asisai888 の回答履歴

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  • 危うきものとは要らぬもののことである。

      孔子は「君子危うきに近寄らず」と言ったのであった。 そこで危うきものとは何かと問うてみた。 http://okwave.jp/qa/q8767863.html そこで結論を出したい。 危うきものとは要らぬもののことである。 要らぬものが危うきものなのである。 この世に危うきものは様々であり、それは姿を変え形を変え絶えず我々の身の回りに潜んでおります。 危うきものは様々であり姿形を変えて現れるが、しかしその本質は一つである。 危うきものの本質とはその存在の必然性が無いということである。 もしもそのものの存在が必然性のあるものであるなら、我々はもとよりそれを避けることは出来ないのである。 もとより避けることの出来ないものは危ういとは言わないはずである。 それは必然だからである。 必然として存在するもの、必然的に起こるものは危ういものではない。 危ういものとはそれに関わらずとも一向に支障のないもののことであり、それゆえ避けることの出来るもののことである。 つまり危ういものとは要らないものということである。 そして孔子は避けることの出来るものは避けたほうがよいと言ったのである。 「君子危うきに近寄らず」の意味、このよーに結論してよいのではないか。   

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 「カドが取れて、丸くなる」とは

    こんばんは。お世話になっております。 40そこそこになって、実感したというか、なんですが、 「カドが取れて、丸くなる」という表現について、 ご教授頂ければ、幸いです。

  • 穢(けが)れとは何か

    《穢(けが)れ》について質問いたします。  1 穢れとは何か?  2 死は穢れなのか? であるならば、その理由は?  3 死穢(しえ)は禊(みそ)ぎ、水によって流せるのか? 流せるとすれば、その理由は?  4 なぜ、神社で神を拝む前に禊ぎをしなければならないのか?  5 穢れは伝染するのか?  6 こうした《穢れ》観の背景にあるものは何か、その理論的根拠は? 質問項目はすこし多いのですけれども、 《穢れ》がどのようなものであるのかを私が理解するためにどうしても欠かすことのできない項目なので、あえてそのまま列挙いたしました。 私の身勝手な希望としましては、6項目すべてに答えていただきたいのですけれども、 1項目でも構いません。 よろしくお願いします。

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 仏教

    こんばんは、いつもお世話になっております。 仏教に於いて、「個人」が偉い(開祖???)、とは、 あー。 「偉い」の意味からして、吟味しないと、ですね。 ・・・「仏教において、「個人」と「偉い」について。」 宜しくお願い致します。

  • 元慰安婦の証言映像をめぐって

     《証言》の内容について詳しい記事が 〔まだ〕ないようでわれわれ一般にはよく分からないのですが それとはおそらく別に どうして日本政府はきちんとした対応をしないのでしょうか?  時事や政治の問題としてというよりは 《人間と社会》の理論として考えたいので哲学カテとします。  さて 《証言》内容に問題を絞りたいと思うのですが まだはっきりしません。   ( a ) 朝鮮日報( chosun Online ): 韓国団体の元慰安婦聞き取り映像公開 日本政府「遺憾」       2014/09/16 15:18    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/09/16/2014091602215.html  ( b ) YOMIURI ONLINE : 韓国の遺族会、元慰安婦調査の映像を初公開 2014年09月16日 21時47分    http://www.yomiuri.co.jp/world/20140916-OYT1T50092.html  ( c ) 新華社: 日本の巡査が腕をつかんで・・韓国が慰安婦の証言映像を公開、「証言より重要な証拠がどこに?」「本当に心が痛い」―韓国ネット    XINHUA.JP 9月17日(水) 6時34分配信   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140917-00000007-xinhua-cn  いまのところ 次のおふたりの関係の二件のみです。  (α) 《ボクソン》さん関係:  (α‐a)  金さんは映像で「刀を下げて押しかけてきた日本の巡査と朝鮮人に両腕をつかまれ、連れて行かれた」などと証言  (α‐b) キム・ボクソンと名乗る女性は、「18歳の時、日本の巡査と朝鮮人に腕をつかまれて外に連れていかれた」  (α‐c) 「18歳の時、2~3週間にわたり屋根裏部屋に隠れたが、ご飯を食べに降りたところ、突然日本の巡査が現れて、腕をつかんで連れて行かれた」といった証言    (β) 《スンマン》さん関係:  (β‐a) (記事には情報無し)  (β‐b) ユン・スンマンと名乗る女性は、「言うことを聞かないと腕をねじられた」と語った。  (β‐c) 1人の女性が「言うことを聞かなければ鞭でひどく叩かれた。腕をひねって…」と言いながら袖をまくって曲がった左ひじを見せるシーンもある。  質問です。:  (あ) (α)において《腕をつかまれて連れて行かれた》というとき 親や家族やその隣近所の人たちは どうしていたのか? ――つまり 仲介者と親とのあいだには話が成り立っていたというのは 間違った推理なのか?  (い) (β)は どこにおいてなのか たぶん慰安所においてなのだろうと捉えますが ひとつには そもそもみづからの意志を無きがごとくして兵士に徴集されなければならなかったたことに 無理が(つまり 人権侵害が)あると思われること。ひとつには たとえば《いじめ》で命を落とすことになったことがあるとき それは 誰の所為でどういう原因によってそうならなければならなかったのかと問うのが筋ではないか? ふたつの事例は この慰安婦の場合にも当てはまるのではないか?  こまかいところは割愛して この二点にしぼります。  ご教示ください。  みなさんの側で ほかにも必要有益な問題点だと思われることがありましたら お知らせください。

  • 元慰安婦の証言映像をめぐって

     《証言》の内容について詳しい記事が 〔まだ〕ないようでわれわれ一般にはよく分からないのですが それとはおそらく別に どうして日本政府はきちんとした対応をしないのでしょうか?  時事や政治の問題としてというよりは 《人間と社会》の理論として考えたいので哲学カテとします。  さて 《証言》内容に問題を絞りたいと思うのですが まだはっきりしません。   ( a ) 朝鮮日報( chosun Online ): 韓国団体の元慰安婦聞き取り映像公開 日本政府「遺憾」       2014/09/16 15:18    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/09/16/2014091602215.html  ( b ) YOMIURI ONLINE : 韓国の遺族会、元慰安婦調査の映像を初公開 2014年09月16日 21時47分    http://www.yomiuri.co.jp/world/20140916-OYT1T50092.html  ( c ) 新華社: 日本の巡査が腕をつかんで・・韓国が慰安婦の証言映像を公開、「証言より重要な証拠がどこに?」「本当に心が痛い」―韓国ネット    XINHUA.JP 9月17日(水) 6時34分配信   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140917-00000007-xinhua-cn  いまのところ 次のおふたりの関係の二件のみです。  (α) 《ボクソン》さん関係:  (α‐a)  金さんは映像で「刀を下げて押しかけてきた日本の巡査と朝鮮人に両腕をつかまれ、連れて行かれた」などと証言  (α‐b) キム・ボクソンと名乗る女性は、「18歳の時、日本の巡査と朝鮮人に腕をつかまれて外に連れていかれた」  (α‐c) 「18歳の時、2~3週間にわたり屋根裏部屋に隠れたが、ご飯を食べに降りたところ、突然日本の巡査が現れて、腕をつかんで連れて行かれた」といった証言    (β) 《スンマン》さん関係:  (β‐a) (記事には情報無し)  (β‐b) ユン・スンマンと名乗る女性は、「言うことを聞かないと腕をねじられた」と語った。  (β‐c) 1人の女性が「言うことを聞かなければ鞭でひどく叩かれた。腕をひねって…」と言いながら袖をまくって曲がった左ひじを見せるシーンもある。  質問です。:  (あ) (α)において《腕をつかまれて連れて行かれた》というとき 親や家族やその隣近所の人たちは どうしていたのか? ――つまり 仲介者と親とのあいだには話が成り立っていたというのは 間違った推理なのか?  (い) (β)は どこにおいてなのか たぶん慰安所においてなのだろうと捉えますが ひとつには そもそもみづからの意志を無きがごとくして兵士に徴集されなければならなかったたことに 無理が(つまり 人権侵害が)あると思われること。ひとつには たとえば《いじめ》で命を落とすことになったことがあるとき それは 誰の所為でどういう原因によってそうならなければならなかったのかと問うのが筋ではないか? ふたつの事例は この慰安婦の場合にも当てはまるのではないか?  こまかいところは割愛して この二点にしぼります。  ご教示ください。  みなさんの側で ほかにも必要有益な問題点だと思われることがありましたら お知らせください。

  • 人の心は性質で出来ている?

    NHKで人の心の特集をやって 脳科学とか臨死体験とか言ってますが 人間の脳に心という「特別なもの」が発生する要素はないかと思います 物質でないのなら 性質だと思います。 性質は脳細胞や伝達物質にもありますが PCのハードディスクやソフトにも在ると思います。 ですから意識とまで行かなくてもPCにも心の様なものがあるのです 植物にも心があるというのはそういうことだと思います。 物質やエネルギーは必ず性質を持っています。それが心・精神を組織しているのです 概念とか。 そうは思いませんか?

  • われわれは どこへ行くのか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。              *  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム                   世界との未分化なる一体性。   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                   時間的存在の自覚。                   《世界‐内‐存在》。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                  《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                   社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生生活にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言った。  8. わが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。    ヨリなる原始心性:縄文人      イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の              終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに              あたる300年ごろからを当てる。                これは やまとの三輪市政であると見る。              崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。    ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。              河内の応神ホムダワケとその母・神功オキナガ              タラシヒメの登場による。              ・・・

  • 宗教とは、信仰とは

    此のカテや現実社会での幾度かの会話で、自身の信仰こそが正しいと言う発言を、耳目に触れて来ました。 別に良いのですよ?私は。 自分こそが正義で、他人はキ○ガイ。 其れ自体は口に出したり、行動したりしないで、思っている限りは、おつむの中までは手錠は掛けられませんから。 ただ宗教の本質と言うか、存在理由とは何でしょう? 色々語る方は居られるでしょうが、単純に言えば「幸せ」になりたい、か、其れを助ける存在でしょう。 幸せの定義はどうでも良いですが、要は生きる事を助けるモノとして、宗教を求めている訳です。 此れに関しては無神論も同様で、とどのつまりは宗教とは生き方の指針みたいなモノです。 苦行等も、心の呵責を取り除く為の行いで、結局は好きでやっているだけです。 紙切れに書かれた名前で、人生が変わるのであれば、紙が人生になってしまいます。 自分の人生は所詮、自分の人生です。 さて其処で私が問いたいのは、何故に自分こそが正しいと回りに吹聴するのかと。 心理学的な理由は判っています。 複数のパターンが存在しますが、要は自己実現のプロセスです。 私が言いたいのは、「そんなに周りといがみ合う事が幸せなの?」という事です。 其れが好きであるのであれば、仕方が無いのですが、多くの人間は楽しめない行為です。 何色でも良いのですが、此の世を唯一色に染め上げようとする行為は、自分が染め上げられる覚悟が必要です。 実際は染められないし、染まらないけど・・・ 四季が美しいと思う心の方が、余程に楽に生きられると思うのですが、其の前の色眼鏡を外す修行はキツイみたいです。

  • 宗教とは、信仰とは

    此のカテや現実社会での幾度かの会話で、自身の信仰こそが正しいと言う発言を、耳目に触れて来ました。 別に良いのですよ?私は。 自分こそが正義で、他人はキ○ガイ。 其れ自体は口に出したり、行動したりしないで、思っている限りは、おつむの中までは手錠は掛けられませんから。 ただ宗教の本質と言うか、存在理由とは何でしょう? 色々語る方は居られるでしょうが、単純に言えば「幸せ」になりたい、か、其れを助ける存在でしょう。 幸せの定義はどうでも良いですが、要は生きる事を助けるモノとして、宗教を求めている訳です。 此れに関しては無神論も同様で、とどのつまりは宗教とは生き方の指針みたいなモノです。 苦行等も、心の呵責を取り除く為の行いで、結局は好きでやっているだけです。 紙切れに書かれた名前で、人生が変わるのであれば、紙が人生になってしまいます。 自分の人生は所詮、自分の人生です。 さて其処で私が問いたいのは、何故に自分こそが正しいと回りに吹聴するのかと。 心理学的な理由は判っています。 複数のパターンが存在しますが、要は自己実現のプロセスです。 私が言いたいのは、「そんなに周りといがみ合う事が幸せなの?」という事です。 其れが好きであるのであれば、仕方が無いのですが、多くの人間は楽しめない行為です。 何色でも良いのですが、此の世を唯一色に染め上げようとする行為は、自分が染め上げられる覚悟が必要です。 実際は染められないし、染まらないけど・・・ 四季が美しいと思う心の方が、余程に楽に生きられると思うのですが、其の前の色眼鏡を外す修行はキツイみたいです。

  • 信仰と宗教の違い

      「神仏を尊び神仏に頼らず」、これは信仰として成り立つかと問うてみた。 http://okwave.jp/qa/q8749349.html その結論として、「神仏を尊び神仏に頼らず」は立派に信仰として成り立つと結論できました。 しかしながら果たして神仏への願いを伴わぬ宗教がこの世に存在するであろうか。 わたしが知る限りではおよそそのような宗教が存在するとは思えない。 では信仰と宗教の違いとは何か。 神仏への願いを伴わぬ信仰は信仰として成り立つが、神仏への願いを伴わぬ宗教は有り得ないのであれば次のように結論できるのではないか。 信仰は神仏を信じ尊ぶが、必ずしも神仏に願うことはしない。 宗教は神仏への願いを伴う信仰である。  

  • 信仰と宗教の違い

      「神仏を尊び神仏に頼らず」、これは信仰として成り立つかと問うてみた。 http://okwave.jp/qa/q8749349.html その結論として、「神仏を尊び神仏に頼らず」は立派に信仰として成り立つと結論できました。 しかしながら果たして神仏への願いを伴わぬ宗教がこの世に存在するであろうか。 わたしが知る限りではおよそそのような宗教が存在するとは思えない。 では信仰と宗教の違いとは何か。 神仏への願いを伴わぬ信仰は信仰として成り立つが、神仏への願いを伴わぬ宗教は有り得ないのであれば次のように結論できるのではないか。 信仰は神仏を信じ尊ぶが、必ずしも神仏に願うことはしない。 宗教は神仏への願いを伴う信仰である。  

  • 神仏を尊び神仏に頼らず、これは信仰として成り立つか

      神仏を尊び神仏に頼らず。 宮本武蔵の名言である。 その意味するところは、神仏は尊びこそすれ決して神仏に頼ってはならないということである。 さて質問ですが、これは信仰であると言えようか。 信仰の目的が神に願うことであればこれは信仰にはならない。 しかし信仰の目的が神仏を尊ぶことであり、神仏に願うことではないのであればこれは立派に信仰であると言えます。 しかしながらわたしが知る限り神仏への願いを伴わぬ宗教は存在しないはずである。 果たして宮本武蔵の名言は信仰として成り立つでしょうか。    

  • 人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

     次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

  • 《天使》を ブディズムでは何と言うか?

     天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。