 新しい方向へ回転し始めました。その中味を つづいてさらに 示してくださいました。と受け取った次第です。ありがとうございます。 別の質問のほうでのご回答に接して 自然法爾ということばを想起したところなのですが 方向として そのように解してよろしいでしょうか。つまり そう受け取ります。《行者のはからいにあらず・・・》――いえ つまり 《行者》という規定じたいも 《自然法爾》から逸脱するかも知れませんね。 分離から合一へ 未実現から実現へ 心の内と外との区別から融合へではなく しかも それらのような認識から そもそも 始めるのでもないのだと。 この際 おおげさに言っておきましょう。優曇華が咲いたようですね。三千年に一度だとか そんなものではなく 毎年咲くようになるかも分かりません。ですよね。 ひとつ思ったことは このように おっしゃるように 静かにあゆむという行きかたの場合 おそらく それでも 言葉を用いて説明せよという要請は やはり 強くなるでしょう。あるいはつまり日本人どうしが 今のように日本語で話していれば通じるかも知れないけれど ほかの言葉の人たちから見れば やはり説明せい! できなきゃ自己満足に過ぎん!というようになるやも知れません。・・・ ありがとうございました。 (さらにふと思ったのですが こうして 静かなる船出による彼岸への旅も その《無神教》なるこころの奥にも 密かに かみを見ているのかも知れないと)。(いや かえって余計であったかも知れません)。(いづれにしましても たいへん楽しくなってまいりました。とおい昔に仏教を捨てた者なのに)。 

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