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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:<原形動詞はカテゴリーか実体か>)

原形動詞はカテゴリーか実体か

Nakay702の回答

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  • Nakay702
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回答No.3

(その2) @言語を操ることは世界(環境)のなかで他者とともに生きることです。環境は自然環境に限らず社会環境でもあります。つまり、言語を操ることは世界内存在として生きることだと言えます。基盤を統一的なものとして見た場合、基盤は理性能力と理性的秩序、および世界内存在と言語能力ですが、これらは相互補完的な働きを行うと言えます。 @この基盤から産み出される外延は無数にありますが(…)、その大半が悲惨な出来事だと言えそうです。そうした事態を何とかするために基盤に付加物が必要でした。道徳や宗教です。ハイデッガーは自分の存在論にある付加物を導入しました。本来性と彼が名づけた概念です。これによって、「存在と時間」は後半部において、(…)プロテスタント神学と仏教哲学に雰囲気的に近接したものになりました。この段階で<事象そのものに語らしめる>というスローガンは放棄されています。 ⇒科学的方法で立証したり推進したりすることはほぼ不可能で、科学の範疇を越える命題とも言えましょうが、かといって放置しておくわけにもいかないものがあります。そのうち、重要なものの1つが、例えば前項で触れた「共生のための規範の契約」で、最悪暫定的に合意することを模索すべき性質の事柄、と言えます。この規範とは、個を基本として、しかも普遍的な人類共通の知恵を結集し、共有する作業と言えるかも知れません。国家・民族・宗教などを単位として交渉がなされる限り、相互理解に限界があることは明白です。共通規範を模索する作業の中で、人類共存のためには民族や宗教を越えた、いわば「個の普遍化」を基軸に据えた相互理解が必要になりますね。ただし、そもそも、理想的な規範などは最初から存在するものではなく、求め続け、状況に応じて協定するほかないものでしょう。それは、地球という共同体の成員が共有すべき「共生パラダイム」の探求であり、求め続けるという過程にこそ意味があるとも言えましょう。  かつて「絶対性」を仮託していた神を人間が殺したのですから、絶対的な倫理的要請を出せる存在に代わって、人間一般に普遍的に妥当する倫理的規範を考案し、それについての合意形成を人為的に図ることがぜひとも必要だと考えるわけです。啓示の主を殺し、人間が事実上の神になってしまった現代にあっては、もはや誰も指針を与えてくれません。地球の運命が自分の手中にあることに対する責任の自覚あるのみで、巨視的・鳥瞰的な判断や行動が求められます。仮に絶対性に関する合意形成が不可能でも、少なくともそこへ志向するための研究は必要です。かかる目的の遂行において、民族や宗教や権力や、さらには経済的利害のみに拘泥することが、いかほどに無意味かつ有害であるかはあまりに明白です。考えるに、人間は「契約」を覚えたからこそ、辛うじてこれまで存続し得たのだと思います。そして、この現代においては、約束し遵守することの重要性は倍旧しています。この精神を忘れるなら、今後の地球は、拳骨でなく原子力などを駆使した「最後の理性」(=超暴力)の支配する星になってしまうことでしょう。今や抜けがけは、地球規模の自爆テロと同値になってしまいました。互いに一触即発状態の中に住む(しかも必然的に他を巻き込む)人類にとって、もはや共通規範の探求を抜きにして、楽園はおろか、単なる生存の継続さえ語れなくなったのであります。  以上から、地球市民としての人間関係のあり方を集約すれば、「異分子を排除するのでなくその存在を相互に承認し合い、互いの論理を受容し、相互関係を考慮して合意形成を図り、個の普遍性という基盤上に共存の姿勢を恒常的に求める」ということになるでしょうか。自己の中に他者を住まわせる姿勢を持ち、遠近法主義(異なる視点から見たものを接合することによって「神の視点」に近づけるとする主張)の立場に立つ心的態度、とも言い換えることができるかも知れません。こういう互恵互助的な個の確立、それは健全な地球市民の共存を希求するからに他なりませんが、そのためのあらゆる活動の中核が「言語に立脚して」なされるわけですね。  おっと、余計なことを加えすぎました。ともあれ、このたびはハイデッガーの存在論のあらましを教えていただき、ありがとうございました。最後の2つの項段落に関連して我田引水をいたしましたが、それは「存在と時間」の後半部で、彼が「事象そのものに語らしめる」というスローガンは放棄し、さらに導入した「本来性」や「プロテスタント神学と仏教哲学に雰囲気的に近接したもの」によって、もしかしたら彼の脳裡に浮かんだかも知れないと(勝手に)推測したことでした。しかし、よい勉強になりました。ありがとうございました。

feeders
質問者

お礼

残りです。 <信奉する宗教や神の如何にかかわらず、人間という共通項に基づいてあらゆる人間同士で契約することができるはずであり、その契約可能な中身は、「共存のための倫理的規範」というべきものであろう、と考える次第です。>    -全く同感です。人間が現実に生きる時、基盤だけで生きるわけではありません。共同存在として他者とともに生きる以上、どうしても倫理面で外延的なものが必要とされます。問題は倫理的規範としてどのようなものを想定するか、また、規定に従わないものにいかに対処するか、というふうなことをどうやって決めるかということです。よく言われるのは<合意>に依るしかないということですが、<合意>がなされたと判定される状況がいかなるものか、あるいは<合意>の意思表示をいかにすべきか、とか様々な問題が噴出します。その問題を解決するために、またもや<合意>に頼らなければならないとしたら、(論理的な手続きだけでことを図ろうとすると)、<合意>の無限背進が生じます。結局、論理プラスアルファとして、問題に取り組もうとする人たちが互いにどれだけの共感を持ち合えるかということになると思います。 <共通規範を模索する作業の中で、人類共存のためには民族や宗教を越えた、いわば「個の普遍化」を基軸に据えた相互理解が必要になりますね。ただし、そもそも、理想的な規範などは最初から存在するものではなく、求め続け、状況に応じて協定するほかないものでしょう。それは、地球という共同体の成員が共有すべき「共生パラダイム」の探求であり、求め続けるという過程にこそ意味があるとも言えましょう。> -全く同感です。<理想的な規範>はアプリオリに存在する基盤を根拠に、人類ができる限りの知恵を振りしばって作り出す外延的な実体物だと思います。仮に今の世で実現できなくても、Nakayさんの言うとおり、求め続けるという過程にこそ意味があると思います。 <啓示の主を殺し、人間が事実上の神になってしまった現代にあっては、もはや誰も指針を与えてくれません。> -啓示の主はキリスト教によって論理上および信仰上要請されるものにすぎません。ハイデッガーはキリスト教に対して(特にカトリック教会に対して)批判的でしたが、<指針>が存在しないとは考えていません。<指針>は「存在と時間」における方向性と同じものだと考えられます。 nakayさんのおっしゃる<自己の中に他者を住まわせる姿勢を持ち、遠近法主義(異なる視点から見たものを接合することによって「神の視点」に近づけるとする主張)の立場に立つ心的態度>とは、おそらく共感という言葉で言いかえられるものだと思います。人類が生き延びるために必要なものはまさにそれだと思います。 ハイデッガーの「存在と時間」ですが、存在論ですから当然のことですが、時間や空間や他者の問題も議論されます。「存在と時間」の後半部で、彼が「事象そのものに語らしめる」というスローガンを放棄したと言いましたが、少し言い過ぎたような気もします。死の分析は現象学的手法できちんと行われています。 今回はNakayさんの共通規範のお話を伺えてよかったです。おそらく、同じようなことを考えている人は多いと思います。まだこの世は捨てたものではないと思っています。長文のご意見ありがとうございました。  -次回は、<protection of natureにtheは不要か>という表題で質問をします。派生名詞にof句が後続する時通常は派生名詞にtheがつきますが、そうでないこともあるようです。よろしければおつきあい下さい。今回は、どうもありがとうございました。

feeders
質問者

補足

再度の回答ありがとうございました。  <⇒分詞構文は、通常主節の主語や時制に応じて限定されますので、実体化されることは明らかですね。独自の主語を持つ独立分詞構文も、他の条件は似たようなものですので大差ないと思います。しかし、それ以外の分詞は、仰せのように文法助動詞を伴わずに名詞や形容詞として機能する場合は内包として働く、つまり無時間的なものかどうか、よく分かりません。根拠はないのですが、これらがすべて実体化されることのない内包としての機能しか持たない、つまり、概念のみを表すのか否かは、断定できないような気もします。> -たしかに断定できないような気がします。というか、ややこしい問題を抱えているように思 います。例えば、形容詞化している場合は、概念として機能していると思われます。 an unexpected event / a surprising fact / I found the applicant well-informed. におけるwell-informed ところが、形容詞用法の分詞の場合、例えばa man walking down the street においてwalking down the streetはwho is walking down the streetに転換可能です。ということは、実体のように思われます。the walking man の場合も同様です。 ただ、分詞の場合はややこしいケースがいろいろあるので、この問題の追及はこれくらいにしておきます。ひとまず所期の目的は達成されましたから。そうそう、受動態について触れるのを忘れていましたが、これまでにしておきます。 世界内存在と基盤の話につきあって頂いて感謝しています。 <経験論的な説明方法の方が合理論的な説明方法よりわずかに実証能力がありそうな気がします。経験論は「事象そのものの語ることを受容する能力がより高い」と思われるからですが、 --->  -私もそう思います。後期のフッサールと、フッサールを継承し、そこから新たな境位を築いたメルロポンチは世界に根ざす主体を心でなく身体に置きました。このことは、私の眼には経験論に若干好意的な態度なのかなという気がしています。認知文法はこの両者(特にメルロポンチ)の哲学に多くを負っているように見えます。認知文法はおそらく現象学の発想を取り入れながらも経験論から軸足を移すことができなかったのではないかと思います。  <⇒「自己中心的特殊規定」(B.ラッセル、Egocentric particular)という観点からすれば、経験論と合理論の説明方法が対立するのは至極自然なことでしょうね。しかし、それは悪いことばかりではなく、むしろ、そのおかげで弁証法的な対話を通じた「止揚」(Aufheben)の結果としての「合」(Synthese)が得られる、という収穫もありましょう。「二つの異なったもののように見える基盤は、実は一つの基盤の二様の現れと考える」のも、そういう過程を経た後での成果と言える面があるのではないでしょうか。>  -私もそう思います。ただし、弁証法的な対話を通じた「止揚」(Aufheben)の結果としての「合」(Synthese)が基盤の発見や基盤の二様の現れの感得につながるというのはヘーゲルではなくプラトンの発想に近いと思います。また、そうした発見や感得をえることを可能にするのは直感の働きだろうと思います。ハイデッガーはそれに対して跳躍(der Sprung)という言葉を使っています。  基盤についてですが、人間の思考が基盤だけを対象にするのであれば、哲学は何と豊かさを減じることか。ただ、私としては、人間が絶対確実にこうだと言えるのが基盤についての言説のみだと示したかっただけのことです。山ほどの不確実なことに囲まれてこそ人生なのだろうと思います。  弁証法的とか「止揚」(Aufheben)とか懐かしい言葉を聞かせて頂きました。ヘーゲルやマルクスが読まれなくなって久しいですね。今では、弁証法的と言うと、二つの事柄の有意的な関係性を表すためにしか用いられないようです。哲学にもその時代相応の流行があってもいいのかもしれませんね。若い頃に、<弁証法とは、二つの事象の関係に与える形式論理の恣意的運用なり>と鬼の首でも取ったように騒いでいたことを思い出しました。こういう言葉が意味を持った時代があったわけですね。基盤以外のものはすべて歴史的に規定されます。クーンのパラダイムシフト説を持ち出すまでもないですね。 自らの説や論が歴史的・相対的なものであることに気づかず、他の説や論を包摂(基礎づけ)しようとする人たちがいます。言語論的展開とかいう言葉が一時期はやりましたね。哲学的思考<世界や人間がどのようなあり方をしているかを探り、それについて語ること>は言語を通じて行われるわけだから、哲学の任務は言語を分析することであると考えた人たちがいました。 これはそれなりに一理あります。  でも、対立する一方が他方を規定しようとすると必ず論理矛盾が起きます。例えば、言語分析をおこなうためには言語を使用しなければなりませんが、言語の使用を可能にするのは言語主体の意識です。だったら意識の在り方を考察しなければなりません。あるいは、言語の使用を可能にするのは言語主体が属する言語共同体です。だったら、言語共同体がどのようなあり方をしているか考察しなければならないことになります。 論理循環が生じるのは関係を客体的にとらえるからです。関係の内部に、循環の中に立てば循環は論理循環ではなくなります。言語分析哲学者でそのことを真摯に考えた人がいました。ヴィトゲンシュタインです。彼の哲学は存在論だと言ってもおかしくはありません。多くの言語哲学者は言語が存在論的に規定されることに気づいていません。言語分析哲学者自身が世界内存在という存在であることに気づくべきです。  <ところで、民族も言語も異なる多様な地球市民が共生するためには、例えば、その二つの基盤が共同する成果の一つたる「契約」のようなものが必要になる、と言えるかも知れませんね。「私は、私と私の環境である」とオルテガは言いました。「神がなくなれば、全てのことは許される」とドストエフスキーは言いました。「全てのことが許された世界」とは何か。それは、例えば無法者の跋扈する地帯、奸計・略奪・殺人などの横行する世界でしょう。神が消えるなら、その神もろとも、当該行為を規制・裁定すべき方法、すなわち規範も消滅するからだと考えられます。「神は死んだ」と言われて久しい今日、その神的機能に代るものが「契約」で、信奉する宗教や神の如何にかかわらず、人間という共通項に基づいてあらゆる人間同士で契約することができるはずであり、その契約可能な中身は、「共存のための倫理的規範」というべきものであろう、と考える次第です。> -大変重い話題になりましたね。「私は、私と私の環境である」はまさに世界内存在を一言で要約したもののように思います。  「神がなくなれば、全てのことは許される」についてですが、そうであってはならないので、神はいるはずだという逆説的な論理(あるいは論理上の要請)だったと記憶しています。ドストエフスキーは敬虔なクリスチャンだったと記憶しています。  「神は死んだ」についてですが、ニーチェはカトリックの神を念頭において発言しているように私には思えました。この世を創造した究極の存在が死んだと言ったわけではないと思います。ヨーロッパの無神論者は二つに分かれます。一つは、キリスト教の神は信じない、でも、神はいると考える人たち。その多くはクリスチャンをやめた(棄教した)人たちです。もう一つは、そもそも神なる存在を信じない人たちです。 前回取り上げた基盤は、どれも(あるいはすべての基盤は)Logosという言葉による置き換えが可能です。Logosは神と同一視されることもありました。基盤は私が示したものだけではないと思います。共感とか愛とかもその一つだと思いますが、ハイデッガーは「存在と時間」では言及しませんでした。彼は、自分の著作の基本方針として世界内存在を根底で支えるものいが時間性であることを主張したかったので、空間性についてはおざなりの議論しかしませんでした。空間性の考察をきちんと推し進めてゆけば共感とか愛とかにたどり着いたはずだと私は思っています。つまりLogosは愛でもあると私は思っています。ただし、無数に存在する外延はその多くは悲惨な出来事のように見えます。 語数制限にかかるのでお礼に残りを入れます。

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    概念が情感を喚起することがあるかというテーマで質問させて頂きます。 前々回と前回の質問の際に少しだけ話題に出しましたが、ヘレン・ケラーの話を再度取り上げます。たしか、前々回の回答者の方からも話題にして頂きました。その時の回答者の方は、「概念のwaterは心の中に存在するものなのに、どういうわけか文中(談話中)で使われる」という話と関係して紹介なされたように記憶しております。  その時の文を厚かましいのは承知の上で使わせて頂きます。(ご無礼でなければいいのですが)  <ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! ....." と何度も何度も叫ぶのでした。「私の唇の動きを感じて、これがwaterというものであることを知りなさい! そして言ってみなさい! 発音してみなさい!言ってみなさい!!」>---以上引用文 実に感動的な場面でした。映画「奇跡の人」のあの場面をみて感極まらない人はなかなかいないと思います。さて、ヘレン・ケラーがモノにはすべて名前があることを知ったのはwaterのみずみずしさに触れた時でした。Water! Water! と叫んだ時、waterは彼女にとってカテゴリーの名でもあったし、同時に手で触って確認できるみずみずしさや冷たさを感じさせる実体でもあったわけです。 では、なぜ、Water!という言葉が感動を与えたのでしょうか。そもそも言葉に感動を与える働きがあるのでしょうか。確かにあるとしか言えません。もし、あの場面が無声映画で字幕もついていなかったとしたら感動はあったとしてもさほどのものではなかっただろうと思われますから。  感動は、言葉そのものが持つ意味と文脈の相互作用によるものだと思えますが、今回の議論においては、文脈(状況)という要素を極力排除して、言葉そのものが持つ意味だけを問題にすることとします。文脈(状況)という要素については後で(つけたし程度ですが)言及することにします。  ここで、名詞が限定詞を伴う場合とそうでない場合とで感動の仕方(情感の感じ方)に違いがあるのかをwaterを例にとって考察してみたいと思います。 Water is a clear pure liquid. におけるwaterはカテゴリーであって、話者によって客体的(傍観者的に)とらえられるものなので情感を表すことはできません。カテゴリーの機能は整理と秩序づけだと思われますが、こうしたものを志向するときはどうしても客体的な見方が必要とされて、言語主体と対象との間に隔たりが生じます。隔たりのあるところに情感の行き来はありません。  I drank some water. におけるwaterは実体ですが、空間的限定が与えられている(客体化されている)ので言語使用者との間に隔たりを持ちます。隔たりによって情感の行き来は阻まれます。隔たりが消失するか、または隔たりが生じる前の段階でなければ情感が生まれることはないはずです。 Water, water, waterrr!! ....." の場面において、<水>の冷たさやさわやかさをヘレンは実感として感じ取っていますが、同時に、それを観客も実感しています。ヘレンだけでなく、観客も画面を通じて<水>の冷たさやさわやかさを実感しているわけです。  ただし、うれしさや驚きまでといったような情感までも、実体としてのwaterが生じさせることはないと思います。では、そうした情感はどこから生まれるのでしょうか。実体としての<水>には実感を引き出す力はあっても、情感を喚起する力を持っているとは思えません。なぜなら、情感がわくということは言語使用者が自分の心の中の何かと関わるからだとしか考えられませんから。そうした力があるとしたら実体ではなくカテゴリーの方だと思われます。  ということは、カテゴリーに2種類あると考えるしかありません。一つは定義文に見られるような客体的に言い表されたカテゴリー(意味)です。もう一つは言語主体との間に隔たりが存在しない前客体的なカテゴリー(意味)です。前者のカテゴリーの働きはその属性を表わすことだけです。一方、後者のカテゴリーには人間に情感を生じさせる力があると考えるしかありません。 でも、情感を実際に感じ取るためには、I feel fear now. におけるように、概念がカテゴリーでもあるし、同時に実体である(ただし、空間的制約が与えられず、量が明確に意識されない)という状況が必要とされるはずです。  ということは、Water! という実体が冷たさやさわやかさを実感させ、同時にwaterという前客体的なカテゴリーである<水>の意味と相まって、嫌だな、とか驚いたとか気持ちいいとかいった情感的反応が観客の心の中に生じるのではないかと思います。 (文脈・状況的なことには触れないつもりでしたが、少しだけ触れておきます。おそらく、我々観客が映像がかもし出す雰囲気の中に浸り込み、自分が観客であることを忘れてしまう時、前客体的なカテゴリーによって情感が引き起こされるのではないかと思います。)  結局、Waterの持つ前客体的なカテゴリーと<水>という実体とが相補的に影響しあって情感を引き起こすとしか言いようがありません。もちろん、私の仮説にすぎませんが一応の合理的な整合性を持っているように思われます。いかがでしょうか。  では、なぜその時に情感が生まれるのかということですが、情感が発生するのではなく、もともと認知行為の最初の時点において情感が存在していたのではないかと思います。そもそも認知行為の最初の時点において、知覚相だけでなく情感相も働いていたのだと考えるしかなさそうです。前々回の私の投稿でも述べましたが、一般に認知(認識)は知覚作業が主体になりますが、情動・情感の働きを常に伴っています。情感的な認知が必ず行われているはずです。そもそも言葉は心的な経験でもあるので、そうした経験に情動・情感的相がかかわらないわけがありません。知覚的相と情感的相は相互補完的なものであるはずです。 これは、私の仮説ですが、言語主体が何か(例えば水)を認知する時、まず訪れるのはカテゴリーと実体に分化する以前の状態だろうと思います。"Water!" も"Summer (has come)." も"(I feel) fear (now)."も、カテゴリーと実体に分化する以前の状態だと考えれば、言語主体が実感を伴って、場合によっては情感を伴って関わりを持つ、そのような状況だと思います。(その場合、文脈や状況次第で情感の強さが異なるのではないかと思います。) その後、概念がカテゴリーと実体とに分化してゆくと、情感や実感はもっぱら語が持つイメージや文脈などから間接的に与えられるものとなっていったのではないかと思います。 例えば、I feel fear now. においては、おそらく、不安・恐怖は話し手が直接的に感じ取るものだろうという気がします。一方、some fearという語からも実感がわきますが、これはfearという言葉の持つ意味が間接的に生じさせるものだろうと思います。 先ほど述べた仮説の言い方を変えると、時間と空間の制約を受ける実体(someや冠詞などの限定詞がつく)はもっぱら知覚の相において把握されるものであり、時間と空間の制約を受けない実体(someや冠詞などの限定詞がつかない)は前客体的なカテゴリーと共に、情動や情感の相において把握されたものであると言えるのかもしれません。 ここで、概念とまでは言いませんが内包に非常に近い用法の場合を考えてみます。 "(Bring me) jewels(. Be quick.)においては、 jewelsは概念ではありませんが概念に非常に近い働きを行っています。"Water"!やfearと同じように考えてよいのではないかと思います。宝石強盗の持つ切迫感とか、脅迫めいた語調が伝わってくるような気がします。 同様に、Summer has come. やNight is coming on. において、実体としてのsummerやnightは話し手に暑さや暗さを実感させると思いますが、暑さに伴う不快感・開放感や暗さがもたらす不気味さ・不安やロマンチックな感じをもたらすのは、カテゴリーと実体に分化する前段階のsuumerやnightだろうと思います。 以上です。ご意見をお持ちしております。

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    クリックありがとうございます(∩´∀`)∩ ★次の文を助動詞、本動詞を用いて英訳しなさい。 ・彼はなぜ彼女がうそをついたのか尋ねる勇気がない。  助動詞→He dare not go into the house.  本動詞→He does not dare to ask why she told a lie. 本動詞のほうがどうも微妙です…。 これであっているのでしょうか。回答よろしくお願いします。

  • 英語動詞の原形についてです。

    田中茂範『表現英文法 増補改訂版』、224ページに、「 [原形を用いる] いずれの場合も共通しているのは、現に起こっている何かというよりも、むしろ『行為の未遂行』が前提にあるということです。この前提があるから、『何かをこれから行う』あるいは単に『何かをする』という意味で使うことが可能となります。[・・・] I heard him sing a Chinese song. [・・・] の sing a Chinese song もそれ自体は『何かをする』という行為を表しているだけで、現実に歌っていたということは問題にはなりません。」とあります。しかし、上の肯定文 I heard ... . で表された言明が真であるならば、sing a Chinese song は現実に起こったことではないでしょうか。 I didn't hear him sing a Chinese song. にも sing a Chinese song は使われているので、フランス語やスペイン語やイタリア語の接続法の節のように(?)、現実とは無関係なのです、ということであれば、I didn't hear him singing a Chinese song. の場合でも、この言明が真ならば、 singing a Chinese song は非現実ではないでしょうか。何故、田中氏は、現実と無関係と仰るのでしょうか。

  • 不定詞は原形不定詞とto不定詞の2つだけですか?

    不定詞は原形不定詞とto不定詞の2つだけですか? 中学1年の一番最初に習う、 this is a pen.このis(be動詞)は原形不定詞ですか? もしくは、 I like a dog.このlikeは原形不定詞ですか?いわゆる動詞の原形は原形不定詞のことですか? もしそうだとすると、私達は中学1年の最初の授業ですでに不定詞を習っていたということですか?