• 締切済み

国家とは何でしょうか?

辞書によると ・ 一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。 または、その組織・制度。主権・領土・人民がその三要素とされる。 と書いてありますが、上記の物は「国家」があって 初めて形成されてるものでは無いのでしょうか? 「日本の領土」等いう風に言われるようにの その「日本(国家)」を知りたいのですが… 皆様のお考えを拝借したいと思います。 回答が欲しいのではなく、考えを提示して頂ければ 結構ですので、お気軽に

みんなの回答

  • toni2u
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.5

国家とは、一定の領域、永続的住民、及び政府を備え、政府が対内的にも対外的にも他の主体から独立して行為することのできるものをいう、とモンテビデオ条約には書かれています。国家以前にそれらはないと国家として認められないです。国際法の社会で主体を得るには国家である必要性があります。 余談ですが、加来耕三氏の講演会で「日本人は自分の国である日本がいつ日本として誕生したのか言える人はいない」という話がありました。それはあまりに国の誕生がいつだったのかがはっきりしていないせいでもあります。建国記念日をアメリカやカナダなどの独立記念日のように祝ったりしませんよね。それは島国であるがゆえに国境という概念が薄いせいもあり、侵略された歴史が他の国に比べてないせいもあるのではないかと思います。

Panapana563
質問者

お礼

お考え有り難う御座います。

  • SCNK
  • ベストアンサー率18% (514/2762)
回答No.4

三要素とは19世紀にプロイセンのイェリネックが提唱したものですね。 私は、国際関係において主権を持つ存在だと考えます。つまり国家であるためには主権国家であることが最低限必要なわけです。逆にいえば万国国際法の主体となるものであり、同時に最高の権限を持つものです。 そのあとの段階として、国民国家の成立があるわけですが、現在でも国民国家とは言いがたい、国家もあるわけですから、それを定義にはできません。 主権国家はウエストファリア条約により成立しました。これにより最高の権力が領域を支配する形ができたわけです。それまでの社会は多元的社会であり、法秩序ひとつとっても国王、法王、皇帝、領主などがそれぞれの法を施行していたのです。それを国家が独占したわけです。 ただこの段階では、領民は国家によって支配されるだけのものに過ぎません。むしろ領民は領民で国家とは関係ない領域を意識しているわけです。これは現在でもあることで、アフリカ諸国などでは部族社会の方が上位概念になっていますし、イスラム社会ではイスラム地縁社会であるウンマの方が上位概念です。 領民自ら、自らの国家を意識して、いわゆる国家を意識する国民が形成されることにより初めて国民が誕生します。これが国民国家の誕生です。歴史的にはフランス革命がきっかけとなり、その後周辺地域に広がり始めました。 権力を国家に委譲するわけですから、基本的には自らの自衛権も国家に委譲することになります。自らのもっとも重要な権利を委譲することは、自らが国家と一体化したことを意味します。国民国家であれば、このように考えるのですが、国民国家になっていない主権国家の場合は、一方的な支配になります。しかしそれであっても生殺与奪の権利を独占することには違いありません。

Panapana563
質問者

お礼

お考え、ありがとうございます。

  • muto_123
  • ベストアンサー率20% (2/10)
回答No.3

> 一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。 >または、その組織・制度。主権・領土・人民がその三要素とされる。 辞書によるこの回答は、ヨーロッパに発祥した近代国家の考え方で、現在の国家を説明するいちばん一般的な言い回しです。現在の「国家」という言葉の定義として使われているわけです。その意味では「国家とはなにか?」ではなく、「こういうものが国家」という説明です。この三要素がそろっているものが国家であって、最初から国家があった、という話ではないわけです。 国家としての領域がなんとなく最初から確定的に存在したようなイメージがある。ノンポリ的な感覚が相対的に強い。国境に対するイメージがない、といった環境にある日本では、イメージしにくい言葉とも思います。 ただ、地理的な意味での日本を語るときであれば、国家という言葉は必ずしも必要ではなく、日本、日本列島あるいは本州など地理上の言葉を使えばよいわけです。 歴史的にみても必ずしも「日本列島」=「日本国」ではありません。 「日本という国家」という話をする場合、やっぱり上記の三要素は頭においておく必要があります。主権が天皇であったり、将軍であったり。領土に北海道が入らなかったり、台湾が入ったり。人民がすべて日本人というわけでもありません。 この言葉の定義に従えば、主権・領土・人民のどれかひとつでも欠ければ、そこには日本という国家は存在しないということです。 抽象的な話ではありますが、自分的には納得のできる説明だと思っています。 ひとつ付け加えますと、この定義はあくまでも近現代の国に対するものであって、過去歴史を語る上で使われるすべての「国家」という言葉に当てはまるわけではない、ということです。 明確な領土という考え方は、歴史の中では意外に新しく、近代以前の国については、むしろ明確な国境は存在しないというのがあたりまえでした。 遊牧民など移動性の高い生活を基本として成立した国では、人の集合こそが国であって、領土は必ずしも問題ではなく、人が動けば国も動くということもありました。 民主化以前の国においては、はじめに独裁者の主権ありきということもありえました。

Panapana563
質問者

お礼

お考え、ありがとうございます。

回答No.2

一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。 または、その組織・制度。主権・領土・人民がその三要素とされる。  というのは国家があってはじめて存在し始める(形成され始める)ものではなく、先天的に存在するものです。たとえばチンパンジーにも社会システムがあり、ボス制度があり(統治組織)、ムレ(政治的共同体)があります。このように、人間もおそらく太古のむかし、まだ国家という概念がなかった時代であっても、「国家っぽいもの」があったはずです。  近代においては、そうしたものは多くの場合国家という概念に重なっていますが、そうではないものもあります。ユダヤ人(民族)という考えかた、バチカン(ローマン・カトリック)という考えかたなどがその例で、国家という単位にはなっていないけれど(むしろ国家という単位を縦断して存在している)、「国家っぽいもの」の要素を多分に持っています。  こうした自然発生的な「国家っぽいもの」が時代のなかで洗練され、純粋化されて生れてきたものが近代国家といえるでしょう。通常、法制用語などで国家という場合にはこの近代国家をさします。たとえば縄文時代とか平安時代とか鎌倉幕府とかまで含めた日本というのは国家(近代国家)という名前で呼ぶのはふさわしくないといえます。むしろ前近代的な「国家っぽいもの」の枠組みにゆるく依拠しながらさまざまな政権(主権)が攻防を繰り返してきたわけで、その枠組みの要素として土地(場)と国民(国家の対象)が重要になってくるわけです。むろん日本は特殊な例で、たとえばヨーロッパなどであれば、場と国民の枠組みは政権の変転によっていろいろに組みかえられてゆきます。これがかっちりと固定してしまうのが近代国家で、ヨーロッパ史ではフランス革命以降のフランスあたりが近代国家の第一号といわれています。  近代国家の最大の特徴は、その国民と主権とが、「われわれは一体となった国家である」という意識を持っていることです。鎌倉幕府のもとで田を耕していたお百姓さんは「鎌倉幕府ってなんだべな」と、おそらくは思っていた。自分がそのメンバーだという自覚がうすかった。モーツアルトなどは自分がドイツ(神聖ローマ)国民かオーストリア国民か、自分でもはっきりわからなかったし、はっきりさせようという意欲もなかったでしょう。しかしフランス革命以降の近代国家というのは、自分はこの国のメンバーであるという意識をつよく持ちます。これがナショナリズムの起源であり、同時に、「自分」と「この国」がメンバーとなる契約を結んだ際の契約書(憲法)が大事だ、という市民契約論=近代立憲主義の成長へとつながってゆきます。ですから、近代国家の最大の要素は「自覚」であるといえるのですが、こうした原理的な近代国家の理念は二十世紀になってもあまり理解されず、むしろ独裁、圧制国家に典型的な「政治制度は自然発生国家的=国民に投網をかけるようにして支配する。経済・軍事制度は近代国家的=工業主義、富国強兵主義」という御都合主義的政体が横行しているのが現状です。

Panapana563
質問者

お礼

お考えありがとうございます。

  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.1

国家という定義ではなく、国家という概念という意味でしょうか? 日本に住んでいると、領土の境界もはっきりしているし、歴史的に領土もそれほど変わっていないので、国家観が固定化してしまう感じがあります。 大陸を旅行しているとき、自由に海外に行けない中国からイスラム教徒数人が村人に見送られてメッカに巡礼に行くシーンを見ました。 別の国では、お酒を飲むためだけに、トルコの国境を越え、飲んだら又自国に帰るという人も見ました。 ある民族は、居住地の間に三カ国の国境線が引かれています。 その時感じたのは 世界を旅するには三つの切符が必要です。 一つは旅行会社の切符。 もう一つは自分の国の切符(パスポート) 最後は相手の国の切符(ビザ) 要するに国家というものは、切符(義務や権利)を発効する機関なのです。 移動や、婚姻、教育、納税など、その都度払ったりもらったりするものです。 それ以上でもそれ以下でもないのです。 あとは思い入れですね。

Panapana563
質問者

お礼

失礼しました、説明不足でした。 国家の定義を知りたいのですが つまり「国家」って何を指して国家なのですか? と指した時辞書をを読んだのですが 分らなくなってしまって。 お答えくださってありがとうございます。

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