kanto-i の回答履歴

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  • 占い師の心得について助言してください。

    この質問は占いカテゴリーで出した者ですが回答が1件もありませんでした。 このカテゴリーに質問を移すと、待ってましたとばかりに、日ごろ私がライダーキックを喰らわせている亡者どもが、仕返ししてくると思います。 それでもいいです。 今回特にお聞きしたいのは、役立たずは新興宗教に売り飛ばすと言ったとこがどのくらいおっかない印象を与えるかです。 > 私は占う側なのですが、その心がけについて考えをまとめてみました。 色々な方からご意見をお聞きしたいと思います。 占い全般について同じなのですが、占いを依頼する側は、占いじゃなくて神がかりなご宣託や予言を期待していることが多いのですが、預言者と言えばキリスト教のイエスキリスト、イスラム教のマホメットの事です。占いはそうした宗教じみた運命の支配と盲信を誘うものではなくて、霊感と神秘のおまじないを絡めた、現実とは異なる見解を助言することだと考えています。 預言じゃなくて助言です。 それからタロットの場合は、カードに問いかける内容を正確にしないと、答えも正確に出てこない特徴があります。 そのためには依頼者の本心の望みを聞き出す必要があります。 嫌われている「欲望」と言うやつは、友達はこうだ、テレビではこうだと、誰か他人の事をうらやんで、その誰かさんの望みが自分の望みだと勘違いする事です。 欲望は自分の本心の望みではない。 ですから問い求めの過程で、タロットを何度も使って行きながら、探り当てるのは預言的未来じゃなくて、依頼者が真の願う事を言い当てるのが占いだと考えています。 下手な助言は依頼者の欲望をさらに募らせるばかりですが、そうじゃなくて自分自身が望む願いに到達出来れば、希望となり自らで何とかしようとします。 そんな意思に到達できるようになるまでの助言をするのが占いだと考えています。 これらは会話術や心理分析もどきだけじゃなくて、霊感を備えた直感力と、タロットをうまく操る神秘との親和性で実力が決まってきます。 私は元々悪魔払いみたいなことに明け暮れていた霊感型で、肉弾戦みたいな悪霊バトルよりもタロットなどを効率よく使った方が効果的だからそうしています。 それはともかく、私が見るに、占ってもらう側の資質も重要で、欲望をかなえる事のみに執着して、欲望のために占い師を犠牲にしようと考える依頼者は、本来悪魔払いが必要な重症状態です。 楽しんで占えるのは、自分の本当の心をみつけようとするタイプで、これは楽に助言できます。 欲望の達成をもくろむ方は、私はもう物好きで徐霊しようとは思いません。 私はプロではないのでそのような依頼者は断るか無視します。 もし私がプロで、依頼を断れない立場なら、徐霊可能な重症患者からはひとケタ違う徐霊料金をきっちり請求するか、その必要もない低俗な欲望なら、さらに欲望を募らせるようにそそのかし、廃人にしてから「あなたにもっといい先生を紹介してあげる」こう言って、業務提携を結んだカルト宗教の教祖様に奴隷として転売します。 プロで仕事するならその位冷酷になります。 さて、占い師の心がけとしていかがなものでしょう。

  • 見渡せば愚民ばかり。

      やっぱときどき戦争やって掃除せないかんのかなこれは。  

  • 人前に出てはいけない人

    とは、どのような人ですか。 また、そうであればどのように生きていくのがよいですか。 昔、人にそんな言葉を投げつけられたことを思い出して、気になっています。

  • 努力は何のためにあるか

    努力はなんのためにあるかと訊けば、「うまくなるため」とか「夢を叶えるため」と言う人が多いと思います。 確かに努力しないと成長はないでしょう。夢をかなえるには努力は必要です。 しかし、努力すれば必ずうまくなるとは限らないし、努力したって夢はかなわない方が多いです。 なので、努力の意味はうまくなるためや夢をかなえるためが本質ではない気がします。 僕は努力の真の意味とは「かっこよくなるため」だと思います。 逆上がりができない子が練習して逆上がりができるようになるとその子はカッコいいと誰でも思うでしょう。 上手くなろうとして夢に向かって頑張っている人はみんなキラキラしています。 たとえ上手くなれなくても夢をかなえられなくても努力してきた人はそれだけで輝いて見えます。 誰でもどんな人でも努力すれば絶対今よりもかっこいい自分になれます。 「今の自分にかっこよくなるため」が努力の真の意味だと思います。 こんな僕の考え方について皆さんはどう思いますか? 皆さんならば、努力は何のためかと訊かれたらどう答えるでしょうか?

  • 西田の純粋経験について

    西田幾多郎の純粋経験や主客未分といったものは、現代ではどのように評価され、また解釈されているのでしょうか。 私の見解では、多くの観念的な悩みが純粋経験によって消失しますが、現実は一つも変わりません。 雨が降れば傘を差し、日々の勤めに精をだし、飯も食い、そして一日一日また歳をとっていく。 頭の中の悩みを消し去ったというのは一つの功績として立派ですし、静かな思索が可能になったというのも大きなことです。 風邪を引くとか、怪我をするとか、そういったことは回避できませんが、心は軽くなったように思います。

  • 西田の純粋経験について

    西田幾多郎の純粋経験や主客未分といったものは、現代ではどのように評価され、また解釈されているのでしょうか。 私の見解では、多くの観念的な悩みが純粋経験によって消失しますが、現実は一つも変わりません。 雨が降れば傘を差し、日々の勤めに精をだし、飯も食い、そして一日一日また歳をとっていく。 頭の中の悩みを消し去ったというのは一つの功績として立派ですし、静かな思索が可能になったというのも大きなことです。 風邪を引くとか、怪我をするとか、そういったことは回避できませんが、心は軽くなったように思います。

  • 葛藤を捨てるには

    葛藤をふっきる方法、またはそれができたという方の経験談を教えてください。 たとえばAとBの選択で悩んでいる場合。どちらも自分にとってはよくないことだとします。 いずれかを選択すると、いずれかに依存している自分も捨てなければならない。 こういう状況におかれたとき、どのような思考や思想、方法論でAもBも捨てることができるのでしょうか?

  • 葛藤を捨てるには

    葛藤をふっきる方法、またはそれができたという方の経験談を教えてください。 たとえばAとBの選択で悩んでいる場合。どちらも自分にとってはよくないことだとします。 いずれかを選択すると、いずれかに依存している自分も捨てなければならない。 こういう状況におかれたとき、どのような思考や思想、方法論でAもBも捨てることができるのでしょうか?

  • 自我は存在するのでしょうか?

    思考、思想を周囲から植え付けられたものであるとすれば自我など存在しないのではないでしょうか? 人は傀儡の如きものであり、自我だとするものの全てはインプリンティングの成せる業でしょうか?

  • 人間関係の上下関係は消えないのでしょうか?

    宜しくお願いします。 人は誰かと出逢った時に心の中で「この人は自分より上か下か」をジャッジしている、それは動物的な本能だとあるサイトに書いてありました。 人によってジャッジの仕方は違うと思います。その人が何に拘ってるのかって事で人の見方はかわってくると思うのです。だから人をジャッジする人=弱い人ってことじゃないんですか?そういう人って自分が過敏に反応しているだけの事(拘り)に関する真意を理解してないし受け入れられてないってことですよね?精神的に優位に立ちたがる人は馬鹿で愚かな人じゃないんですか?そうじゃなくてそれはやはり動物的本能なのでしょうか?

  • 葛藤を捨てるには

    葛藤をふっきる方法、またはそれができたという方の経験談を教えてください。 たとえばAとBの選択で悩んでいる場合。どちらも自分にとってはよくないことだとします。 いずれかを選択すると、いずれかに依存している自分も捨てなければならない。 こういう状況におかれたとき、どのような思考や思想、方法論でAもBも捨てることができるのでしょうか?

  • 知性は顔に現れますか?

    自分は読書歴が浅いのでわかりませんが、10年20年と知性を高めていくと雰囲気に現れたり顔に現れたりしますか? また知性の高めかたは読書であっていますか?

  • 歳いってできた女友達について

    最近ネットで知り合った30歳の女の子について、相談です。 明るく、とても気のつくよい子なんですが少し神経質なところがあり、人を試そうとするところがあります。 また、根がどうも嫉妬深い性格のようで、私が彼女の興味のない趣味に時間を使おうとすると、あからさまに不機嫌な態度になりますし、家族と少し喧嘩をしたりすると、なんだか嬉しそう(?)な感じです。 家庭も仕事もありますし、もう少しのんびりしたつきあいを私は考えているんですが、人づきあいもあり、なかなか思った通りにはいかなく…(^_^;) 以前も似たような感じの女の子と友達になりましたが、その子は読書とか嫌いな子で、それがきっかけで疎遠になりました。その子の場合は、本当に私となにもかも合わなくて、喧嘩になるのも傷つけるだけになりそうで嫌だったのですっきりしているのですが、今度の友達は、下らないことで疎遠になるのは辛いです。 また、なぜか彼女と友達になったことで、なんだか回りが過剰反応したらしく、今までの自分が関わってこなかった人々があれこれ言ってくるようになってしまい、困惑しています。 関係ない人も寄ってきちゃうみたいですし…。多分、彼女のプロフ写真が奇跡の一枚で美人さんに撮れちゃったからではないかと(他の写真も見せてもらいましたが、かわいいのですが美人さんというイメージではないです(^_^;) 近寄りがたい美人と友達になりたがるのは、何も男の人だけではないのですね。 で。 40過ぎのおばさんがこんな悩みをクドクド話すのも変なことで読んでいただいてる方には申し訳ないのですが、なんというか、彼女の少し癖のある感覚を適当にいなしつつ、外野の視線を遠ざけつつ長く仲良くおつきあいするにはどうしたらいいでしょうか。 私がこんな悩み方をしている時点で嫌われちゃうんだよ、とかいうご意見でも構わないです。 なんだかここんとこ、一人で考えすぎて疲れてきました。女友達のことなので主人に相談しても生返事ですし。 すみません、お願いします。

  • 偉人の思想について

    偉人の思想を学び影響を受けるということは、偉人が自分の心に住んでいるということになりますか?

  • 宗教について調べるのは、もうやめるべきか?

    要するに、中村元は間違っている、いうことでよろしいのでしょうか? それならそれでいいです。 振り返ってみると、時間の無駄でした。 書き込むたびにわけのわからない人々から攻撃されるのもうんざりです。 私には私の人生があります。 一円にもならない宗教の研究など人生を浪費するだけで無駄でした。 病院へ行ったら?とか、カウンセラーの世話になったほうがいい、とアドバイスされていますから、 宗教よりも、そちらの世話になろうかと思います。

  • 葛藤を捨てるには

    葛藤をふっきる方法、またはそれができたという方の経験談を教えてください。 たとえばAとBの選択で悩んでいる場合。どちらも自分にとってはよくないことだとします。 いずれかを選択すると、いずれかに依存している自分も捨てなければならない。 こういう状況におかれたとき、どのような思考や思想、方法論でAもBも捨てることができるのでしょうか?

  • 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。

     あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。  あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。  理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。  認識から実践へとすすむことを何故しないのか?  実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか?  《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか?  要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか?    ちょっと抽象的すぎますか?   ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。  在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。  起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか?  哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?

  • 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。

     あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。  あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。  理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。  認識から実践へとすすむことを何故しないのか?  実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか?  《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか?  要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか?    ちょっと抽象的すぎますか?   ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。  在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。  起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか?  哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?

  • 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。

     あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。  あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。  理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。  認識から実践へとすすむことを何故しないのか?  実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか?  《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか?  要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか?    ちょっと抽象的すぎますか?   ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。  在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。  起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか?  哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?

  • 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。

     あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。  あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。  理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。  認識から実践へとすすむことを何故しないのか?  実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか?  《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか?  要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか?    ちょっと抽象的すぎますか?   ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。  在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。  起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか?  哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?