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労働価値説は誤りではないですか?

B-1BLancerの回答

回答No.5

>マルクスの労働価値説は誤りではないですか? 誤りです。というより最初から普通の経済学者としての出発ではありませんし、この学説を発表した動機も違います。 マルクスの労働価値説や剰余価値論などは暴力革命を正当化するための理論だからです。つまり暴力革命を正当化するために我田引水的に理論を構築したものですし、時には他人の経済学を拝借もし、都合のいいところだけを採用しています。 当時は資本家が労働者に対してたいへんな搾取をしていました。 政治家は多くの税金を納めている人しかなれませんでした。 この現状を打破するためには労働者が革命を起こすしかないのだと言いたかったわけです。 労働価値説は労働者のみが価値を創造しているだけで、資本家は何の価値も生み出していない、ただ労働者を搾取しているだけだということです。 剰余価値論においても、機械が導入されて3倍の商品が生産されるようになっても、それは機械が価値を生み出したのではなく、労働者が更に3倍の搾取をされるようになったのだという理論を展開しています。 そして闘争によって歴史は発展していくものであり、共産主義社会が来るのは歴史の必然であるのだから、労働者よおそれるな、「万国のプロレタリアート団結せよ!」と暴力革命を訴えたのです。 小学生レベルの数学しか使われていないのをみても、経済学ではないことが分ると思います。 マルクスはアジテーターとしては一流だったと思いますが、経済学者ではありません。

yukoyoriko
質問者

お礼

有難うございます。 学者は特定の出来事から直ぐ一般化をして理論を打ちたて、それがどこでも通用する一般理論だと僭称してしましますから、それに騙されてしまうと危険ですね。

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