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涅槃(=無)が最高なのか?

vrtemjinの回答

  • vrtemjin
  • ベストアンサー率39% (28/71)
回答No.2

一応仏教系の学校に通い、宗教について学んだものです。その内容を自分なりに解釈したところ、涅槃に関する釈尊の教えとは以下のようなものだそうです。 欲望も快楽も悪いものではありません。ただ、それらに執着して振り回されると苦しい、というただそれだけのことです。苦痛も快楽も、一見自分の内から生じているように見えても実際は外界(色界)からもたらされた実態のない幻にすぎません。涅槃とは苦痛も快楽も欲望も何もかもをただあるがままに感じ、受け入れることのできる状態であり、そうなってしまえば、苦しみも執着もない状態になる、ということだそうです。 苦しみを避けたいとい思いも、快楽を得たいという思いもそれ自身は単なる生理現象であり、それらを善悪のカテゴリーで分けることは単に言葉の上でのことでしか意味はない。 むしろ涅槃を最高であると思い込もうとする行為自体が執着であり、涅槃をよいものと感じられない自分を素直に肯定することこそ大切であり、そしてそれが真の涅槃に通じるのだそうです。 ようするに快楽を追い求めたいと感じているのなら、そう感じている自分をそのまま受け入れることが涅槃に通じるのです。 快楽が執着を生むから快楽は悪であるという考え自体が執着です。 そもそも釈尊が涅槃に到達できたのは、悟りを開きたい、衆生を救済したい、という強い欲望と執着があったからこそであり、また、悟りを開いた釈尊はかつて無い宗教的快楽に包まれたそうです。 長くなりましたが、最後に一つ。日本の昔のお坊さんの言葉です。 「苦しいときはただ苦しめばいい。楽しいときはただ楽しめばいい。そうすりゃ気楽に生きていける。悟りだの涅槃だの知ったことか」

spitzer3
質問者

補足

>涅槃とは苦痛も快楽も欲望も何もかもをただあるがままに感じ、受け入れることのできる状態であり、そうなってしまえば、苦しみも執着もない状態になる、ということだそうです。  確かに宇宙が人間にとっていいようにはできていませんからね。しかし、そう思っても嫌なんですよ。  宇宙が消滅せず、永遠に動き続ける場合はこれでもかまわないんですけど、なんか宇宙が消滅または、永遠に静止状態になるとこの考え方がきかなくなってしまったんです。

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