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デカルト

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回答No.1

デカルトは冬のある日、炉端で考えたんですね。 この世の中に、確実なものなんてあるんだろうか。 世の中の長老たちが言っていることが正しいなんていうけど、それだって確実じゃない。確実なものってのは、もっと明せき・判明なもので、だれにとっても明らかに確実じゃないといけない。 確実なもの、確実なものと考えていって、 「ああ、でも、ここで、この確実について考えている自分っていうのは、絶対確実だ。だれがなんといったって、私が考えているのは、事実だもの」 ということに思い当たり、 「Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム(我、考える ゆえに 我が 存在する)」と言ったんですね。(スペル間違っているかな?) ところで、有名な「我思うゆえに我あり」って、ちょっと訳が間違っていると思いますね。英語では “I think so I am” ドイツ語では “Ich denke also bin Ich” です。 でも、このデカルトの考え方は、「考える自己」と「考えられる自己」を分けることになってしまい、それからのヨーロッパの思想史に身体二元論というやっかいな問題を残したのでした。 おそまつ。

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