• 締切済み

自我、いつから”自分”が”自分”だということに気づいたのか??

こんばんは、10代の女です。 タイトルどおりの質問なのですが、この世では、この世界ができてから、またこれからも数えられないほどの命が誕生し、また誰一人同じ者として再び生まれることはありません(まあ現実的に考えるとそうなります・・・よね?)また他の人の視点で世界を見ることは出来ません。 今この文字を意識的に打っている”自分”というものが私にもいるのですが・・・一体いつから自分が”自分”になったんでしょうか? 生まれる前から自分というものが居たのか・・・もしくは私の母と父の遺伝子のたまたまの組み合わせで条件が合ったため、私になったのか・・・ いつの頃から私だけの記憶が出来ていて・・・他の人と違うんだということに気づき。 たった17年ちょっとしか生きていないのに、”自分は自分”という意識が強すぎるのがわるいのか、いつかこの世から自分の自我が崩壊し居なくなってしまうことや、他人や自分の自我が気になって仕方ないです。 これは哲学の分野・・・なんでしょうかね・・・ 別に真実の答えを探してるわけではありません。 もし分かりやすく(あくまでも簡単にw)おはなしに付き合ってくれる方がいればご回答お待ちしてまーす・・・

noname#34248
noname#34248

みんなの回答

  • esagakari
  • ベストアンサー率44% (22/50)
回答No.2

自分は自分という意識は悪くないと思いますよ、ただそのことをあまり意識しない他人もいる。というだけです。 正直生まれる前と死んだ後のことはわかりません、というかいろんな考え方がありますからそのどれか一つの考え方を肯定したり否定したりするのはちょっと…と思います。 自分のケースで話しますが自分もkorkorrinさんのように自分の自我を気にする時期がありました、その時はよくわかりませんでしたが今では気にしなくなりました。意識や気持ち(心)や本能がどう出来てるか、全部は脳内の錯覚なのか、それとも身体を超えるような自分の意識(霊のようなもの?)があるのかわかりません。が、自分にとって自分の自我は自分自身で「見て」「聞いて」「感じて」「考えて」きたものが積み重なってできています。孤独に聞こえますが実際はその自分が見てきた風景の中や感じてきた経験のなかに友人や家族やあかの他人、ペットなどの動物すら間違い無く居て、それは自分の自我や意識だけでは絶対に出来ない経験や新しい考えを常に与えてくれました。 自我が崩壊したら自分は消えるのか、あるいは死んだら自我も消えるのか判りませんが、だからこそ自分は毎日出会った人達や起きる出来事を大事にしながら生活してます。それしか出来ませんし。 長い文でしたねw 失礼しました。

  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2314/7952)
回答No.1

面白い考えです。大いに考え悩み、勉強して下さい。答えはありません。 ただ、あなたの考え方は、人に伝えるにはまだ説明不足です。理解しようとする私でも文章に「?」があります。他人にも興味のない人にも理解できるよう説明できる能力を身につけてください。 私の考えは、個という思考は、言語と共に成長すると認識しています。他人に自分を伝えられる時、はじめて他者との比較がうまれて、自分を意識するのではないでしょうかね。

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    価値観というものをしっかりと認識すると自我が崩壊しませんか? 例えば、人助けの使命に燃えていても、「人助け」に価値を見出したのは「私」であり、それを周囲に評価され嬉しくても、それもまた「周囲に評価されること」に「私」が価値を見出してるだけですよね。 つまるところ、人を馬鹿にすることに価値を見出すのと本質は何ら変わらないと思います。そうすると、あらゆる事象が「絶対的」に無価値でそこに価値を付与しているのは自身だとわかり、自分の信念や矜持等の価値を感じていたもの全てが崩れます。社会の成り立ち方すら、いわば地球規模の宗教と言えるかと思います。 人の価値観っていうのは思っている以上に極めて儚いものではないでしょうか?自覚していなければ儚いことにすら気がつかないとは思いますが。 この考えの矛盾点、現実で生きる上でこの視点を見失っている、こんな話があります、私も崩壊しました等なんでも良いのでご意見いただけませんでしょうか。

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