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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:男女に於ける愛と友情)

男女に於ける愛と友情

mktoolllの回答

  • mktoolll
  • ベストアンサー率22% (20/88)
回答No.5

心惹かれる問いなので、私見ではございますが一筆。  まず、「愛」についての私見ですが、「自分自身を宇宙を構成する一要素である」と認識する事のように思います。つまり、普段私達はさも自我と言うものを確実に存在するものとして考えがちですが、それは、宇宙という存在の思考の一部でしかないと私は考えます。ただ、この愛と、男女の愛は性質が違うのでちょっと書きたくなりました。  男女の愛を考察する場合、「不変の愛」「可変の愛」に分ける事ができると思います。現日本にあっては、血族に対する愛情は「不変の愛」、他人に対する愛情は「可変の愛」だと感じます。不変の愛を誓わせるものは同族としてのプライドなのかもしれません。つまり、異族との間にはある種の利益がある場合にのみ「愛」が発生すると思うのです。利益とは、金銭であったり、sexであったり、心の平安であったりと言う事ですが、それが無くなれば「愛」も無くなると言う事です。仮に夫婦であっても子どもや孫への「愛」は不変でも、伴侶への「愛」は不変ではない・・最近はやりの熟年離婚などは良い例ですよね。その事を考える時に、「友情」とは「愛」が内包する一形態では無いと言う事が言えると思います。  「友情」は自分の意思によって如何様にも変化をさせる事ができます。「愛」と「友情」の決定的な違いは、「愛」には自分を犠牲にできるが、「友情」には自分を犠牲にできないという点ではないでしょうか。熟年離婚した夫婦がお互いに「愛」でも「友情」という絆で結びつけないのは、そこにプライドがあるからだと思いますが、そういう点でも、「友情」とは極めてドライな信頼関係だとも言えると思います。つまり、「友情」とは理屈の上に成り立つものだと・・・・。  「愛」と「友情」は矛盾するどころか、全く別の感情の様に思います。「友情」はある種打算的で計画的な行動によってのみ発生しうる。「愛」は意思に関係なく発生する。その二つは一見似ているようで、その性格は全く異なっている。では、「友情に建設的要素は無いのか?」と問われば、私は、「建設的要素の無い友情はありえない、しかし、愛情と友情の共存もありえない。」と答えます。両者とも、人生を潤してくれるものにかわりはないですし、無くてはならないものですから。  結局「男女の愛って何?」という話ですが、私が思うに、もともと自分の意思と関係ない所で発生するものなので、定義付けなど無理な話なのですが、私は「コイツの為なら死ねる、誰にも取られたくない、死んでも傍にいる。」と本気で思える事なんだと思います。そこに、友情としてのアプローチは入る隙間などないと思いますし、隙間があるとすれば、それは「友人」なんだと思います。もちろん、一方的な感情の場合は友人的アプローチで段階を踏まないと大変なことになっちゃいますけどね。  長文になっちゃいました・・・済みませんm(__)m  

noname#13676
質問者

お礼

   お考えの一部をご披露くださり、ありがとうございました。  恐らくmktoolllさんは、とても愛情への傾注度の深い方なのだろうと拝察いたしました。「そこに、友情としてのアプローチは入る隙間などないと思いますし、隙間があるとすれば、それは「友人」なんだと思います。」というご一文で、とりわけそのように感じました。  さて、「血族」「同族」意識。  直系の血筋には感じる愛、されど伴侶への愛は消え得ると。しかしその「血」の存続すら、異分子が入ってくることなしには有り得ないはずなのですが・・   でもその感覚は分からなくはありません。特に母系家族の場合、そういう価値観で女性たちが動くさまを、私も多少存じています(私は全くの異質さから一方的に別の異質な血族に投入されたので、とうとう浮いた存在のままでした・・その点で言えば、放り出されて当然な者でした・・一種の淘汰?)。  血に関するとき人は意思制御不可能になり、血の埒外になると(友情)人はそれを制御し得る、ということでしょうか。定年後のご主人のことを「濡れ落ち葉」という冷ややかな呼称で言う奥さま方の心中には、何が残されているのでしょう・・ それもある意味で、血の存続のお役目を果たし、もうご用済みになった者への鎮魂でしょうか・・ う~ん、せつないものです。  ありがとうございました。

noname#13676
質問者

補足

 すみません、追記です。  私も若い頃は、自我やエスといったものに関心がありました。  でも40歳を過ぎた頃からでしょうか、極論言えば、自分を限りなく無に出来うる境地が、もっとも自分を幸福にするところなのではないだろうか、と思えるようになりました。こんな考えは間違いでしょうか。  渇愛・・ 仏陀が戒めたものでした。  求めるのではなく、求められる者に・・  与えなさい、と。  

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