bonbonnierのプロフィール

@bonbonnier bonbonnier
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  • 登録日2007/09/14
  • 仏教の「空」の思想を簡単に端的に教えてください

    いまひとつ理解できません。 バカな俺にでもわかるように例をもって説明していただければありがたいです。

  • 大乗の思想の最古の文言は?

    中村 元訳「維摩経」 深く道を求める心は、すなわちぼさつの浄土である。ぼさつが仏と成ったときに、徳を具えている衆生がやって来てその国に生まれるであろう。 1 この文言の意味を正しくは理解できませんが、ここにはどうやら大乗仏教の発想がはっきり表れている気がします。この感覚は的外れですか。 2大乗の教えに直結する最古の文言を探すとします。どんな経典に初登場していますか。維摩経でなく般若経内を探す方がよさそうですが、般若経といっても山ほどあるのではないですか。大乗の思想が端的に表れた最古の文言は何という経典にありそうですか。 よろしくお願いします。

  • ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?

    中村 元訳「ブッダのことば」 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」 さて、質問です。 「決して再び母胎に宿ることがない」も「もはや再び世に生まれるという事がない」も字句通りに読んで、これが解脱の効果の一つなのだと思います。釈迦の時代には、こうした考えをもてることも公言できることも並大抵の事でなかったのかも知れません。 一方、今日では修行者であろうとなかろうと、欲望に関する貪りを除いてあろうとなかろうと、煩悩の汚れが消滅していようといまいと、大半の人がこんなことは口外しないほど当たり前になっているのだと想像します。極楽、地獄、餓鬼、畜生、何処に再生するとも期待も恐怖も抱いてない人が多いでしょう。少なくとも私はそうです。死後観だけに限定すると私のそれもブッタのそれも同じに見えてしまいます。が、そんな筈はあるまいとも思い直します。死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか。学者や僧侶でなくてもよいのですがブッダの思想に通じている方の説教をお訊きしておきたいです。 よろしくお願いします。

  • ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?

    中村 元訳「ブッダのことば」 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」 さて、質問です。 「決して再び母胎に宿ることがない」も「もはや再び世に生まれるという事がない」も字句通りに読んで、これが解脱の効果の一つなのだと思います。釈迦の時代には、こうした考えをもてることも公言できることも並大抵の事でなかったのかも知れません。 一方、今日では修行者であろうとなかろうと、欲望に関する貪りを除いてあろうとなかろうと、煩悩の汚れが消滅していようといまいと、大半の人がこんなことは口外しないほど当たり前になっているのだと想像します。極楽、地獄、餓鬼、畜生、何処に再生するとも期待も恐怖も抱いてない人が多いでしょう。少なくとも私はそうです。死後観だけに限定すると私のそれもブッタのそれも同じに見えてしまいます。が、そんな筈はあるまいとも思い直します。死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか。学者や僧侶でなくてもよいのですがブッダの思想に通じている方の説教をお訊きしておきたいです。 よろしくお願いします。

  • ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?

    中村 元訳「ブッダのことば」 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」 さて、質問です。 「決して再び母胎に宿ることがない」も「もはや再び世に生まれるという事がない」も字句通りに読んで、これが解脱の効果の一つなのだと思います。釈迦の時代には、こうした考えをもてることも公言できることも並大抵の事でなかったのかも知れません。 一方、今日では修行者であろうとなかろうと、欲望に関する貪りを除いてあろうとなかろうと、煩悩の汚れが消滅していようといまいと、大半の人がこんなことは口外しないほど当たり前になっているのだと想像します。極楽、地獄、餓鬼、畜生、何処に再生するとも期待も恐怖も抱いてない人が多いでしょう。少なくとも私はそうです。死後観だけに限定すると私のそれもブッタのそれも同じに見えてしまいます。が、そんな筈はあるまいとも思い直します。死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか。学者や僧侶でなくてもよいのですがブッダの思想に通じている方の説教をお訊きしておきたいです。 よろしくお願いします。