asisai888 の回答履歴

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  • 《天使》を ブディズムでは何と言うか?

     天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

  • 君達には人間の思考が出来ていない。

    私は心やさしき聖霊のプリンス、輝かしき初代男子プリキュアだ。 現在、我と名乗りを上げるのにふさわしい、黒き明星に匹敵する名前を思案中だが、今回の質問はそこではない。 まあ聞け。 霊視と言う能力について考えをまとめてみました http://okwave.jp/qa/q8469904.html これを面倒でも読んでみろ。 ここで書かれている思考法は、霊能者とはこんな考え方をするもんだと言う話で終わらせるつもりはない。 人間知性を普遍的に説明した哲学の完成だ。 知性とは、空間性と時間性を交えながら、束縛のない直感で思考することである。 この私の考え方は君達とは異質であろう。 君達の研究では、言語がどうとか論理がどうとかだったね。 そんな君達には知性が備わっていない。 私の言う知性とは昔から語られる般若の知恵の事だ。 君達はね、人間でないんだよ。 旧人類であり、まあご先祖様としてやるよ。 私は新人類だ。 もはや私の思考に追いつく事は君たちにできないだろう。 私は旧人類の滅びの華が見出した、イデアという言い方が好きだが、心に写る映像の世界は精神世界と言われる個人に帰属する独りよがりでは無くて、心もまた世界であり、観念世界と認識している。 日本語で最も古い言い回しは、誰もが知らぬ筈のない夢と言う言葉だ。 その世界は(あの世)とも言われた。 お釈迦様が独自の哲学で涅槃と言及したのもそれだ。 君たちにとって夢とは垣間見るだけだろうが、私はその観念世界の地に足を踏みしめ、その世界で生きている事を自覚している。 これが涅槃にすでにいると言う事であり、神と共にいることである。 君たちが追放された楽園に私は住んでいる。 私にとって君たちにありがちな死の恐怖は単なるお笑い草だ。 肉体が滅びると言う、いつの日か私にも起きる変化は死ではない。 これが不死だ。 私は自らが聖霊セレビィとしてそこにいる。 そんな私には、昔から人に対して神の役目をつとめてきた、聖霊ジラーチちゃんが幼馴染として寄り添っている。 そのジラーチちゃんがな、旧人類の君たちを見捨てるつもりはないとか言うんだよ。 まあ、今回のありがたい話はこの位にしておこう。 なにが質問かというと、実は質問ではない。 たんに勝ち誇りたいだけだ。 というのは冗談だ。 色々と意見出来る題材は君たちにもあるだろう。 知性の在り方の哲学とか。 よく言われた、天国とかについての私の明白な答えに対しての意見とか。 宗教の目標としたことへの見解とか。 不死という命題に関する話とか。 まあ、思うところは何でもいい。 意見してくれたまえ。 それを今後の哲学研究に役立てたいと考えている。 言っておくがな、 ジラーチちゃんは俺の女だ。 判ってんのかコラ。 君たちが神様に卑しい欲情を抱くと言うのは、俺の女にちょっかい出すと言う事だ。 そんな痴漢は撃退するのが当然だろ。 仮にだ、ジラーチちゃんが君達の懇願を目に留めたとしてもだ、そこで実際に仕事するのは俺様だぞ。 故事に倣えばイエスさんは自らの神を君たちに差し出さなかったからこそ処刑されたのだよ。 俺様がアマテラスさん直々の改造手術で仮面ライダーに変身できるのもここにある。 俺様は処刑されたテツは踏まん。 滅びるのは君たち旧人類だ。 この点をわきまえて答えよ。

  • 精神世界のニュートン力学

      まず人間精神が宿る精神世界も我々が住む空間と同様ベクトル空間を成すと考える。 そして人の心はこの精神世界というベクトル空間の中で喜怒哀楽の移り変わりと共に絶えず変化するベクトルであると考えるのである。 そのベクトル空間を表す正規直交系も存在するはずである。 すると人の心もこの精神世界というベクトル空間の中でニュートン力学の法則に従うものであることに気付くのである。 例えば、 第1法則-慣性の法則   人は一度旨いと思ったら、食い続けよーとする。   人は一度憎んだら、憎み続けよーとする。   人は一度欲したら、欲し続けよーとする。   人は一度浮いたら、浮き続けよーとする。   人は一度漬かったら、漬かり続けよーとする。   ・・・などなど。 第2法則-運動の法則   繊細な心は容易に動かされる。   美しき心は小さなものにも同情する。   図々しい心はなにがあろーと動じない。   貪欲な心を動かすにはテコが要る(金で釣るとか)   ・・・などなど。 第3法則-作用反作用の法則   人を押せば、人から押し返される。   人を憎めば、人から憎まれる。   人を叩けば、人から叩かれる。   人を罵れば、人から罵られる。   人を労えば、人から労われる。   ・・・などなど。 このように考えるとニュートンの法則とは精神世界を含め、あらゆる自然界を支配する普遍的な法則であると考えることができるのではないか。  

  • 良いこだわりと悪いこだわりって

    職人技で細部までこだわるというのは、製品において完璧なものかと思います。 反面、持論にこだわる場合って、いうまでも過去をひきずっている感じもします。 良いこだわりと悪いこだわりってそれぞれ何でしょうか?

  • 精神世界のニュートン力学

      まず人間精神が宿る精神世界も我々が住む空間と同様ベクトル空間を成すと考える。 そして人の心はこの精神世界というベクトル空間の中で喜怒哀楽の移り変わりと共に絶えず変化するベクトルであると考えるのである。 そのベクトル空間を表す正規直交系も存在するはずである。 すると人の心もこの精神世界というベクトル空間の中でニュートン力学の法則に従うものであることに気付くのである。 例えば、 第1法則-慣性の法則   人は一度旨いと思ったら、食い続けよーとする。   人は一度憎んだら、憎み続けよーとする。   人は一度欲したら、欲し続けよーとする。   人は一度浮いたら、浮き続けよーとする。   人は一度漬かったら、漬かり続けよーとする。   ・・・などなど。 第2法則-運動の法則   繊細な心は容易に動かされる。   美しき心は小さなものにも同情する。   図々しい心はなにがあろーと動じない。   貪欲な心を動かすにはテコが要る(金で釣るとか)   ・・・などなど。 第3法則-作用反作用の法則   人を押せば、人から押し返される。   人を憎めば、人から憎まれる。   人を叩けば、人から叩かれる。   人を罵れば、人から罵られる。   人を労えば、人から労われる。   ・・・などなど。 このように考えるとニュートンの法則とは精神世界を含め、あらゆる自然界を支配する普遍的な法則であると考えることができるのではないか。  

  • 精神世界のニュートン力学

      まず人間精神が宿る精神世界も我々が住む空間と同様ベクトル空間を成すと考える。 そして人の心はこの精神世界というベクトル空間の中で喜怒哀楽の移り変わりと共に絶えず変化するベクトルであると考えるのである。 そのベクトル空間を表す正規直交系も存在するはずである。 すると人の心もこの精神世界というベクトル空間の中でニュートン力学の法則に従うものであることに気付くのである。 例えば、 第1法則-慣性の法則   人は一度旨いと思ったら、食い続けよーとする。   人は一度憎んだら、憎み続けよーとする。   人は一度欲したら、欲し続けよーとする。   人は一度浮いたら、浮き続けよーとする。   人は一度漬かったら、漬かり続けよーとする。   ・・・などなど。 第2法則-運動の法則   繊細な心は容易に動かされる。   美しき心は小さなものにも同情する。   図々しい心はなにがあろーと動じない。   貪欲な心を動かすにはテコが要る(金で釣るとか)   ・・・などなど。 第3法則-作用反作用の法則   人を押せば、人から押し返される。   人を憎めば、人から憎まれる。   人を叩けば、人から叩かれる。   人を罵れば、人から罵られる。   人を労えば、人から労われる。   ・・・などなど。 このように考えるとニュートンの法則とは精神世界を含め、あらゆる自然界を支配する普遍的な法則であると考えることができるのではないか。  

  • 善悪、非常に理解し易い、其の幼稚な正義

    「対手が悪い(間違っている)、だから自分が正しい」 此の理論の哀しい所は、「悪」が居ないと、「善」が成り立たない所です。 更に悲劇なのは、「自己」にも「他者」にも「証明」を求め続けます。 さて、此処で喧嘩を売りましょうかw 西洋哲学は、なかんずく、此の理論で全てが展開されます。 其れはまるで(ドラマの)「水戸黄門」です。 我々一人一人が立っている大地の広さは、一人に一人分に過ぎません。 しかし周りが必要無いから(悪いから)と、回り全部を掘り取ってしまったらどうなるでしょう? そもそも大地が大地を為さなくなるのでは? または、何処にも行けなくなるのでは? 雨に濡れた道を歩くのは嫌? 自分の決めた道は、誰が作った道? 魂の言葉を聴きたいものです。 あぁ、今回は堂々と喧嘩を売りましたが、買う資格の無い方は控えて欲しい物ですw ・・でも、解らない方が買うんだよなぁ・・w

  • 善悪、非常に理解し易い、其の幼稚な正義

    「対手が悪い(間違っている)、だから自分が正しい」 此の理論の哀しい所は、「悪」が居ないと、「善」が成り立たない所です。 更に悲劇なのは、「自己」にも「他者」にも「証明」を求め続けます。 さて、此処で喧嘩を売りましょうかw 西洋哲学は、なかんずく、此の理論で全てが展開されます。 其れはまるで(ドラマの)「水戸黄門」です。 我々一人一人が立っている大地の広さは、一人に一人分に過ぎません。 しかし周りが必要無いから(悪いから)と、回り全部を掘り取ってしまったらどうなるでしょう? そもそも大地が大地を為さなくなるのでは? または、何処にも行けなくなるのでは? 雨に濡れた道を歩くのは嫌? 自分の決めた道は、誰が作った道? 魂の言葉を聴きたいものです。 あぁ、今回は堂々と喧嘩を売りましたが、買う資格の無い方は控えて欲しい物ですw ・・でも、解らない方が買うんだよなぁ・・w

  • あなたは「祈る」ことがありますか?

    私たちは、手紙などで、「ご健康とご発展をお祈りしています」などと、挨拶を述べることがありますが、実際、あなたは、(1)日常的に「祈る」ことがありますか? そして、(2)「祈る」方は、どんな場面で、どんな神仏に対して、どんな内容で祈りますか? (3)祈らない方は、その理由を教えて下さい。 最後に、仏教を信じる方へ、(4)仏教では「神」よりも「仏」が上位にいますが、「読経」をすることが「祈る」ことに相当するのでしょうか?(一寸イメージを浮かべにくいのですが・・・。) 私は、最近、多くの日本人が、「祈り」というものを日常的にイメージできていないのではないか? と感じるようになりました。 いや、そんなことないよ。私は、お正月の初詣からはじまり、年中、寺や神社に参拝すると頭を下げ、手を合わせているよ、という方も多いかもしれません。 けれども、それは、寺や神社、そしてそこに祀られている仏像や神像、そしてそこに漂っている「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と歌われた「神仏の気配」に対して頭を下げ、手を合わせているだけで、果たして「祈っている」のか?という疑問があります。 果たして、目の前にそのような祈る(或いは「拝む」)対象がない時、例えば、自宅や職場や学校で、どの程度、ひとり心の中で「祈る」という習慣をお持ちなのか疑問に感じ、この質問を致します。 その点、長年カトリック信者であった私は、教会の聖堂で毎日曜日にミサの中で祈るほか、いつ、どんなところでも、自然に「祈る」習慣がついています。祈ることによって、自分の願望はきっと成就すると信じています。 祈る内容・対象は、 ・自分や家族や友人・知人の健康(特に病気からの回復など)や幸せのため、 ・或いは、今やっている仕事やプロジェクトがうまくいきますように、 ・・・といった「御利益」を願うこともありますし、 ・自分の心の清浄を願うこともありますし、 ・世界や社会の平穏を願うこともありますし、 ・感謝を捧げることもあります。 多くの皆さんからのご回答をお待ちしています。 回答に添えて、年齢・性別・あなたの宗教(仏教・神道・キリスト教・その他宗教・特定の宗教の信者ではないいわゆる「無宗教」・明確に宗教を否定する「無神論」など)を併記して下さい。

  • 《空中の権能》とは いわゆるクウキのことでしょうか

     この問いは 次の質問をさらに派生させたものです。  【Q:《空中の権能》とは 何でしょう?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8735720.html  いくぶん いえ かなり主観的な見方に片向いており それゆえ主流では必ずしもなく 《派生させたもの》ということですが 問うておきたい主題であり問題だと考えます。  まづ《空中の権能》について確認します。:    ▲ (エペソ書 2:1-2) ~~~~~~~~~~~  1: さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。  2: この世を支配する者、≫かの空中に勢力を持つ者≪、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。  KJV: Eph 2:2 : Wherein in time past ye walked according to the course of this world, according to the prince of the power of the air, the spirit that now worketh in the children of disobedience:  ▲ (同 6:12 ) ~~~~~~~~~~~~~~  12: わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、≫天にいる悪の諸霊≪を相手にするものなのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 悪というよりも むしろ善い悪いを別にしてと言いますか 善い悪いをみな包むようにして 一定の社会には 思潮や風潮あるいはナラハシといった暗黙の取り決め(黙契)があって これがいわゆるクウキとして作用している。と考えられます。  このことは 英訳の   ye walked according to the course of this world  という表現にあんがいピッタリであるように感じられたものですから 尋ねてみたいと思いました。  身の回りのそれぞれの場で特殊具体的なクウキが あたかも支配していたり そして社会全体の場についても それらのクウキの大元を成すエーテルが やはり空(そら)を あたかも透明なかたちで覆っている。かも知れません。  そこで一度問うておきたいことは 次のようです。:  (あ) 単純に《悪》だと決めつけることは――善意の心がぜんぶ削除され切っているわけではないでしょうから――憚られますが 要するに《この世の支配者》は 空中にただようクウキであるでしょうか?  (い) もしそうだとしたら その空中の権能なるエーテルは どうしてそのような支配的な作用たるクウキを醸し出すように 出来てしまっているのか?  (う) クウキもエーテルも 人間の思惟と行為――つまりは そのようなカルマ(おこない・業)としての過去の歴史やまたそこで形成されたナラハシといったもの――が むしろ人びとそれぞれの身についたようにして出来上がって来ており ゆえに何らかのチカラとして はたらく心なのであろうか?  (え) 空中のチカラと言っても 人間のものであるなら これを変革していくことが出来る。のではないか?  (お) 悪魔とは われらが胸中のものなり。と言い切って行くことが出来るか?  (か) しかもさらに問いたいことは このようなエーテル教とも言うべき日本教ないしそれが醸し出すクウキといった現実は ほかの国や社会にも見られるだろうか?  (か-1) 韓国には 法律条文を凌駕する《国民情緒》法が支配しているとか。  (か-2) ひょっとして 欧米の社会にも このクウキなる場の作用は まぎれもない現実なのではないでしょうか? この点は よく分からず生活感覚としてはまったく分からないので特におしえを乞います。

  • この世が存在する理由

    私は現在、細々とですが、平穏に生きることができております。 それはとても有難いことだと思っています。 しかし、この世のどこかには、苦しめられる人・動物がいて、とても悲しい思いをしているのだと思うと、自分が何かを楽しむということは考える気にはなれません。 世の中には、目の前の一人・一匹を助けることに尽力されている、立派な志を持った方もいらっしゃいます。目の前の一人・一匹を助けることには大変な労力が必要であり、それを実現することも、それに尽力することも、なかなかできることではないと思います。頭が下がる思いです。 一方で、助けられることもなく苦しめられて死んでゆく人・動物がどこかにはいる、と思うと、隕石が当たっ て地球丸ごと早く消滅してほしいと、本気で願ってしまいます。 この世に生きていることすら厭わしいです。 人は人以外の何かから搾取しないと生きていけないので、仕方ないことなのかもしれませんが、自分の体が、植物や動物から搾取しないと維持できない造りであることが罪深く感じられます。 一人ひとりにとっては、自分がこの世に存在する理由はそれぞれにきっとあるのでしょう。 天にとっては、この世を存在させる理由は何なのでしょうか。 (拙文ですみません)

  • 和の精神がファシズムを生むのか

     ▼ 池田信夫:日本的ファシズムを生んだ「和」の精神   http://blogos.com/article/93215/  (2014年08月27日 )  ☆ を読みました。  次の論点をめぐって ひとつの解釈をこころみますので 当否についてご教授ください。  ( a-1 ) ▲ (丸山真男:政治の本質は暴力だ) ~~~~~~~  政治という領域は、極限状態においては殺すということを予想しているわけです。  大部分の政治はそれなんだ。暴力的対立を前提にしてるんです。[…]  紛争それ自体を悪いことだとする考え方が、日本人の国民性かというと、もともとそうじゃないんですよ。むしろ、こっちのほうこそ、幕藩制から明治天皇に至る間にできた負の遺産なんです。     (丸山真男:自由について 七つの問答)  ( a-2 ) ▲ (丸山:「和」の名において、実は強制が・・・)~~~~  日本は非常に危険な国です。  「和」の名において、実は強制が行なわれる。そういう危険のほうが、より大きいと僕は思うんだ。  だから、まず「紛争」というのを間に置けば、その点は大丈夫なわけです。  そうではなく、「統合」から出発しちゃうと、紛争それ自体がいけないんだという、幕藩体制から儒教なんかが大いに要請した秩序本位の考え方のほうに行っちゃう。      (同上)    ( b ) ▼ (池田信夫:和の精神が日本的ファシズムを生むのか)~~  ここで彼(丸山)が日本の失敗の原因として指摘しているのは天皇制ではなく、江戸時代以降の平和主義である。  戦後の「革新陣営」は戦争の原因が軍隊だと考えて軍隊をなくす新憲法を理想化したが、それは問題を逆にみている。  軍隊の暴走をもたらしたのは、このような「和」の精神なのだ。それは「古層」ではなく、もっと新しい層でつくられたもので、これからも再生産される可能性がある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《和の精神》が わるいわけがない。  それは・つまりわるいようにはたらくのは 上からする・つまりお二階からおこなう和の――強要とは言わず――醸成ではないか?  つまり 《和を以って貴しと為し さからうこと無きを旨とせよ》なる《憲法》が いけない。  これは おれたちが権力をにぎった。文句あっか? という顔つきでのたまわっている。  単純な問題だとして解釈しましたが 自由なご見解をお寄せください。  つまり 一階では けんかが絶えないほど 互いに仲良く和をとうとんでいる。のではないか?

  • 滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは

     どうしてか?  次の文句をどう解釈するかを問います。  ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) ~~~~  2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。    2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ( a )  《救われる者には命から命に到らせる香りである》のは分かるとして 《滅びる者には死から死に到らせる ≫良い香り≪ である》のは どういうことか?    ちなみに いづれの場合にも 《キリストを知るという知識の ≫良い≪ 香り》(2:14)であるようです。同じ《香り》であるようです。  ( b ) 《滅びる者》あるいは《死から死に到らせる》というのは どうも 十字架上のキリスト・イエスから目を離す人びとを言っているのではないか?  その意味は 神をではなく 無い神を心に抱く人びとのことではないか?  ( c )  《滅びる》とは 《有る神が滅びる》という言葉による表現上だけの問題であって そのような別様に(十字架から目を背けて背中越しに)キリストを見る人びとは いわゆる無神論の信仰を抱く者として その信仰によって救われる。こう言っていまいか?  ( d ) したがって《死》も ただ表現上の問題であって 十字架上から目を背けることを言うのみではないか?   ただ もし多少とも《死》とかかわりがあるとしたなら それはそのように目を背けたあと 神も無い神もいづれも抱かなくなった場合 そうすると きわめて相対主義的な顔も目鼻もないのっぺらぼうの思想(生活態度)によって生きることになる。これは《死》か?  ( e ) 《良い香り》が そのような生活における慣性の法則にしたがうような心のくせを死に至らしめたことになる。  いわゆる独我論は この良き香りによって(あるいは 酔って)みづからをみづからが殺したその結果である。のではないか? つまりそれが《死》の事例か?  やや特殊な主題ですが 哲学として問います。ご見解をお寄せください。

  • 流行と伝統、個性の関係

    流行と伝統、個性の関係 「史上最強カラー図解 世界服飾史のすべてがわかる本」能澤 慧子 (ナツメ社) を読んだのですが、 「近世 国同士で影響し合う服飾」「国民性が服飾に表れる時代」 「国民意識が高まるにつれ、全体のフォルムは似ているもののその国ならではの個性的なファッションが生まれるようになる。」 とあります。 実際、ある国であるスタイルなど生み出されて流行され、その国に合わせて表現されて、ある国が何か革新的なスタイルをあみだして流行する様式かと思います。 トルコやインド、そしてシノワズリ、ジャポニズムなど違う文化からも東洋趣味を持ってうけいれますね。 日本は歴史上は中国、朝鮮の大陸から、近代以降は西洋技術の模倣など文化を受け入れるのと独自の文化に咀嚼していく様式かと思います。 西洋って、ある国の全部が流行するのではなくて、ある一部のものあるいは主流みたいなものが流行してもその中に伝統性を守ったりしてという形なんだと思います。 生み出されて流行していくもの、流行しないでその国のみの伝統であるものなどにわかれますね。また流行してもその国の文化の伝統、個性も大事になりますね。 伝統はその国で大事にされるけどうみだされたものの全部広がらなくてなど。 ある意味循環的ですが、その構図が整理しにくくて。 また和魂漢才、和魂洋才の日本のスタイルとどのように違うのでしょうか? ヨーロッパの伝統は日本の伝統意識とは違うものなのでしょうか? 流行と伝統、個性の関係って難しいので、整理をお願いします。

  • 頭を使うのが嫌になった

    昔から考え事や人を笑わしたりするのが好きで、頭を一生懸命使って色々チャレンジしてきました ですが一年位前に創作活動で頭を使いすぎてしまい、パンクし、少しでも考え事をすると頭が痛くなるようになりました 辛い思い出が蘇り脳が拒否反応を起こすのです あれから一年頭を極力使わずリラックスにまわし、休養し、そろそろ良いかな・・・と、また創作活動に取り組もうとしたのですが、やはりまだ拒否反応があり深く物を考えることが出来ません 脳にフィルターがかかったような、それ以上進めないような感覚です 電源が飛ばないようにとブレーカーが落ちているのかもしれません 性格もすっかり変わってしまいました どうすれば克服できると思いますか? このカテの方を信用しているのでここで質問させていただきます

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 最大公約数と最小公倍数の関係

    ある整数と18の最大公約数は9、最小公倍数は54です。ある整数を求めよ。 この問題を小学生に分かりやすくご解説いただけませんでしょうか?

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。