hw4183 の回答履歴

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  • 描いた絵の心理分析

    描いた絵や色でその人の心理を推測する(仕事)事がありますよね。 判断する(アドバイス)する方は絵を描かれるのでしょうか? と言いますのも、当方絵を描く仕事をしていますので(建築パースが主、その他墨絵、少年ジャンプ系ギャグマンガ) 例えば自分と傘を描いてくださいとの質問にも、頭の中で何通りか構図を考えたり、実際描いてうまくいったものを選んだりします。 傘なら開いたところ、閉じようとしているところ、振り廻しているところなどデッサンのつもりで色々描きます。 絵でその人のタイプはなんとなくわかりますが、心理状態って、こんな感じでもあてはまるのでしょうか? 子供の絵でも、花や虹がありえない色で描いてあるから問題視する(注意をうながす)場合もあります。 でも、子供ってその色のクレヨンを持ってなかったり、お友達に貸してあげてたり、絵の具のふたが乾燥してあかなかったりして、テキトーに時間内に終わらせませんか? 絵を描く者はその辺が微妙ながらにわかるんですが、 絵で心理状態を図るお仕事の方は日頃絵を描かれているのでしょか? 単にテキストにあてはめてもっとも近い一般的な答えをご提供くださっているのですか? 反論とかでは全くなく、本当に疑問なのです。 (実は自分の気づかない心理をしりたいのですが、あてはまるのか不安なのかもしれません) 心理学の事もよくしらず、申し訳ありません。 お時間がある時に何かお考えをいただけたらうれしいです。

  • 哲学は無意味

    哲学ほど何の役にも立たなくて時間の無駄な教科はあるのでしょうか?単に何かの物事に対して考えるだけでそれによって自己満足を得るだけじゃないのでしょうか?

  • 私の考えについて意見してほしいのですが。

    特に哲学について大学などで学んだことは全くないのですが(経営学部)、自分の身体操作技術論の発展過程で、東洋武術的身体論に、釈迦の至った「悟り」と最近の国際的なマルクス論の展開とに共通性を感じています。 具体的に 1 物事全般における三次元性 人の物事に対する視点や認識は二次元的であり、平面的である。また、それはスポットを当てたかのような範囲的な狭さも含んでいる。 2 釈迦の「悟り」と身体操作技術的観点から見た身体論 身体操作において身体の分割を考えた場合。それを分割していき中国武術(意拳)の王郷齋が至った細胞レベルまでの意識的身体分割そしてその統合。その延長線上に釈迦の「悟り」、(私の解釈では)宇宙との同化であり、具体的には素粒子レベルでの意識的身体分割によって宇宙という存在と釈迦自身との差異がなくなったのではないか。そして統合=宇宙との同化を「修行」(=おそらくは呼吸法やヨガ的なもの)を進め、「宇宙=自身」というものを「体感」し得た。 3 最近の国際的なマルクス論の展開 身体の分割=分業であること。そして、資本主義(ネグリの帝国)において内部でうごめくグローバルとローカルの二元的対立は、=輪廻。最終的な「共産主義」(でなくても現在の資本主義という枠からパラダイムシフトしたポスト資本主義社会)とは釈迦の至った輪廻から抜け出ること。 (今のところ)以上から 4 我々は宇宙(=自然=神)の一端 その一端である限り現実にそれを超越することはできない。すなわち終局的には、宇宙との同化。「宇宙との同化」をピラミッドの頂点としたとき、人間の行動や思想はそこへいたるプロセスに過ぎない(中でうごめく物事について人間というフィルターを通してみたときの是非はあるが)。 自分でもまだ淀んだイメージなので非常にわかりにくいと思いますが、こういった考えに意見してください。

  • 結局、どんな人間が魅力ありますか?

    結局、人間に大事な事ってなんですか? そして本当の個性ってなんですか? それは持てるものですか? ちなみに私の嫌いな人は・・、 人を脇役に抜てきする人、無知な人、謙虚でない人。 基本的に人が嫌いなのですが・・。 人生経験豊富で考えが固まってきた、 人生後半を生きている人、お願いします。

  • 私の考えについて意見してほしいのですが。

    特に哲学について大学などで学んだことは全くないのですが(経営学部)、自分の身体操作技術論の発展過程で、東洋武術的身体論に、釈迦の至った「悟り」と最近の国際的なマルクス論の展開とに共通性を感じています。 具体的に 1 物事全般における三次元性 人の物事に対する視点や認識は二次元的であり、平面的である。また、それはスポットを当てたかのような範囲的な狭さも含んでいる。 2 釈迦の「悟り」と身体操作技術的観点から見た身体論 身体操作において身体の分割を考えた場合。それを分割していき中国武術(意拳)の王郷齋が至った細胞レベルまでの意識的身体分割そしてその統合。その延長線上に釈迦の「悟り」、(私の解釈では)宇宙との同化であり、具体的には素粒子レベルでの意識的身体分割によって宇宙という存在と釈迦自身との差異がなくなったのではないか。そして統合=宇宙との同化を「修行」(=おそらくは呼吸法やヨガ的なもの)を進め、「宇宙=自身」というものを「体感」し得た。 3 最近の国際的なマルクス論の展開 身体の分割=分業であること。そして、資本主義(ネグリの帝国)において内部でうごめくグローバルとローカルの二元的対立は、=輪廻。最終的な「共産主義」(でなくても現在の資本主義という枠からパラダイムシフトしたポスト資本主義社会)とは釈迦の至った輪廻から抜け出ること。 (今のところ)以上から 4 我々は宇宙(=自然=神)の一端 その一端である限り現実にそれを超越することはできない。すなわち終局的には、宇宙との同化。「宇宙との同化」をピラミッドの頂点としたとき、人間の行動や思想はそこへいたるプロセスに過ぎない(中でうごめく物事について人間というフィルターを通してみたときの是非はあるが)。 自分でもまだ淀んだイメージなので非常にわかりにくいと思いますが、こういった考えに意見してください。

  • チワワを飼いました。すごくよくなめる犬なのですが、口が臭いです。

    タイトルどおりなのですが、毎日首や顔などをすごくなめられます。でも口がすごく臭いんです。えさはアイムスの仔犬用を与えています。その他のエサはあげていません。何が原因でしょうか?

    • ベストアンサー
    • zae81622
    • 回答数4
  • 神っているの?当然いないよねー。

     哲学家の皆さまに質問です。僕は超無神論者です。  めっちゃ自分の中に閉じこもっているDEEPな方のご意見が聞きたい、今はそんな気分です。  僕は絶対、神さまはいないと思う。僕の神様はどーしてもつらいときだけ存在します。苦しいときの神頼みですね。それ以上ではなくそれ以下ではない。  皆さまの回答はできるかぎり読みますが、あまりに読みづらいのは勘弁してください。僕は本当に超個性的な方を待ってます、どんな考え方しているのかちょっとでも知りたいです。

  • 神はいるのでしょうか?

    観念論だとか唯物論だとかありますが結局のところ「神」というものはいるんでしょうか。 もしいなかったとすると宗教のために戦争がおきることがかなり虚しいんですが。

  • 国栄えて哲学滅ぶ?

    古代ギリシアではあれだけ華々しい哲学の花が開いたのに対し、古代ローマでは土木・建築などの実学的な学問が重んじられ、哲学は軽視された――かつて学んだ世界史の教科書にこんな記述があったような記憶があります。 パックス・ロマーナ――古代ローマ帝国の繁栄がこの言葉によって表現されることがあります。そして、パックス○○と名の付くものは、その後、パックス・ブリタニカやパックス・アメリカーナなどがあります。ところが、これは私の無知や認識不足なのかもしれませんが、パックス・ブリタニカやパックス・アメリカーナにおいては優れた哲学が生まれていないような気がしますが、実際はどうなのでしょうか? これはとんでもない誤解なのかもしれませんが、国が栄えると哲学が冴えなくなる、逆に言えば、優れた哲学が生まれるには例えば国や国民の生活が危機的状況にあることとに、何らかの因果関係は存在するのでしょうか? 今まで歴史を勉強したことはありますが、こんなことはどこにも書かれていませんでしたし、誰も教えてはくれませんでした。それともこれは単に私の無知ゆえの誤解なのでしょうか?

  • 今生で終わりとは?

    不思議な力を持つ人に、 「あなたは魂が古く、おそらく今生で終わりです」と言われました。 私はここ何年か悩んでおり、スピリチュアルな本を読んだりしていたので、魂の学びのために輪廻転生をするということは信じています。 ただ人が苦手というか社会オンチ?みたいな所があって(手探りで人とかかわっている感じ)、とても悩んでいたことがあるので、学びを始めたばかりの新しい魂なんだとばかり思っていました。(←この考え方も合っているのかどうかわかりません) なので今回の人生で学びが終了するとは思えないというか・・・ 具体的には「今生で終わり」な人ってなんなのでしょうか? 非常にあいまいな質問になってしまいましたが、この方面について詳しい方のご意見をいただければと思います。 よろしくおねがいします(__)

  • 悟りとは?

    俗に大悟十八、小悟無数といわれます。 禅者は悟りの体験を最重要視するのでしょうか 悟らないものとは話が通じないとも言ってるようです。 悟りの状態とはなんでしょう?幻想でしょうか。 そもそも悟りが目的になってはいないでしょうか いま、ここに現象するあるがままを直接に知覚すること ができるには、さとりを含むあらゆる知識経験から離れてはじめて可能になると思われます。 言葉や経典による知識はひとつの固定観念ではないでしょうか 悟り至上主義はいびつなものになってはいないか?

  • 悟りとは?

    俗に大悟十八、小悟無数といわれます。 禅者は悟りの体験を最重要視するのでしょうか 悟らないものとは話が通じないとも言ってるようです。 悟りの状態とはなんでしょう?幻想でしょうか。 そもそも悟りが目的になってはいないでしょうか いま、ここに現象するあるがままを直接に知覚すること ができるには、さとりを含むあらゆる知識経験から離れてはじめて可能になると思われます。 言葉や経典による知識はひとつの固定観念ではないでしょうか 悟り至上主義はいびつなものになってはいないか?

  • 悟りとは?

    俗に大悟十八、小悟無数といわれます。 禅者は悟りの体験を最重要視するのでしょうか 悟らないものとは話が通じないとも言ってるようです。 悟りの状態とはなんでしょう?幻想でしょうか。 そもそも悟りが目的になってはいないでしょうか いま、ここに現象するあるがままを直接に知覚すること ができるには、さとりを含むあらゆる知識経験から離れてはじめて可能になると思われます。 言葉や経典による知識はひとつの固定観念ではないでしょうか 悟り至上主義はいびつなものになってはいないか?