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田沼意次と松平定信
田沼意次と松平定信の政治についてお伺いいたします。 田沼は商業を活用し、松平は農業中心の政治で、前者は汚職、わいろの政治家、後者は清廉潔白な政治家だったそうですが、今日の研究では逆転した見方が考えられていますよね。つまり、田沼は時代を先取りした優れた政治家で、松平は何もわかっていなかったのではないかと。 ここのところを、どうか詳しく教えた頂きたいのです。なぜこのような考え方が出てきたのでしょうか。寛政の改革に触れていただけると尚結構です。歴史はどちらかというと疎い方なのでなるべく易しくお願いします(すいません)。確かな根拠に基づくものであればどんなことでも構いません。どうかよろしくお願いいたします。何卒本当によろしくお願いいたします。
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もう、はるかに昔のことですが、私が高校生の頃、日本史の授業で、……田沼意次という幕府の要人が、時代の主役となりながらも、何故か、他の江戸三大改革の立役者とは、異なり「わいろ政治の権化」として扱われていたような印象が……正直に白状すると、授業内容などは、まったく記憶に残っていないのですが、……あります。 最近、私にとって、「気になる日本史の人物」になっていたのですが、「今更、田沼意次なんて」という気持ちも働き、そのままにしておいたのですが、たまたま、「江戸の銭勘定」(山本博文著)という本のページ欄をめくっていて、「田沼意次の全蓄財を没収した松平定信」というのが目に止まりました。 誤字脱字もあるかも知れませんが、その全文を下記に紹介します。 記 松平定信に金権政治と嫌われた田沼意次 紀州藩主徳川吉宗が八代将軍になったとき、田沼意次の父意行は吉宗に召し連れられて直参の旗本になった。意次は十六歳で吉宗の嫡男家重の小姓に召し出され、家重が九代将軍に就くと出世階段を駆け上がり、宝暦十年(一七六〇)には一万石の大名になった。 家重は子の家治に「意次は全人(欠点のない人)で、目をかけてお使いなされ」と遺言したので、十代将軍になった家治は、明和六年(一七六九)に、意次を老中格と抜擢した。意次も家治の期待に応えていった。 要職にある意次は「金銀は命に替えがたい宝で、それを贈って奉公の役目を欲しいと願う者なら、お上に忠な志を持つ者である」としたので、人々は競って賄賂を持ち込んだ。 意次への賄賂で道が開けた人も多く、彦根藩主の井伊直幸も意次に賄賂を贈ったことで大老になった。幕閣入りを切望した白河藩主松平定信が、早朝に田沼邸を訪れたという話もある。 安永元年(一七七二)、意次は五万七千石に加増され、所領の遠江国相良に築城を許された。だが、意次の栄華は将軍家治の死とともに崩壊した。松平定信が暗躍して意次を引きずり下ろしたのだ。十五歳で十一代将軍になった家斉の側近に働きかけて、再度権力の座に就こうとしたが失敗した。 松平定信が老中首座に就くと、金権政治の権化とされた意次は標的となって二万石が没収され、さらに「在職中の不正が上様のお耳に達した」と三万七千石も取り上げられ、相良城が破棄されて蟄居になった。 田沼家は全禄高を没収されたが、定信は田沼家の嫡孫意明に一万石を給し、家系の存続を許すと、意次は天明八年(一七八八)に死去した。 定信の田沼家への処罰は続き、川浚えの名目で五万両(九十億円)の納入を命じ、さらに一万両の追加納入を命じた。定信は意次がどれだけ貯えていたかを探っていたようで、意次の蓄財のすべてを召し上げたのである。 以上 ご意見をお聞かせください。一つでも構いません。「ご意見をお聞かせください。」という趣旨ですので、BAは選ばないで、締め切ります。それでもよろしければ、お願いいたします。 1 松平定信には、意次に対して、嫉妬とか、怨みのようなものがあったのでしょうか??? 「8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる」のだから、そんな卑しい感情を抱く必要もないと思うのですが??? 「嫉妬、怨み」以外の何かが??? 2 上記の文章からは、田沼父子って、現代社会の官僚や創業オーナーと比較しても、まったくそん色ない「優秀過ぎるほどに優秀な父子」だと感じたのですが、この印象は、的外れでしょうか??? 3 「わいろ政治」ということは別にして、江戸三大改革の成果と比較したときに、田沼意次の政治をどのように評価しますか???
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ありがとうございます!こんなに長く説明していただいて感激です!! なるほど、田沼は改革派で現実主義者、定信は保守派で理想主義者。田沼は、海外に目を向けたビジョンが大きい政治家で、頑張っていたのに汚職政治家なんてレッテルを貼られて可哀相ですね。もっと研究が進んで正しい田沼意次像が知れわたるといいです。 わかりやすい説明でとても助かりました。歴史も深く学べば面白いものですね。NHKの時代劇、確か今は北条時宗でしたっけ?見てみようかな。少しでも歴史の視野が広がればと願って。 詳しい説明、本当にありがとうございました。m(_ _)m