sariputra の回答履歴

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  • ひとつだけの花

    ・・・ジャニーズって、むしろ嫌いだったんですけどね。 「淘汰」って、 社会において、どれくらい重要なことですか?

  • 心中自殺なら天国に行けますか?

    キリスト教では,自殺した人は地獄に落ちることになっていると思います. 一方,聖書には 友のために命を捨てる行為を賞賛する記述があります. 「友のために自分の命を捨てること,これ以上に大きな愛は無い.」ヨハネ福音書15:13, 「イエスは私たちのために命を捨ててくださいました.そのことによって私たちは愛を知りました.だから,私たちも兄弟のために命を捨てるべきです.」ヨハネの手紙一3:16など この世での苦しみに耐えかねた二人が お互いのためを思いあって心中自殺した場合, 二人は天国に行くのでしょうか. それとも自殺の罪で地獄に落とされてしまうのでしょうか.

  • 心の病を治すものとは ー ロジャースペリーの言葉

      どのような精神科医がどのような薬を処方しようと心の病を治すことは絶対にできない。 どのような臨床心理士がどのようなカウンセリングを施そうと心の病を治すことは絶対にできない。 どのような宗教団体に属し、どのような神を拝もうと心の病を治すことは絶対にできない。 もしも心の病を治すものがあるとするならそれは唯一つ本人の意思、本人の「思想と哲学」を除いて他にはあるまい。 -ロジャースペリー1981年ノーベル生理学・医学賞   ロジャースペリーは正しいか? ロジャースペリーは何を説いたのか?  

  • 「存在」とは何か?定義してみて下さい。

    前に一度質問したと思うのですが 哲学において大きな位置を占める「存在」と言うもの これは何でしょう?「存在」を定義してみてください。 これが人それぞれバラバラで、認識が一致しないなら 哲学は何をなすことができるでしょうか いま哲学の役割は大きくなって来ていると思います 宗教も信じない人も多く、理系と文系の間を埋める哲学がなければ 科学技術も問題を起こしかねません(原発とか)(倫理の問題とか) 「存在」とは何でしょう? どうかよろしくお願いします。

  • 「細かく口を出したい」とはどういう性質か

    周りの人のこと、質問サイトでのこと、昨日見た映画の結末にまで細かく意見を言いたい、口を出したいというのはどういう性質・性格なのでしょうか。本能的な欲求なのでしょうか。 自己実現理論でいうと、承認(尊重)の欲求(Esteem)ですか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96

  • 有名になること自体は目標に出来ない?

    有名になること自体を目標(夢)にすることは出来ますか。 何かの目標の結果として有名になることはあっても、有名になること自体は目標にならないのではないかと最近思いました。 これは、それ自体を目標とは出来ないと、人間の欲においても特殊な性質をもつのでしょうか。 勿論犯罪やマナー違反などは無しでお願いします。

  • 悟りとは

    其れは『ある』と言う事 『存在』そのもの 何時からでもなく、何処からでもなく、何の為でもなく 何故なら、時に因るのであれば、時を重ねれば良い 何故なら、場に因るのであれば、場を訪ねれば良い 何故なら、理に因るのであれば、理を求めれば良い 時は時 場は場 理は理 これらはそれぞれが、それぞれに依存し、それぞれを補完している 全ては一であり、また一が全てを現す どれでも良いし、どれでも変わらない 無意味さも、有意義も と、ちょっと発言してみるw

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  あらたに問う必要を感じました。ご教授ください。

  • 三位一体論は そんなに不人気なんですか?

     《三位一体なる神は 無宗教である》と捉えその表題のもとに議論を展開することによって 人気の無さが 必ずしも根拠のある見方ではないであろうことを問います。あらためて問うものです。            *  三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  三位一体論は 役に立ちませんか?

  • 悩み続けています

    私は小学生の頃から抱えている問題があります。 それは過ごすなかで次々に生まれる疑問に自身の知識と解決するために必要な時間が足りていないということです。 時間があれば解決できるという内容だともあまり思えないのですが、私は考えたいのです。 しかし、先ず自分を生かす必要があり、その為には働いてお金を稼がなくてはなりません。 生きていれば人間関係によって割かれる時間もあります。 小学生の頃など、まだ幼く学校に通うだけで働く必要のない立場ではありましたが人間関係で悩みました。 冗談を言い合い他愛ない話をする相手がそれなりには居ましたが、私が欲しているのは疑問の答えでそれが得られない為に虚無感に襲われていました。 現在の私にもそのような相手が居ますが、やはり満たされません。 解決されない疑問のせいで苦痛を感じない日はありません。 理解され難い希望かとは思いますが、私は疑問が消えないのなら考える時間が欲しいです。 つまり、働くということ、人と接するということをやめたいのです。 全てを絶てば疑問は今のように次々に生まれないと思うのです。 そうすれば今自分が得ている情報から生まれる疑問についてのみ考えることが出来ます。 馬鹿げてると言う人がきっと居るでしょう。 ですが、本当に苦しいのです。 問題の疑問というのは、一部を挙げると ・何故人は言葉を意味(何かを表すもの)として認識出来るのか。 ・現実とは何か。 ・皆がいう「赤」は全て同じもの(色)なのか。 ・善悪を説いたのは誰か、それにならう者はどういった考えでそれを受け入れているのか。 ・今見ているものは真か。 ・恥とは何か、どのような意義があるのか。 ・共感って?そもそも感情とは何か。 ・美味、悪臭、それらは何なのか。 このようなものです。 死を考えることもありましたが、痛みが怖くて出来ません。 ここまで書いたものの、私は働かなくてはいけないのも人間関係を絶つことが出来ないのも分かっております。 吐き出したかったのです。 こういう疑問を抱く人は大勢居るかもしれません。 ただそれを重大な問題と捉え、苦痛を感じ悩む人は多数派ではないのだろうと思っております。 この頃は自分に対する怒りや焦りのようなものを感じます。 何故ここまで気になるのだろう。 気持ちを楽にしたいです。 ですが、放りたくても放れません。 …助言をいただけたら幸いです。 文章におかしな点がありましたらどうかお許し下さい。 自分でも上手くまとめきれないのです。

  • 良く考える人と悪く考える人

    同じ考え方や出来事でも人によって良くも悪くも解釈されますよね。なぜでしょうか?

  • 私は死刑制度賛成です。

    それは、それに値する犯罪者がいるからです。一番腹が立つのは死刑廃止が先進国の考え方であるかのかのように言う人がいることです。では、人を殺すことが先進国に住む人間的な行為でしょうか?ということです。 また、死刑という行為は最高の刑、極刑ですがオウムの麻原のようなヤツを法の裁きだけで済ませられてしまってそれで済むのか?とも考えます。それだけで残された遺族の方たちの気持ちは晴れるのか、とも。あのようなヤツは10回死刑にしても許せない、遺族の気持ちも晴れることはないでしょう。 現在のところ、極刑は死刑しか、死刑しかない・・・ないのです。人を殺すという行為は原始的な行為である、と考えます。だから、原始的な方法で裁けばいいのです。公開処刑にすればいいのです。それでいいのです。それでこそ、抑止となるのです。 ムチャクチャだ、という方がいらっしゃるかもしれませんが、人命を絶つ、ということはそうなのだから当然です。極悪な行為を実行した者には極悪な方法で裁けばいいのです。それでこそ抑止の効力となるのです。 そこで質問です。この考え方は野蛮でしょうか?

  • ゴータマの死〔の不延期〕に アーナンダは罪があるか

     次のくだりについて ゴータマの言おうとすることは何か? これを問います。  ▼ (ゴータマ アーナンダを責める) ~~~~~~~~~~~~  〔第三章 四七〕 ・・・  アーナンダよ。わたし(=ゴータマ)はいま・・・お前に言った、  『・・・  アーナンダよ。いかなる人であろうとも 四つの不思議な霊力(四神足)を修し 大いに修し (軛を結びつけた)車のように修し 家の礎のようにしっかりと堅固にし 実行し 完全に積み重ね みごとになしとげた人は もしも望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう』と。  アーナンダよ。修行完成者がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたけれども お前は洞察することができなくて 『尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください。幸いな方(=ブッダ)は寿命のある限りこの世に留まってください。  ――多くの人々の利益のために 多くの人々の幸福のために 世間の人々を憐れむために 神々と人々との利益のために 幸福のために』といって修行完成者(=ブッダ)に懇請しなかった。  アーナンダよ。もしもお前が修行完成者に懇請したならば 修行完成者はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが しかし三度まで言ったならばそれを承認したであろう。  それだから アーナンダよ これはお前の罪である。これはお前の過失である。  (中村元訳:『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980  第三章[四七] pp.92-93 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち アーナンダがゴータマに対して 長寿を懇請しなかったことは 《過失であり罪である》という判断は 成り立つか?  どうお考えになりますか。  アーナンダは このように咎められてそのあとただちに長寿を懇請しているのですが 《いまはお止めなさい。修行完成者には懇請してはいけない。いまは修行完成者に懇請すべき時ではない》と答え返されているようです。  そうしてこのような押し問答が何度にもわたって繰り返されつつ そのおしまいのところでは 《これは お前の罪である。お前の過失である》と告げられています。  いったい何のことなのでしょう?   割り合い好意的な解釈をしているひとつの見解をリンクさせておきます。  ○ アーナンダ http://hannyashingyo.web.fc2.com/arekore/ananda.html

  • 自分でものを考えられず流される人ばかりなのか

    自分でものを考えられない、自分の考えを持たない、ただ習慣や慣例に従うだけ、周りに流されるだけ・・・そんな人は世の中多いのでしょうか。 私がそのようなタイプです。 わけも分からずにいます。

  • 残り物に福があるとは本当ですか?

    残り物に福があるとは本当ですか? http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/171816/m0u/%E6%AE%8B%E3%82%8A%E7%89%A9/

  • ゴータマの死〔の不延期〕に アーナンダは罪があるか

     次のくだりについて ゴータマの言おうとすることは何か? これを問います。  ▼ (ゴータマ アーナンダを責める) ~~~~~~~~~~~~  〔第三章 四七〕 ・・・  アーナンダよ。わたし(=ゴータマ)はいま・・・お前に言った、  『・・・  アーナンダよ。いかなる人であろうとも 四つの不思議な霊力(四神足)を修し 大いに修し (軛を結びつけた)車のように修し 家の礎のようにしっかりと堅固にし 実行し 完全に積み重ね みごとになしとげた人は もしも望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう』と。  アーナンダよ。修行完成者がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたけれども お前は洞察することができなくて 『尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください。幸いな方(=ブッダ)は寿命のある限りこの世に留まってください。  ――多くの人々の利益のために 多くの人々の幸福のために 世間の人々を憐れむために 神々と人々との利益のために 幸福のために』といって修行完成者(=ブッダ)に懇請しなかった。  アーナンダよ。もしもお前が修行完成者に懇請したならば 修行完成者はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが しかし三度まで言ったならばそれを承認したであろう。  それだから アーナンダよ これはお前の罪である。これはお前の過失である。  (中村元訳:『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980  第三章[四七] pp.92-93 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち アーナンダがゴータマに対して 長寿を懇請しなかったことは 《過失であり罪である》という判断は 成り立つか?  どうお考えになりますか。  アーナンダは このように咎められてそのあとただちに長寿を懇請しているのですが 《いまはお止めなさい。修行完成者には懇請してはいけない。いまは修行完成者に懇請すべき時ではない》と答え返されているようです。  そうしてこのような押し問答が何度にもわたって繰り返されつつ そのおしまいのところでは 《これは お前の罪である。お前の過失である》と告げられています。  いったい何のことなのでしょう?   割り合い好意的な解釈をしているひとつの見解をリンクさせておきます。  ○ アーナンダ http://hannyashingyo.web.fc2.com/arekore/ananda.html

  • 悟りを開くとは何ですか?

    私の回答を評価して 頂けると幸いです? 参照! http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q10128943180 私の回答! 質問 悟りを開くとは何ですか? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12128919567 自分自身を 偽りなく直視する事が出来 る事が 悟りであり、 全ての生き物が 自分の近親者の様に感じる事が 悟りであり、 自分自身が 幻想の世界(夢)に 生きている事を自覚するのが 悟りであり、 全ての物事の儚さと尊さに 気付く事が、 悟りであり、 悟りを開くと 過去(記憶)と未来(妄想)ではなく 現実の一瞬を生きれる様に成れる! しかし 副作用として 悟ると言葉が必要無くなるので、 言葉を徐々に忘れていきます。 過去への執着心が無くなるので 物事を記憶しなくなります、、、 、、、、、、、、、、 全てを悩みを 解決出来る様には成るが、 身体から解放されない為に 全ての苦しみを超越出来る死を 恋い焦がれる様に成る! 悟った後の苦しみについて? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11125327881

  • 哲学で人間や社会に貢献できるでしょうか?

    私が高3の頃 大学を受験するのに「哲学科に行きたい」と言ったら 父からあっさり却下さrました。お金を出すのは父ですからやむを得ず理学部を受けました。 しかし哲学への思いは捨てきれず ついに大学を辞めて家を出ました 私は大学の哲学という勉強ができなくても 自分で考え抜けば結論は出ると思ったのです その結論は存在性思想で検索して頂ければあるのですが 思ったほど いや思いもしないほど広がりませんでした 僕は現代社会で哲学が果たす役割は大きいと見ているのですが 皆さんはどう思われますか? 情報量ばかり多くて それを使う方針がない すぐ武力に頼ってしまう。 マザーテレサやガンジーのような人物もいないような気がします 在来の哲学も含めて哲学の果たす役割は何でしょう?何が出来るでしょうか?

  • 哲学で人間や社会に貢献できるでしょうか?

    私が高3の頃 大学を受験するのに「哲学科に行きたい」と言ったら 父からあっさり却下さrました。お金を出すのは父ですからやむを得ず理学部を受けました。 しかし哲学への思いは捨てきれず ついに大学を辞めて家を出ました 私は大学の哲学という勉強ができなくても 自分で考え抜けば結論は出ると思ったのです その結論は存在性思想で検索して頂ければあるのですが 思ったほど いや思いもしないほど広がりませんでした 僕は現代社会で哲学が果たす役割は大きいと見ているのですが 皆さんはどう思われますか? 情報量ばかり多くて それを使う方針がない すぐ武力に頼ってしまう。 マザーテレサやガンジーのような人物もいないような気がします 在来の哲学も含めて哲学の果たす役割は何でしょう?何が出来るでしょうか?

  • トルストイの「アンナカレーニナ」のあなたの解釈は?

    すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。 という冒頭の言葉、あなたはどう解釈しますか? そして、どう自分の人生に生かそうと思いますか? ぼくのお気に入りの解釈はマンガであった「しあわせなヤツはつまらん。その人の不幸だった境遇にこそその人らしさが出る」です。 こう生かしたという実践までなさった方がいれば、なおお聞きしたいです。 はじめて聞いたという方もとくに正解はないので、気分でお答えくださいませ。