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第一次大戦時の日本とヨーロッパ諸国の陸軍師団数

第一次大戦当初、ヨーロッパ諸国に比べて陸軍師団数がかなり少なかったのではないでしょうか。またそうだとしたらなぜなんでしょうか。師団というよりも、兵員数といったほうがいいかもしれません。それが第2次大戦時には、日本は100を超える師団を作れたのはなぜなんでしょうか?

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  • KITAIKKI
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回答No.5

まず日本陸軍の師団数の変遷からお答えします。 明治以後近代的な陸軍が誕生してから最初の近代戦といえる日清戦争当時は7個師団を維持していました。その後日露戦争開戦当時から終戦当時まで師団数は11個から21個に膨れ上がりました。 第1次大戦当時は英国と同盟を結んでいた日本は、戦場がヨーロッパということもあって、若干の海軍が地中海へ派遣されたくらいで、陸軍はかえって17個師団に縮小されています。 あなたの最初の疑問である、ヨーロッパ諸国に比べて日本陸軍の師団数が少なかったという理由がこれに当てはまると思います。 つまり日本はこの戦争を対岸の火事程度にしか見ていなく、逆にヨーロッパへの輸出で国力を蓄えたというおまけまでついていました。 次に第2次世界大戦ですが、日本陸軍の師団数は日中戦争から第2次世界大戦開始当時までに51個師団を編成しています。 結果的に終戦時には日本の陸軍師団数は近衛師団から数えて第355師団まで編成されていました。 といっても実際に350個以上の師団があったわけではないんです。 実際には師団の実数は172個だったはずです。 実はこれにはちょっとしたからくりがあるんです。 日本陸軍の師団はその番号でその編成目的や装備、兵力などが分かるようになっていました。 つまり1から99までの番号を持つ師団は、主に正規の戦闘集団であり、これを常設師団といいます。 100から199までの番号の師団はその常設師団が独自に編成した特設師団といいました。 これはあまり知られていないことなんですが、例えば第1師団が編成した特設師団が第101師団、第5師団が編成した特設師団が105師団というふうに番号を振り分けていたのです。 言い方を変えると、当時の戦略上の最小単位である師団というのはある程度の自己判断的裁量を持っていたということですね。 そこで、またまたちょっとしたからくりがあるんですが、じつはこれら100番台200番台300番台の師団が全部揃っていたかというと、そうじゃないんですね。 100から199までの師団は実質59個で、41個の欠番がありました。 200から299までは実に84個の欠番があり、実質は16個、300から355までは実質11個師団しかありませんでした。 つまり、単に数字合わせというか、員数を合わせていただけなんですね。 100番台の師団が常設師団が特設した師団ということは書きましたが、ちなみに200番台の師団は本土決戦用師団と位置づけられた機動師団で、野砲や山砲、速射砲などの充実が図られましたが、それも全てにというわけではなくかなりのむらがあったようです。 これが300番台の師団になると、沿岸配備師団と名づけられた水際作戦用師団で、兵士一人一人に与える銃もない状態でした。では何のための師団かといえば、装備の充実した師団が応援に来るまで体を張ってでも上陸してくる敵を食い止めろという、もう聞いただけでも泣きたくなるような使われ方をされるところでした。 ちょっと余談が長くなりました。 日本の師団編成上、兵士の数は平時で12000人、戦時で25000人というのが標準でしたので、単純に172×25000とすると、430万の兵を動員したことになり、ご質問のヨーロッパが桁違いに動員をしたというのは当てはまらないことになります。 もっとも戦時編成師団は連隊数を一個減らしたりした、中身をあんこ抜きしているような師団が多く見られ、実数的にこれが絶対に正確だとは言えないところもあります。 ちなみに、その戦時の動員ですが、当時はどの国も徴兵制度があったので、いったん訓練を終えて除隊したものを予備役に入れ、戦時に召集して兵力を増やすという手法が一般的でした。 この予備役というのが、日本では在郷軍人と呼ばれているものです。 現在でも徴兵制をとっている国々では理論上、戦時になれば予備役を動員して通常兵力の最大10倍程度にまで兵力を増やすことが可能です。 もっとも全員に与える武器や装備が揃うはずもないので、ほとんどが消耗した兵員を補充する程度の役割だと考えてもいいと思います。 またまた余談が長くなりました。もうついでだからもうちょっと書かせてくださいね。 通常平時では徴兵検査をパスして訓練を受けさせられるものは全体の15%程度でした。これは厳しい訓練を続けられることの出来るかどうかを判断した結果なので、意外と当時は日本も常識的というか、きちんとしていたんだなぁって思ったりします。 ところが第2次世界大戦に入ると、これが51%の合格率になり、昭和17,8年には60パーセント、そして終戦の年になるとなんと90パーセントの合格率になったんですね。 当然年齢や体力に問題のある人間も無理やり徴兵されていました。 これを見ると、いくら師団数が何百個あろうとも、無駄に血を流すだけの戦いになっていたことは明らかでしょうね。 ほんと長くなりました。申し訳ないです(~_~;)

noname#32495
質問者

お礼

長大で丁寧なご回答、ありがとうございます。 よくわかりました。 対岸の火事と、本当に総動員するのは、大分違ったものなのですね。戦時とはいえ、現役師団のみというのが第一次大戦なわけですか。 第二次大戦の日本軍総動員の様相もよくわかりました。400万なら何とか様になっても、800万の動員は所詮無理だったです。

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その他の回答 (11)

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.1

第一次大戦当時は20個師団程度でしょうか。 存在しているだけで、軍の維持には金がかかります。必要がなければ、兵の数は少ないほど装備を充実でき、強力になるのです。 太平洋戦争では広大な中国に加えて、さらに広大な太平洋の島々へ兵をばらまかねばならず、最後は男手を根こそぎに動員することになりました。 熟練工が大量に徴兵された結果、兵器生産で粗悪品が激増し、戦闘機のエンジンが動かないなどの悪影響が出るほどでした。 電波兵器(レーダー)の開発が勝敗を左右すると、日本も必死だったはずなのですが、戦後アメリカが行なった調査によると、開発責任者の言葉として「技術者が次々に徴兵されたのが痛かった」という、なんだか絶望的な話も残っています。

noname#32495
質問者

お礼

太平洋戦争時の根こそぎ動員はよくわかります。ただ、20個師団と100を越える差というのはどうもわかりません。それほどの違いを無理すれば作れたのでしょうか。

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