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わたしは信仰に席をあたえるために

maaaaの回答

  • maaaa
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回答No.1

19世紀初頭、フランスではナポレオンが世界を制覇した時代 ドイツでは哲学や音楽では世界を制覇しました その時、カント、フィヒテ、ヘーゲル、と人類思想史上 流星のように輝いたのがドイツの観念哲学でした カントは純粋理性批判で人間の認識について徹底的に究明しました その後、実践理性批判で道徳について体系を明らかにしました この世界は至高善という絶対基準を背景に道徳律を説いたわけですが これは自然科学とは別領域に成立するものでした 至高善とはカントは神を想定していました しかも、カントの母親はキリスト教信者だったこともあり キリスト教の神を、カントは、指していたことはほぼ、間違い ありません かくして、信仰に席を与えるためには、自然科学の世界を 土台にしていないのであるから、その別次元で考えなければ ならない、それ以前、信仰の世界と自然科学の世界が分けられて いなかった状況にあったが、 カントの世界でははっきりと分かれた事情において 知識を廃棄しなければならない、とは 堂々と皮肉さえこめて断言したのでしょう 尚 キリスト教の神、イエスキリスト、とカントの神が同一 と、私は、言っているわけではありません あくまでも、カントは、すくなくても、そう考えた ということでしょうか

noname#33521
質問者

補足

質問の内容は「自然科学の対象で無い世界の可能性を否定する人たちのその根拠」をお伺いしたいということです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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