kanto-i の回答履歴

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  • 心理学部について

    私は、心理学部に進学したいと思っています。 しかし、「心理学部に進学して就職ができるのか?」と周囲から反対されてしまいます。 そこでいくつか質問なのですが、私は、心理学部で、人の心の動きや自分の心を調べたりしたいと思っていますが、そのような理由で心理学部に進学しても良いのでしょうか。 また、私は、心理学部は人の心の動きや自分の心を知るような勉強をすると思っているのですが、心理学部では、そのような勉強をしますか? また、自分の努力次第だとは思うのですが、一般的に臨床心理士を仕事にしてやっていける人は、どれくらいなのでしょうか? 「仕事が少ない」や「2、3ヶ所の職場を掛け持ちすることになる」とどこで調べても書いてあるのですが、仕事が少ないのに、2、3ヶ所も職場をかけもとできるかなぁ・・・と不安になります。 たくさんの質問で、すいませんが、よろしくお願いします。

  • 心理学部について

    私は、心理学部に進学したいと思っています。 しかし、「心理学部に進学して就職ができるのか?」と周囲から反対されてしまいます。 そこでいくつか質問なのですが、私は、心理学部で、人の心の動きや自分の心を調べたりしたいと思っていますが、そのような理由で心理学部に進学しても良いのでしょうか。 また、私は、心理学部は人の心の動きや自分の心を知るような勉強をすると思っているのですが、心理学部では、そのような勉強をしますか? また、自分の努力次第だとは思うのですが、一般的に臨床心理士を仕事にしてやっていける人は、どれくらいなのでしょうか? 「仕事が少ない」や「2、3ヶ所の職場を掛け持ちすることになる」とどこで調べても書いてあるのですが、仕事が少ないのに、2、3ヶ所も職場をかけもとできるかなぁ・・・と不安になります。 たくさんの質問で、すいませんが、よろしくお願いします。

  • この世が存在する理由

    私は現在、細々とですが、平穏に生きることができております。 それはとても有難いことだと思っています。 しかし、この世のどこかには、苦しめられる人・動物がいて、とても悲しい思いをしているのだと思うと、自分が何かを楽しむということは考える気にはなれません。 世の中には、目の前の一人・一匹を助けることに尽力されている、立派な志を持った方もいらっしゃいます。目の前の一人・一匹を助けることには大変な労力が必要であり、それを実現することも、それに尽力することも、なかなかできることではないと思います。頭が下がる思いです。 一方で、助けられることもなく苦しめられて死んでゆく人・動物がどこかにはいる、と思うと、隕石が当たっ て地球丸ごと早く消滅してほしいと、本気で願ってしまいます。 この世に生きていることすら厭わしいです。 人は人以外の何かから搾取しないと生きていけないので、仕方ないことなのかもしれませんが、自分の体が、植物や動物から搾取しないと維持できない造りであることが罪深く感じられます。 一人ひとりにとっては、自分がこの世に存在する理由はそれぞれにきっとあるのでしょう。 天にとっては、この世を存在させる理由は何なのでしょうか。 (拙文ですみません)

  • 処女(性)とは何か? その価値は?

    処女の価値 すこし際どい話になるのですけれども、 処女・virginity、処女であることというのは、いかなる価値なのでしょうか? これは文化的なものなのか、 ではなく、 生物学的な要請―――たとえば、生まれてくる子供は、パートナー(男)の子供である確率が高い―――なのか? 古い時代のヨーロッパには、処女は忌まわしいものと考えられ、結婚前に聖職者や新郎の父親によって破瓜(はか)されてから、新婦さんは新郎と初夜を迎えるといった風習を持っていた地域が数多く存在しています。  ―――こうした風習がヨーロッパの封建領主の有した《初夜権》になったとする説があります。これについては諸説あるのですが…。ロシアでは、19世紀くらいまで、封建領主は初夜権を有していた。――― ヨーロッパには、処女は忌まわしい魔的な存在であるという考え方が中世まで残っておりまして、女性は処女のままで処刑されることはなく、処刑前に牢の門番などによって破瓜されてから処刑された。――映画『ジャンヌ・ダルク』にもこのシーンが出ていたはず。――― これについても異説がありまして、処女は誘惑に弱いのだから、処刑後、悪魔に誘惑されることなく天国へ行けるようにと、温情からそうしたのだとする考え方もありますが…。 ヨーロッパで処女や処女性を重視するようになったのは、キリスト教の影響(・・? また、 どこかは忘れたのですが、古代オリエント社会の何処かに、 処女は結婚できないとされ、 非処女であることが結婚できるための必要条件であった地域があったらしいんですよ。 これが古代オリエント社会にあった《聖婚》と関係しているのかどうかは記憶が定かでないのでハッキリしたことはいえないのですが、 ちょっと売春的なことをさせられていたらしいんですよね。   ―――これは女性の(宗教的な)義務、社会的奉仕だったたらしい――― で、買い手が付かないと、その女性は結婚できないと…。 性に対して極めておおらかな日本では、そもそも処女性などは問題にはならないし…。 藤原鎌足は、天智天皇のお妃(采女)の一人である安見児(やすみこ)を下賜され、   われはもや 安見児得たり     皆人の 得難にすとふ 安見児得たり 「オレは 安見児を 天皇からもらったもんね。スゲェ~だろう、羨ましいだろう」という喜びの歌を読んでいるほど。  ―――この時、既に、安見児さんのお腹の中には赤ちゃんがいたらしく、これが藤原氏に繋がる藤原不比等だとか、そうではないとか…――― 平清盛も、どうやら、これと同じパターンらしい。 これは、古代日本の結婚のスタイルがいわゆる《妻問い婚》で、父親の財産は男子ではなく女子が受け継ぐからなのかもしれませんが…。 江戸時代は、女性の再婚は当たり前のことでしたし―――大都会・江戸の町は、人口比における女性の割合が低く、慢性的なお嫁さん不足状態であった―――、川柳などを見ると、未婚女性も、結構、性の悦びを謳歌していたらしい。 女性や男に性的な潔癖を求めるようになったのは明治以降のことで、 ヨーロッパの列強に日本が近代国家であることを印象付ける上での政策であった、とする説もあるようで、 現代の日本は性(道徳)が乱れているといわれますが、 実は元の状態に戻っただけなのかもしれない。 お隣の韓国では、嫁入り前に親族などが嫁入りの娘を妊娠させ、妊娠可能であることを証明してから、そのお腹の子供ともども嫁がせるという《試し腹》という風習がありましたし、 処女であることや童貞であることの価値や美徳とは、如何なるものなのか、 さっぱり分からないんですよ。 ジャイナ教のように極めて厳格な禁欲主義でことさら性的潔癖さを重視するというのならば分からないでもないのですが、 何故、性的潔癖さを重視するのでしょうか? 特に女性に対してですが…。 ユダヤ・キリスト教的な話との関わりあいでいいますと、 ユダヤ人の条件は、  1 ユダヤ教を信仰する者  2 母親がユダヤ人であること のうちのいずれかであって、 父系社会だから女性の性的潔癖さや処女性を求めるというような単純な構図は成立しないようなんですよね。 かなりキワドイ内容なのですが、 皆様のお考えを教えてくださいませ<m(__)m> 様々な角度、視点からの回答をヨロシクお願いします<m(__)m>

  • 直交という概念について

      数学の概念に直交というものがあります。 その意味するところは、完全に次元が異なるもの同士であるということ、求めるものが根本的に異なるということ、全く異質な価値観に支配されているということらしい。 例えばのはなし男と女、既成宗教と人の道、富の探求と真理の探求、野球と水泳、時間と空間、・・・などなどは互いに直交するのである。 逆行するもの同士であればまだ共通点が見いだせるが、直交しているもの同士は一切の共通点が見いだせない。そのような状態を意味するのである。 しかも面白いのはわざわざそのような直交するもの同士を選び出し、一切の共通点をもたないものによって世界を作るほうが数学的には正しいってゆう結論らしいのである。 この直交ってゆう考えは哲学的にも一理あるのでしょうか。  

  • 直交という概念について

      数学の概念に直交というものがあります。 その意味するところは、完全に次元が異なるもの同士であるということ、求めるものが根本的に異なるということ、全く異質な価値観に支配されているということらしい。 例えばのはなし男と女、既成宗教と人の道、富の探求と真理の探求、野球と水泳、時間と空間、・・・などなどは互いに直交するのである。 逆行するもの同士であればまだ共通点が見いだせるが、直交しているもの同士は一切の共通点が見いだせない。そのような状態を意味するのである。 しかも面白いのはわざわざそのような直交するもの同士を選び出し、一切の共通点をもたないものによって世界を作るほうが数学的には正しいってゆう結論らしいのである。 この直交ってゆう考えは哲学的にも一理あるのでしょうか。  

  • 理解と受容

    今まで幾人かの方々と、此処で会話をさせて頂いて来ました。 其のうちの何人かは、自己を自身で未だに捉え切れていない言動が目立ちます。 「守・破・離」 折角、先人が残してくれた物を活用しないのは勿体無いです。 斯く言う私も幼い頃は迷走していましたから、偉そうには言えませんがw 事実を理解では無く、正面から受け止める。 此れだけでも、結構キツイ修行です。 人は直ぐに「理解」したがりますから。 理解は自分の中に、「外」を取り込む行為です。 「外」にあるモノは「外」のモノです。 また、「他」から見た自己は、見たモノにとっての「外」です。 自己の「理解」を外に広げても、他の「理解」とは交わりません。 理解は解釈や分析と呼んでも良いでしょう。

  • 個々に強いが総合(組織)力で負ける日本の原因とは?

    カテ違いでしたらご指摘下さい。 個々の力(技術・開発・創意工夫など指す)は素晴らしいのですが、 なぜか総合で勝ったとは言えないことが多々あります。 原因はなんでしょうか? 私なりの想像では、 1.日本人がシャイで人前で物事をはっきり言えないから。 2.日本人が間違いは訂正・反省するが、正しいことや偉業は(鼻が高く喜びはするが)誇らない性質だから。 3.個々=個人の努力はすごいが、それを扱う国や政府に勘違いした官僚が物事を動かしているから。 4.海外、特にアメリカやロシア、中国などの大国から石油を止められたりするなどの意地悪を受けないため。 5.世界平和、アジア(とりわけ発展途上国)の発展と平和の為に目立つこと(アピールとか)をしない方が良いと考えているため。 6.etc. と、いろいろありますが、どうして日本は総合・組織力で負けることが多いのでしょうか? とりあえず、2020年東京オリンピックは誘致成功と言えますが、日本に投票してくれた人の協力を取り付けたことも大きな要因ではありますが、他にも簡単にその理由と推測できることがたくさんあります。 しかし、世界で経済や活動などをして負けるようなことが多かったように思うのですが、 何が原因なのでしょうか?

  • IQが高い人の行動様式?

    敢えてこのカテで質問させていただきます。 皆さんはどのように考えられているのでしょうか? 私は高齢者で随分色々な人を見てきたつもりなんですが、頭の良い人、IQの高い人、商売で成功する人、会社内で昇進階段を上り詰める人、官僚としてトップになる人、知的・芸術世界で名を成す人、等それらに、どういう相関関係があるのか考えております。 というのは、私の周囲に卑近な例がいっぱいあるからなんです。 実は私はIQは相当平均より高いのですが(東大、京大に軽く入れる程度です)、現実社会では落ちぶれた生活を送っております。そして私と気の合う数人の人も、かなり頭は良いはずなのに社会的成功とは程遠い生活をしております。 私の肉親の一人は大阪で偏差値トップの高校から京都大学法学部に現役入学、その後丸紅に入社。エリート街道まっしぐらの感じだったのですが、突然退社してある新興宗教団体に入り、今はその宗教団体の幹部になっております。彼の受験勉強時代に彼の勉強部屋をのぞいたことがあるのですが、受験参考書以外にはジャンプの漫画しか並んでいなかったので、びっくりしました。 高校時代、私より相当成績の低かった男が、ある県立医大の院長をしております。 ある進学高校に入った男は官僚として出世し、最高裁の判事になって、悪徳判事の一人になっています。 現実社会で成功する要因は勿論色々あるし、私が何故成功しなかったのかは、分かっているつもりです。 学校での偏差値は、勿論、IQには正比例していないし、IQが高い人が高い道徳観を持っているとは限らないとも思います。 天才は総じてIQが高いようですが、ラファエロのように120の天才もいます。アインシュタインやゲーテは180もあったようです。 IQ、偏差値、社会的成功、等々にはどのような関係があると思われますか? アメリカ社会はユダヤ人が牛耳っているようですが、ユダヤ人が世界人口に占める割合は僅少なのに、知的世界での成功者の割合はダントツで高いようです。ユダヤ人の平均IQも一般白人より若干高かったと思います。やはり、この社会はIQの高いものが牛耳っているのでしょうか? 日本社会を見渡すとそうでもないような気がします。IQはそこそこあるが、それよりも、以上に権力欲、金銭欲、名誉欲の強くて、道徳観のない日本人が日本社会を牛耳っているように見えます。少なくとも現在の日本は・・・ 質問が散乱してしまいました。どの部分でも結構です。貴方が観て来て、私の質問に反応した部分を回答していただければ結構です。 宜しくお願いします。

  • 哲学の本

    私は同年代の人間よりも物事を考えていると 思いますが、 それは自分から見た事であって 他人の心は覗けないので、私が本当に同世代より 思慮深いとは言えません。 他人から見えるAと自分から見るAは全く違うはずで、 それを自分が美しいと言い 他人は汚いと言うことは当たり前のはずです。 それを理解している人は少なくとも私の周りには多くないと思います。 しかし繰り返しますが、それは私が主観で見ている物事であって 本当にそうなのかは知る事ができません。 仮に話してもらったところで、 私とその人の「価値観」や「考えの深さの度合い」を 測ろうにも基準にするものが無いので、 結局知る事は出来ないと思うのです。 また昔からこういった事を考えていたのですが、 それは若さ故だと思っていました。 しかし18歳になってしまったので、 いつまでも青い考えとは言えません。 むしろこれを若いからこの様な事を考えるのだ。 と言われてしまえば、 私はいつまでも幼稚な考えを持ち続けるということになってしまいます。 幼稚な質問なのは分かっていますが、 なにか私を納得させてくれる もしくは正してくれる本などはないでしょうか?

  • 理解と受容

    今まで幾人かの方々と、此処で会話をさせて頂いて来ました。 其のうちの何人かは、自己を自身で未だに捉え切れていない言動が目立ちます。 「守・破・離」 折角、先人が残してくれた物を活用しないのは勿体無いです。 斯く言う私も幼い頃は迷走していましたから、偉そうには言えませんがw 事実を理解では無く、正面から受け止める。 此れだけでも、結構キツイ修行です。 人は直ぐに「理解」したがりますから。 理解は自分の中に、「外」を取り込む行為です。 「外」にあるモノは「外」のモノです。 また、「他」から見た自己は、見たモノにとっての「外」です。 自己の「理解」を外に広げても、他の「理解」とは交わりません。 理解は解釈や分析と呼んでも良いでしょう。

  • いかに生きるべきか

     小林秀雄の「学生との対話」で、    >小林が終生のテーマとしたのは、人生、いかに生きるべきか、でした。<   と、あります。自分もそういうテーマを、持ち続けたいと思うのですが、今日のNHKの仕事ハッケン伝夏SPで、デパ地下の指導者が、初体験の芸人さんに要求したのは、売れるお弁当の企画でした。  やはり、仕事、特に第3次産業主体の昨今の会社は、いかに売れるものを企画できるかが重要な気がしました。  人生、いかに生きるべきかを追求することは、そういう会社で働いて、会社や社会に貢献することとは、まるで無関係なことなんでしょうか。あるいは逆に、いかに多くの人に売れるものを作れるかを考えることこそ、いかに生きるべきかに通じるのでしょうか?

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 次の言葉の意味を教えてくれませんか。

    「生まれざらんこそこよなけれ、生まれたらんには生まれし方へ急ぎ帰るこそ願わしけれ」 この言葉の意味がどういうことかわかりません。わかりやすく解釈して下さいませんか。お願いします。

  • 理解と受容

    今まで幾人かの方々と、此処で会話をさせて頂いて来ました。 其のうちの何人かは、自己を自身で未だに捉え切れていない言動が目立ちます。 「守・破・離」 折角、先人が残してくれた物を活用しないのは勿体無いです。 斯く言う私も幼い頃は迷走していましたから、偉そうには言えませんがw 事実を理解では無く、正面から受け止める。 此れだけでも、結構キツイ修行です。 人は直ぐに「理解」したがりますから。 理解は自分の中に、「外」を取り込む行為です。 「外」にあるモノは「外」のモノです。 また、「他」から見た自己は、見たモノにとっての「外」です。 自己の「理解」を外に広げても、他の「理解」とは交わりません。 理解は解釈や分析と呼んでも良いでしょう。

  • 理解と受容

    今まで幾人かの方々と、此処で会話をさせて頂いて来ました。 其のうちの何人かは、自己を自身で未だに捉え切れていない言動が目立ちます。 「守・破・離」 折角、先人が残してくれた物を活用しないのは勿体無いです。 斯く言う私も幼い頃は迷走していましたから、偉そうには言えませんがw 事実を理解では無く、正面から受け止める。 此れだけでも、結構キツイ修行です。 人は直ぐに「理解」したがりますから。 理解は自分の中に、「外」を取り込む行為です。 「外」にあるモノは「外」のモノです。 また、「他」から見た自己は、見たモノにとっての「外」です。 自己の「理解」を外に広げても、他の「理解」とは交わりません。 理解は解釈や分析と呼んでも良いでしょう。

  • カント 純粋理性批判 カテゴリー表を獲得する意味 

    初めまして、純粋理性批判冒頭について質問させていただきます。 超越論的論理学において、カントが判断表ではなくわざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味について把握しかねています。 私の今の考えでは、 判断表とカテゴリー表によって表されている悟性の統一機能はどちらも同じものであるものの、判断表においては、それは既に獲得された概念と概念とを結合するものとして考えられているため、どちらかと言えば一般純粋論理学に属する。 一方でその統一機能を、直観における表象間の結合に即して考えた場合、それは対象とのかかわりを持つために、超越論的論理学に属する。 したがって、超越論的論理学についての議論においては、悟性の統一機能の場を、概念間から直観における表象間へと”次元の繰り下げ”をしなくてはならなかった。 ということが理由なのかなと思っています。 とはいえ、なぜ表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は、対象とかかわりあうようになるのか、などという点で全く疑問が解消されません。 どなたか、純粋理性批判のこの箇所について、理解のための助言をいただけませんか? お願いします!!

  • 同害報復法の論理について

    こんにちは。哲学も論理も学んでいない、だけど一度悩むと抜け出せなくなってしまう高校生が質問させて頂きます。(そもそもカテゴリーがこれで正しいかどうかも自信がありません) ハンムラビ法典の、言わずと知れた諺、目には目を、歯には歯を、ってありますよね。 あれは天秤が釣り合うように、やられたことはやられた分しか仕返しをしてはいけないという意味ですが、では、例えば腕をもがれたならば、相手の腕をもぎかえしてもいい、ということになりますよね。でも、現代の人々はそう言えば、間違いなく批判されますよね。 わたしもそれを実行したひとがいれば、きっと非難とまではいかずとも、止めようとするのではないか思います。 だからといって、復讐が間違っているのかと聞かれれば、自信を持ってイエスともいえません。だって、殴られたからといってずっと殴られっぱなしなのは、明らかにおかしいですから。 つきつめて考えれば考えるほど、同害報復論が正しいのか誤りなのか、その判断を下す事すらできません。 そこで、みなさまのお答えと、その根拠を誰か教えて頂きたいです。 復讐は時間の無駄、などの意見も正しいとはわかっているのですが、そうではなく、白なら白、黒ならば黒と、はっきりどちらの立場をとってお答えいただければ嬉しいです。

  • 哲学で使われる言葉

    最近この哲学カテゴリにきて感じた疑問です… 言葉をわざわざ難しくするのが哲学なのでしょうか? それとも難しい言葉や表現を使わなくても話し合ったり議論しつくしたり、そこでの結果を求めることが目的なのでしょうか? このことを検索をしていましたら、難しい言葉を多用する人の心理には、「知性化」が働いている、という記事を見つけました。 難解な言葉を多用する人は、実は「知性化」が働いている。この知性化というのは「逃げたい」「バカにされることを恐れている。とのことでした。 また難解な言葉で述べる人は頭が悪いそうです。 哲学書を開くと難解な言葉ばかりですので、哲学者の方々は「知性化」されているということになります。これも哲学者の動機なのでしょうか… このカテゴリでは短文また長文で明確な表現をする人、短文また長文でややこしい言葉を多用する人に分かれていると思いました。 哲学で使われる言語表現はどうあるべきでしょうか?