heartmind の回答履歴

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  • なぜ人間には死を望む回路があるのか?

    進化論的に考えて、どう考えても淘汰されそうな回路なわけですが、 淘汰されずに残っている理由を、進化論を踏まえてお考えいただければ幸いです。

  • 愛国心を煽るやり方は古臭い

    <大阪維新の会>教育条例に「愛国心」明記 9月提案というニュース記事を読みましたが、 やり方が古臭いと思いました。 せっかく日本人は国、芸能人、有名人、大企業、・・・様々な権威から自由になろうとしているところなのにまたこの手法ですか?という感じがします。 維新と言いながらやり方は古臭いと言わざるを得ないと思います。 皆さんはどう思われるでしょうか。

  • テクノロジーと大量消費社会

    産業革命以降、テクノロジーは大量消費社会と二人三脚で発展してきたように思います。テクノロジーの発展とともに、個々の人間の技能は不必要とされ、もういくつも失われてきました。例えば農業においてすら、作業の手間を省くために「種とり」は行われなくなっています。農家にとって作物は植物という連環的存在ではなく、種から出荷までの切り取られた工業製品的存在なのです。 まず、なぜテクノロジーはこうした大量消費社会を必要とし、また必要とされるのでしょう? そして、この先の未来、テクノロジーとともに発展していく社会は、機械の星の疑似空間社会(例えばマトリックス)以外に、描ける物があるのでしょうか?

  • テクノロジーと大量消費社会

    産業革命以降、テクノロジーは大量消費社会と二人三脚で発展してきたように思います。テクノロジーの発展とともに、個々の人間の技能は不必要とされ、もういくつも失われてきました。例えば農業においてすら、作業の手間を省くために「種とり」は行われなくなっています。農家にとって作物は植物という連環的存在ではなく、種から出荷までの切り取られた工業製品的存在なのです。 まず、なぜテクノロジーはこうした大量消費社会を必要とし、また必要とされるのでしょう? そして、この先の未来、テクノロジーとともに発展していく社会は、機械の星の疑似空間社会(例えばマトリックス)以外に、描ける物があるのでしょうか?

  • テクノロジーと大量消費社会

    産業革命以降、テクノロジーは大量消費社会と二人三脚で発展してきたように思います。テクノロジーの発展とともに、個々の人間の技能は不必要とされ、もういくつも失われてきました。例えば農業においてすら、作業の手間を省くために「種とり」は行われなくなっています。農家にとって作物は植物という連環的存在ではなく、種から出荷までの切り取られた工業製品的存在なのです。 まず、なぜテクノロジーはこうした大量消費社会を必要とし、また必要とされるのでしょう? そして、この先の未来、テクノロジーとともに発展していく社会は、機械の星の疑似空間社会(例えばマトリックス)以外に、描ける物があるのでしょうか?

  • テクノロジーと大量消費社会

    産業革命以降、テクノロジーは大量消費社会と二人三脚で発展してきたように思います。テクノロジーの発展とともに、個々の人間の技能は不必要とされ、もういくつも失われてきました。例えば農業においてすら、作業の手間を省くために「種とり」は行われなくなっています。農家にとって作物は植物という連環的存在ではなく、種から出荷までの切り取られた工業製品的存在なのです。 まず、なぜテクノロジーはこうした大量消費社会を必要とし、また必要とされるのでしょう? そして、この先の未来、テクノロジーとともに発展していく社会は、機械の星の疑似空間社会(例えばマトリックス)以外に、描ける物があるのでしょうか?

  • テクノロジーと大量消費社会

    産業革命以降、テクノロジーは大量消費社会と二人三脚で発展してきたように思います。テクノロジーの発展とともに、個々の人間の技能は不必要とされ、もういくつも失われてきました。例えば農業においてすら、作業の手間を省くために「種とり」は行われなくなっています。農家にとって作物は植物という連環的存在ではなく、種から出荷までの切り取られた工業製品的存在なのです。 まず、なぜテクノロジーはこうした大量消費社会を必要とし、また必要とされるのでしょう? そして、この先の未来、テクノロジーとともに発展していく社会は、機械の星の疑似空間社会(例えばマトリックス)以外に、描ける物があるのでしょうか?

  • テクノロジーと大量消費社会

    産業革命以降、テクノロジーは大量消費社会と二人三脚で発展してきたように思います。テクノロジーの発展とともに、個々の人間の技能は不必要とされ、もういくつも失われてきました。例えば農業においてすら、作業の手間を省くために「種とり」は行われなくなっています。農家にとって作物は植物という連環的存在ではなく、種から出荷までの切り取られた工業製品的存在なのです。 まず、なぜテクノロジーはこうした大量消費社会を必要とし、また必要とされるのでしょう? そして、この先の未来、テクノロジーとともに発展していく社会は、機械の星の疑似空間社会(例えばマトリックス)以外に、描ける物があるのでしょうか?

  • テクノロジーと大量消費社会

    産業革命以降、テクノロジーは大量消費社会と二人三脚で発展してきたように思います。テクノロジーの発展とともに、個々の人間の技能は不必要とされ、もういくつも失われてきました。例えば農業においてすら、作業の手間を省くために「種とり」は行われなくなっています。農家にとって作物は植物という連環的存在ではなく、種から出荷までの切り取られた工業製品的存在なのです。 まず、なぜテクノロジーはこうした大量消費社会を必要とし、また必要とされるのでしょう? そして、この先の未来、テクノロジーとともに発展していく社会は、機械の星の疑似空間社会(例えばマトリックス)以外に、描ける物があるのでしょうか?

  • テクノロジーと大量消費社会

    産業革命以降、テクノロジーは大量消費社会と二人三脚で発展してきたように思います。テクノロジーの発展とともに、個々の人間の技能は不必要とされ、もういくつも失われてきました。例えば農業においてすら、作業の手間を省くために「種とり」は行われなくなっています。農家にとって作物は植物という連環的存在ではなく、種から出荷までの切り取られた工業製品的存在なのです。 まず、なぜテクノロジーはこうした大量消費社会を必要とし、また必要とされるのでしょう? そして、この先の未来、テクノロジーとともに発展していく社会は、機械の星の疑似空間社会(例えばマトリックス)以外に、描ける物があるのでしょうか?

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • なぜ若者は感動に弱いのか?

    僕の元知り合いで、よく自分の苦労話をする奴がいた。 そいつはよほど人の家の芝生が青くみえるのだろうか。 自分だけ苦労したように、思っているのだろう。 だが、そんな僕も若いときは人の苦労話には耳を傾けていた。 やはり若いときは、人の苦労話には感動させられる。 それで、だまされて損したこともあった。 アイドルのAKB48の人気の一つがまさにそれだ。 彼女らはテレビや映画を利用し、自分らは苦労して、努力して、 ここまできました。と宣伝している。 それをまに受けた愚かな若者が感動して、ファンが増えたのである。 が、歌もダンスもヘタで、何をどー努力しているのかはわからない。 まあそれはそれとして、若者というのは感動に弱いように思う。 もちろん感動というのは年寄りにもあるのだが、良し悪しは 別にして、ある程度歳をとったら冷静な目でもみれるようになる。 みなさんどーおもいますか?

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • この先、日本の中期的な展望はどうなる?

    この先、日本の中期的な展望はどうなる? 例えば「一部の富裕層が、ネットカフェで生活せざるを得ない貧困層を酷使する 時代がくる」とか「蟻や蜂のように生殖能力のない働きバチ人間が激増する」とか。

  • なぜ人は、発言や言葉遣いで人を判断するのか?

    上から目線で何が悪いのか? 大臣と地方の県知事では、立場的にかなり差があるだろう。 それは当人たちも、周りの人間もわかっているはずだ。 そう、松本元大臣のことである。 今回の事件でみんないう「上から目線で偉そうだ!」 しかし、それの何が悪いのかが僕にはわからない。 大臣と地方の県知事の立場では、そんなことあたりまえだろう。 冷静に聞いてみると、彼は被災者を馬鹿にしているわけでもない。 知事にはっぱをかけているだけだろう。 それに今、発言がどうの、言葉遣いがどうの、などと言って いる場合なのか? 要は被災地の復興をどれだけ迅速に完璧にやれるか、ではないのか。 仕事をやらさずして、辞任に追い込むなど愚の骨頂。 確かに彼は、大臣、いや政治家としては、やや短絡的なのかもしれない。 しかしそういう口の悪い人間のほうが仕事はよくする。と僕は個人的 に思っている。 なぜ人は、発言や言葉遣いで人を判断するのだろうか? それは外見で判断しているのと同じではないのか? みなさんはどーおもいます?