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【日本は農耕民族だから?無宗教だから?欧米と違う。】

よく日本人は農耕民族だから欧米の民族とは違うという話を聞きます。 むしろ、日本は多神教だから一神教を崇拝している民族とは違うと言うべきではないでしょうか? “日本は無宗教である”と何となく考えている人々が多いかもしれない。 日本はご存知の通り、日本は古代ギリシャ・ローマ同様に八百万の神がいる多神教の国です。 “日本は無宗教である”というよりも、“日本は一神教ではない”という言葉の方が適切だと思います。 多神教は何もしなくても勝手に雑草が生えてくるような、自然環境に恵まれた風土に発生します。 自然に対する畏敬の念が、それを生み出す。 そのような環境は中国の南方の長江流域、韓国にも存在するが、現在、中国は共産主義という一神教、韓国はキリスト教に蹂躙されてしまっています。 中南米も同様にキリスト教に蹂躙されました。 ところが、日本は一神教に蹂躙されたことのない世界でも稀有な存在であり、日本列島が世界において独自の文化圏を構成しているといって良い。 一神教は、砂漠の民が生み出した宗教だが、厳しい自然環境を反映して、現世とは超越した絶対的な神の存在を創造しそれに祈りをささげた。 素朴な自然崇拝を起源とする多神教とは根本的に違います。 大東亜戦争の敗戦により、米国的な思想が流入し、多神教的な文化や伝統芸能などが、古臭いもの、前時代的な遅れたもの、として大きく衰退しましたが、今も尚、日本人の心の中には、八百万の神は存在します。 具体的に言えば、初詣やお宮参り、受験対策で天神様、など枚挙に暇がない。 その祈りは、特定の神を対象にしたものではなく、滝や山が御神体になったり、天竺(インド)、震旦(中国)から伝わった仏教と日本の土着の神が融合した神々であったりする(学問の神様、商売の神様、恋愛の神様・・・)。 また、神社仏閣を問わず、家内安全、商売繁盛などのご利益を祈る行為自体が多神教的です。 クリスマスも気にせず盛り上がれる点も同じでしょう。 みなさんが思う「日本と欧米の違い」はどこですか?

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回答No.10

単に宗教だけでなく3点が混ざりあって欧米(また他の東洋諸国)と異なっていたのだと思います。 質問者さんの記述されている通り、仏教と神道が歴史の中で混ざって行く中で日本に宗教観が出来上がっていったことに間違いは無いと思います。 それに加えて2つ目の要素が、儒学・朱子学の考え方です。 それと日本の歴史の中における天皇制の3つを持って日本独自の考えを作り出し、欧米との違いになったものと考えています。 この3要素こそが日本が日本であることの本質ではないでしょうか。 まず儒学・朱子学から触れますが、質問者さんも他の方も記載されている通り、この道徳的教えからだけでは限界があります。 君子たれと言われたところで、人間には奢り昂ぶりが常に存在し、それだけでは破綻してしまいます。 この儒学は武家は当然として、江戸期においては町民、農民に至るまで世界的に類を見ない教育大国であった日本では浸透して行くこととなりました。 次に一神教を語る前に宗教全般に関してですが、(初期の頃はどうであれ)長い歴史を持つ宗教において、人間は神を畏怖しまた信じることによって、自らの限界を(能力ではなく神のように万能ではないと言う意味での)悟り奢り昂ぶりを抑える結果を持ちます。 ここで特に一神教においては、畏怖し信じるべき絶対の存在であるがため、宗教が国の道徳心や法に影響を与え人心の基盤ともなり、他の宗教に関しては限りなく排除し自分達の宗教を広めることが神の意志に基づくとまで考えられています。 対して日本の神道は大変特殊で、草木はもちろんのこと死んだ人も八百万の神に加わります。 このため神は畏怖すべきものであっても身近な存在でもあり、他の宗教における神と言う考え方とは概念的にも異なるものだと言えるのではないでしょうか。 最後に天皇制であり、これも世界で類を見ないものになります。 古来においては大君御自ら御統治あそばされましたが、その後数百年以上に渡って君臨すれども統治せずとなっています。 これは他国の王室においては、一時的なものは別として王が自ら国を統治する形を取っています。 世界的に見ると幕府の将軍が、他の国における国王のような封建社会における長と捉えるべきではないでしょうか。 この状況が長いこと続くうちに、権力とは異なる権威としての至高の存在となって行き、一神教の神とは異なるものの、天意に背くとの言葉をしめすように、形而上学的な存在へと昇華していったのだと思います。 これらにより、一神教の神以外には寛容であり、また政権の長ではあっても権威的に越えることが出来ない存在がいることを持って人心の中においても自らの限界を悟り知り、これと儒学・朱子学が相まって高い道徳心を持つ民族になったのではないでしょうか。 明治から敗戦までの現人神と言うものは、和魂洋芸の元で、欧米列強に植民地化されないがために、欧米のの科学技術を取り入れるのと同様に、欧米の社会科学的概念をも取り入れ、そこにおいて本来は一神教の神とは異なるものの、制度上大君を持って一神教の神と同様であると定義しただけであると考えております。 敗戦までの日本の要素を否定するあまり、民族における精神的骨子がなくなっている状態であり、限りなく不安定な状況です。 このため今の日本は欧米と比べても世界的のどの国と比べても特殊な国だと考えております。

MUD-Water
質問者

お礼

徳川幕府は自らを正当化するために輸入した朱子学によって、尊皇攘夷から開国に移る明治維新を起され滅んだのは悲劇ですね。 司馬遼太郎や山本七平が指摘するように、朱子学の色が濃ければ明治維新は起こっていなかったと思います。 そして、朱子学を生み出しだ南宋が滅んだように、朱子学と言うものは空理空論の理想主義であり、現実に当てはめるのは、マルクス主義を現実に当てはめるように危険です。 今の日本には民族における精神的骨子がなくなっていると感じます。 詳しい説明をありがとうございます。

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  • 9werty
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回答No.1

中・韓 の国は儒教でしょう? 儒というよりかは祖先崇拝とでもいうのか? だから、自分たちは偉い人の子孫だと主張し 先祖が悪いと子孫はすべて悪いという思想が 現在も続いているのでは? 欧米は? よく分かりません! 神様がいて 聖人が何人もいて、いろいろ分派しているけれど すがる先はGODのみという所でしょうか? 日本においては神道?もしくはそのベースたる性格において 一神教の定義が不可能だったのではないでしょうか? 普及するには、信じるに足ることが前提で、 神道仏教を論破できなかったのでは? 逆に、神道が広まるということも無いのでは? 先行で広まっている宗教も、否定する必要は無いから。

MUD-Water
質問者

お礼

韓国は儒教(小中華思想)もそうですが、統一教会などのキリスト教会系の新興宗教に蹂躙されているのが現状のようですね。 中国は共産党の一党支配の共産主義国家です。 なかなか興味深い意見をありがとうございました。

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