• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:<原形動詞はカテゴリーか実体か>)

原形動詞はカテゴリーか実体か

Nakay702の回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9762/12160)
回答No.1

<原形動詞はカテゴリーか実体か>について、以下のとおりお答えします。 @<歩く>という概念が時間と空間という2つの形式によって実体化された時、(実体化というのは時間と空間を持つ、すなわち現実に行われるということです)、概念である原形のwalkに代わって、その外延であるwalk(現在形), walks, walkedやwalkingが使われます。 ⇒あ、そうですね。これまで考えてみたこともありませんが、言われてみれば、まさにそのとおりだと思います。全く異存はありません。概念・内包たる不定詞(infinitive)に対して、定形動詞(finite verbs)には、まさにそれぞれの限定がつくわけですので、外延そのものですね。ただ、分詞は、「(意味機能を《分》かち持つ《詞》(ことば)」とされるだけに微妙です。もしかしたら、両方の意味機能を分かち持つかも知れませんね。 @C: I walk an hour to my office every week day. において、空間的実体はto my officeによって、時間的実体はan hour によって表されています。(…)概念である原形動詞は過去形や現在形を使ったり、推測・可能性や意思を表す助動詞を使ったりすることによって、実際にそうした行為が行われる時の具体的な時間を表現できます。 @概念を表す原形動詞がカテゴリーと実体の両方を表す場合があるように見受けられます。 D: The doctor told her to walk a lot to keep healthy. walkは外延ではなく原形です。原形であればカテゴリーを表すはずですが、ここでは、実体を表す、つまり実際の行為を促しているように読み取れます。(…)では、カテゴリーを表せないのかというと、(…)rather than to use a carが省略されていると考えればカテゴリーを表すと考えることができます。 ⇒仰せのとおり、Dにrather than to use a carを補ってみればカテゴリーを表すことが明確になりますね。他方、Dからa lotを削除しても、同じようにカテゴリーを表していると解釈できると思います。そうすれば、例えば、to swim, to have much vegetable, to go to gym …などからto walkというカテゴリーを指定した、という意味になりますからね。 @限定詞(決定詞)システムと名詞との関係は時制システムと動詞との関係と同じであるという見立てです。 E: You should take a walk every day to keep yourself in good health. において、take a walkは概念を表します。ここでは行為の実体を表しているように見えます。行為はまだ実現していませんが、聞き手に行為の実現を促すものなので、実質的に実体を表していると言えるはずです。 @この文では法助動詞が使われています。法助動詞にはmodalityが存在します。modalityは話し手の主観的態度を表すものです。その中には、懇願とか警告とか勧誘とか依頼とか疑問とかがあります。そうしたものの表明がどういう文法的状況においてなされるかということを鑑みた場合、情感の言語的発露は法助動詞と原形動詞の組み合わせによってなら可能であると言っていいように思います。 ⇒なるほど、限定詞(決定詞)システムと名詞との関係は時制システムと動詞との関係と相同的であるという見立ては面白いですね。これまで意識したことはありませんでしたが、確かに、両者の間には大きな相同性があると思います。なお、Eのように、法助動詞と原形動詞の組み合わせによって実体を表しているという可能性が高まることは確かだと思いますが、法助動詞の補助などを得ずとも、つまり、原形動詞のみでも情感の言語的発露は可能だと思います。(*後で同じことを仰せになっていることが分かりましたが、第1印象ですので、このまま残しておきます。) @命令文やその他のmodalityを表現する構文も法助動詞と同じ働きをすると思います。modalityを表現する構文には例えば次のようなものがあります。F: We advised my daughter that she be more quiet when we are with guests.(…)G: It is surprising that he should say so. (原形は使わないようです) surprising は感情を表す形容詞です。他に、astonishing, sad, regrettable, shocking, curious, queer, strange, embarrassing,などいろいろあります。It is a pity / a shame that ----という構文もあります。 @人間は知覚的相(感覚器官の働きによる)においてモノを観察するが、同時に、情感的相においてモノに心を開いていると言えると思います。(…)"Watch out." とか"Be careful." とか"Let's enjoy playing soccer." と言うとき、モダリティーということで言えば、警告や勧誘が表されていると言えるのでしょうが、さらに心配そうな感じやうれしそうな感じも含まれていると思われます。 ⇒なるほど、周辺部への拡張解釈、拡大適用とでもいいますか、そういう感情を表す形容詞や感嘆文・命令文・勧誘文なども、情感の言語的発露の機能があると言えますね。 @情感はモダリティーを表す表現と原形動詞の組み合わさった時に表出可能なのではないかと言いましたが、私の考えでは、モダリティーを表す表現と共起しなくても原形動詞だけでも(実体とカテゴリーの部分を表現しさえすれば)情感を喚起できるのではないかと思います。その上に、モダリティーが伴えば情感の喚起が促されやすくなるということなのではないかと思います。 D: The doctor told her to walk a lot to keep healthy. において、toldをadvisedに代えればモダリティーが表明されやすくなりますが、toldであっても文脈と状況次第ではモダリティーの表明は可能だと思います。 ⇒確かに、原形動詞だけでも文脈と状況次第ではモダリティーの表明は可能でしょうね。言語の分析においては、このような状況依存度の高い事柄があることは見逃せない要項ですね。なお、このことは、上の「*」で述べたことと同じですので、この段階に来たからには上の「*」の記述を削除させていただきます。 さて、最後に認識の共有と共感の意を込めてお説の骨子をまとめてみます。 1.原形動詞は概念を表し、屈折形は実体を表す。時間や空間の規定が加わるからである。 2.原形動詞は単独で概念と実体を表すことがある。それは各種の状況補語を添加することでより明快になる。 3.限定詞(決定詞)システムと名詞との関係が、時制システムと動詞との関係との間に、カテゴリーや概念と実体や外延に対応する相同的があると言える。 4.述語部に法助動詞が加わると情感の表現が可能となる。同様の効果を添える語句として、命令文・疑問文・感嘆文などの修辞技法によって各種の実体化が可能となる。 5.原形動詞に法助動詞などが伴えば情感を表しやすくなるが、このことは原形動詞のみでは情感を表せない、ということではない。法助動詞の添加で情感の表現がより豊かになる、ということである。 …と、このように整理してみますと、改めて感じるのは、いずれもほぼ絶対自ら着想することはできないと思われるにもかかわらず、言われてみれば全てなるほどと肯けることばかりである、ということです。何ら新しい見方などを付加することもできずお恥ずかしい限りですが、以上の全項目について異論なく賛同申しあげます。

feeders
質問者

お礼

どうもありがとうございました。 残りです。  昨今では環境問題やいわゆる共生という問題において普通に言いはやされていることですが、主体は世界(環境)の一部であって、その中で主体的に生きてゆく者であると言えるはずです。これが概括的に世界内存在と呼ばれている存在体勢です。この考えは内包であるに留まらず基盤でもあることがわかります。この基盤を否定すれば人間は生きてゆけません。この基盤は人間と世界(環境)とのあいだに対立は存在しないことを示しています。  (当然のことですが、外延的出来事である知覚現象においても、認識主体と認識対象とを切り離して考えることはあり得ないことです。) 理性能力と理性的秩序に加えて世界内存在が加わって一つの根源の基盤とも言うべきものが存在することになりますが、その基盤の内容(内包)を表明・表現するのが言語です。 世界内存在は理性能力と理性的秩序を統一的なものにするに留まりません。外延的事象・出来事-例えば認識行為-において認識が行われるためには、そもそも認識する側とされる側が世界(環境)内(空想上の時間空間であっても構いません)に存在していなければなりません。その存在を保証するのが世界内存在という存在体勢です。ということは、理性能力と理性的秩序が世界(環境)内で働くことを保証するのが世界内存在だということになります。 逆に、世界内存在という存在体勢を持つ主体が生きるためには、理性能力と理性的秩序が世界(環境)の中で正しく働かなければなりません。 科学哲学にも分析哲学にもこうした視点が全く抜け落ちています。それらの哲学を存在させるものがなければ、それらの哲学は存在基盤を持っていない、つまりそれらの哲学の言説はすべて無意味(言い過ぎでしょうか)ということになります。ハイデッガー流に言えばそういうことになります。 もう一つ基盤としてあげられるものがあります。言語(の使用)です。言語は人類発生時点から存在しているものではありませんが、人間社会が形成されて以降の時代を考えれば、基盤と言うにふさわしいものだと思います。文明にとっても日常生活においてもなくては困るものです。 理性能力と理性的秩序を表明・表現するのが言語だと先ほど述べましたが、実は、言語の使用が意味をなすものであるためには理性能力が必要とされるし、また、言語使用が広範な場面においてかつ長きにわたって行われるものであるためには理性的秩序が必要とされます。  また、言語主体は他の言語主体との共通の言語共同体に属していますが、言語共同体は世界(環境)の主要部分を構成するものです。言語を操ることは世界(環境)のなかで他者とともに生きることです。環境は自然環境に限らず社会環境でもあります。つまり、言語を操ることは世界内存在として生きることだと言えます。 さて、基盤を統一的なものとして見た場合、基盤は理性能力と理性的秩序、および世界内存在と言語能力ですが、これらは相互補完的な働きを行うと言えます。この基盤は世界(環境)と人間(の心と体)が働きを得るための基盤であるとも言えます。 ところで、この基盤から産み出される外延は無数にありますが(空間的には全世界的規模で、時間的には全歴史を通じて)、その大半が悲惨な出来事だと言えそうです。そうした事態を何とかするために基盤に付加物が必要でした。道徳や宗教です。ハイデッガーは自分の存在論にある付加物を導入しました。本来性と彼が名づけた概念です。これによって、「存在と時間」は後半部において、私の目には(他の識者も指摘するところですが)プロテスタント神学と仏教哲学に雰囲気的に近接したものになりました。この段階で<事象そのものに語らしめる>というスローガンは放棄されています。 「存在と時間」では、早い段階で世界内存在という言葉が登場します。この本の前半では、世界内存在がどのような構造のものか、そこで人間がどのようなあり方をしているのかが詳しく語られます。 なお、「存在と時間」では認識の問題は主たる話題になっていません。<世界からやってくるもの-例えば気分-を主体が受け取り、それを受けて主体がなんらかの反応や意欲を示したり、行為を行ったりする>そうした統一的な現象の一つとして認識(知覚)行為があるにすぎません。 以上が私の独自のハイデッガー理解の概略ですが、正しいかどうかの保証はありません。このような解釈の仕方を読んだことも聞いたこともありませんから。ただ、私がNakayさんと議論するときハイデッガーの名を出す際には、このような解釈で理解した(と思いこんでいる)ハイデッガーを想定しているわけですから、その解釈がどのようなものかを示しておきたいと考えたわけです。 ここはおかしいのではないかと思われる点があればご指摘下さい。

feeders
質問者

補足

回答ありがとうございました。 <最後に認識の共有と共感の意を込めてお説の骨子をまとめてみます。> -丁寧にまとめて頂いてありがとうございました。  <@<歩く>という概念が時間と空間という2つの形式によって実体化された時、(実体化というのは時間と空間を持つ、すなわち現実に行われるということです)、概念である原形のwalkに代わって、その外延であるwalk(現在形), walks, walkedやwalkingが使われます。 ⇒--- まさにそのとおりだと思います。全く異存はありません。概念・内包たる不定詞(infinitive)に対して、定形動詞(finite verbs)には、まさにそれぞれの限定がつくわけですので、外延そのものですね。ただ、分詞は、「(意味機能を《分》かち持つ《詞》(ことば)」とされるだけに微妙です。もしかしたら、両方の意味機能を分かち持つかも知れませんね。> ---たしかに言われてみればその通りですね。うっかりしていました。おっしゃることの趣旨は次のようなことでしょうか。  walkingは(is / are / was / were / have been / has been / had been) walking というふうに文法助動詞を伴った形でなければ実体化されないと言えばいいのでしょうか。walkingが文法助動詞を伴わずに名詞(動名詞)や形容詞として機能する場合は内包として働く、つまり無時間的なものだということでしょうか。 ただ、副詞用法(いわゆる分詞構文)の場合は副詞節に転換可能なので、少しややこしそうです。Having no money, the boy didn't make an offering of money at the shrine. において、Having no moneyはAs he had no moneyに転換可能です。ということは、副詞用法のHavingは実体化されていると見なすべきなのでしょうか?ご意見をお願いします。 --前回と今回との議論で概念と情感発露との関係がほぼ見えたように思います。どうもありがとうございます。実は、当然のことですが、この種の話題には教室では一切触れません。生徒達(高校生または予備校生レベル)には正しい冠詞と正しい時制の選択の仕方さえ習得させればそれでよしとしています。  実体を持たない無冠詞名詞と原形動詞の場合は指導がやりにくくなります。概念について教えるのが面倒だからです。無冠詞名詞はさまざまな使い方があるので指導が大変ですが、原形動詞の場合は使われ方のパターンが多くないので指導は楽です。 実は、これまで限定詞(今回は時制も)のシステムと関わる質問が多かったと思いますが、私自身の勉強をしっかりしたものにするための基礎固めという意味がありました。要するに、概念と関わることが文法システムの中でどのように扱われるかをきちんと確認したかったわけです。でも、文法書(冠詞の解説書も含む)にはそのような観点を抑えたものがない(はっきり言って怠慢だと思います)ので、仕方なく自力で切り開くしかなかったわけです。でも、おかげでいろいろ学習できました。英文法を教えてきた者が文法の基礎を固めていないなどということはあってはならないことだと思います。 ところで、前回<概念が情感を喚起することがあるか>において、私の側の返信の中でハイデッガーの名を出すことがあったにもかかわらず、彼の考えや世界内存在についての説明は中途半端なものでした。私のものの考え方の基盤とも言うべき部分を構成するものなので、少し丁寧に説明させて頂いた方がよいと考えます。でないと、これまで大変な労力を費やしてくれたNakayさんに対して礼を失することになるような気がします。  もちろん、彼の存在論の全容をここで紹介するわけにはいきませんから、ほんのさわりの部分だけ、それも私独自の理解の仕方を紹介するに留めます。これまでも言いましたが、私は哲学を独学で学んだものですから、私の説明が正しいかどうかは保証の限りではありませんが、ともあれ、一応の私なりの説明をさせて頂こうと思います。ハイデッガーの考えだけを説明するより、ある全体の見取り図の中でハイデッガー存在論がどのような位置を占めるかを示すのが一番手っ取り早いと思います。読後、Nakayさんの方でいかようにも判断してください。もちろん、お忙しければ無視して頂いて結構です。では始めます。純粋に哲学の話題です。 認識の問題から始めます。(プラトン以降、認識の問題が哲学的思考において最優先されて以来長い間認識論が幅をきかせてきました。当然、正しい認識がどういうものかについての説明がなされなければなりません。主体(言語主体)が対象物を認識しようとする時の説明に仕方において、主体の側の認識装置に力点を置くか、対象物からやってくる感覚印象に力点を置くか、つまり合理論か経験論かということですが、どちらか一方から他の一方を説明しようとするとに必ず論理矛盾(論理循環や無限背進)が起きます。そのことは詳しく説明するまでもないと思います。二元論的状況においては避けられないことです。  なぜ矛盾が生じるのかを考えることは、なぜ対象物の認識方法についての説明手段が二つ存在するのかを考えることと同じです。 合理論的な説明方法と経験論的な説明方法とを外延とするような内包は一体何なのかを考えてみるに、合理論的な説明方法の方は、その内包は<人間が生まれつき持つ理性能力を駆使すること>だと思います。内包というより、言語主体(人間)が生きてあるための基盤だと言った方がいいように思います。理性能力の存在はもちろん証明できません。基盤は公理と違って、そこから演繹が始まるようなものではありませんから(また、演繹と無関係ということは、基盤(内包)と外延との関係を述べるとき循環が生じても、それは論理循環とは言えません)。  でも、その存在を承認しなければこれまでの人間の歴史上の営みや社会機構や生活習慣などそうしたすべてが人間によって作られ、維持されていることが説明できません。そもそも、対話も成り立たないし、日々の暮らしも成り立ちません。ところが、実際にはそうしたものがちゃんと存在できているわけですから、理性能力が人間の中に存在すると結論を下すしかありません。 同様に、経験論的な説明方法の場合は、<世界(環境)にもともと備わっている理性的秩序が働く>ことが基盤だと言えます。そのおかげで、自然法則の一切がどの場所においても、どの時点においても成り立つわけです。ヒュームは斉一性と呼んでいました。もちろん、そのおかげで、人間の歴史上の営みや社会機構や生活習慣などそうしたすべてが人間によって作られ維持されています。日々の暮らしも成り立ちます。 基盤はこれ以上疑えないものですが、基盤はそこから何かが演繹されるようなものではないので、基盤にさらに何かをつけ加えて考えを述べると、そこに、早速疑いの余地が混入することになります。基盤に対する人為的な不可物は歴史的・相対的なものでしかありません。合理論的な説明方法も経験論的な説明方法も、共にそうした相対的なものを含んだまま、他の一方に対して優位に立とうとしたわけです。基盤から離れずにおとなしくしておけばよいものを、我が身の相対性を無視した傲慢さの果てが、両者の対立だったと私は考えます。 ここでわかることですが、そもそもの対立の淵源は二つの基盤が異なるものだということにあります。一方は、人間が生得的に持つ理性能力であり、もう一方は世界(環境)がもともと持つ理性的秩序です。では、対立はどうしようもないものなのかということですが、そんなはずはありません。そのような基盤同士の対立が実際に存在するなら、人間の世界・社会はむちゃくちゃになってしまっているはずです。ということは、対立しているように見えていながら、実際には対立は存在しないはずです。 よく考えると、理性能力が力を発揮するのは理性的秩序が存在する場においてです。逆に、理性的秩序も理性能力あってのものです。一方からもう一方を還元しようとするから対立が起きるわけです。理性能力と理性的秩序という基盤レベルではそのような対立は生じません。 (二つの異なったもののように見える基盤は、実は一つの基盤の二様の現れと考えればすむことです。すなわち、「理法」(あるいはロゴス)こそが基盤であるとして、それを表明・表現するものが言葉だとすればいいわけです。) では、基盤レベルで対立しないのになぜ外延(現実の事象・出来事)レベルで対立するのかについて考えてみます。おそらく、対立は言語使用者が世界(環境)に対してどのようなあり方をしているかということに還元されると予想されます。  例えば、夏の気温や湿度が高い日に、主体がもし世界(環境)から切り離されている存在であれば蒸し暑さは感じないはずですが、実際は身体はほてってくるし、汗もかくし、うっとおしくもあります。このことは、主体が世界(環境)から切り離されていないことを示します。このことは、他の主体も経験することです。 語数制限に抵触するので残りをお礼の方に入れます。

関連するQ&A

  • この動詞の原形って、なんでしょう?

    英文法を教えて下さい・・・。 One thing Congress did was enact a massive government effort to improve soil conservation. wasのあとのenactは動詞の原形で、「enact(法律などを制定する)」+「こと」という風に名詞的に意味をとることになる、というのは感覚的にわかるのですが、文法的な説明がわかりません。be+verb原型で、be+動名詞またはTo+不定詞と同じような意味合いになることがあるのでしょうか。教えてください。

  • 現在分詞、不定詞と動詞の原形の使い方の違い

    1.SVOの後に、TO不定詞が続いて、SVO+To不定詞の形を取ることがあります。  その時、分詞を使う時と意味はどのように違いますか? My mother told me to eat more vegetables.  He kept me waiting for forty minutes. どちらを入れても意味に違いはないのでしょうか? 2.使役動詞+O+動詞の原形  He had the doctor look at his leg. 使役動詞+O+現在分詞  The comedian had the people laughing. 意味に違いがあるのでしょうか? 3.知覚動詞+O+動詞の原形  We saw a duck cross the street. 知覚動詞+O+現在分詞  We saw a duck crossing the street. 上は、横切る一部始終見ていた、下は横切る一時点を見ていたと文法書にはありました。 どうも、分詞、不定詞、動詞の原形と意味の違いというか、使い方が分かりません。 よく、分詞は現実、事実を表し、不定詞は仮定、未来を表すと一般的に習ってきましたが、 これに当てはまる事ではなさそうです。 お分かりの方お教え下さい。   

  • 掲示の列挙文の動詞が原形なのは

    Primary responsibilities - Make a course syllabus - Teach classes - Attend teacher meetings 動詞について、命令形はおかしいと思うので原形ですよね、 動名詞にせぬと文法違反に見えますが、 原形なのはなぜですか。 TOを省いてあるのですか、 そうならば わずかなSPACE節約にしかならぬにもかかわらずなぜそうするのか、 慣用か。

  • 動詞について

    大学受験の勉強で英語の問題集をやっているのですが、穴埋め問題をやっていて、わからなくて解答を見たとき、「この動詞に続く形はthat S+Vやto+動詞の原形やfor A to+動詞の原形です」とか書いてあったのですが、こういうのは一つ一つその動詞について「次の続く形は~~」というのを覚えなくてはならないのでしょうか? また、ひとつひとつこの動詞は自動詞でこの動詞は他動詞といったように覚えなくてはならないのでしょうか?

  • 「be動詞+going+to+動詞の原形」を使った疑問文

    今、中学生レベルの英文法を勉強しております。 A: 「be動詞+going+to+動詞の原形」とwhatを使用して文章を作ろうと思うのですが下記の文章が合っているかどうか教えてもらえないでしょうか? (1)What are you going to cook? (あなたは,何を作ろうとしているのですか?) (2)What are you going to study? (あなたは,何を勉強しようとしてい るのですか?) B:「be動詞+going+to+動詞の原形」とwhyを使用して文章を作ろうと思うのですが下記の文章が合っているかどうか教えてもらえないでしょうか? (1)Why are you going to play soccer?(なぜ、あなたは、サッカーをしようとしているのですか?) (2)Why are you going to study English?( なぜ、あなたは、英語を勉強をしようとしているのですか?) (3)Why are you going to go to Germany?( なぜ、あなたは、ドイツに行こうとしているのですか?) (4)Why are you going to do piano? (なぜ、あなたは、ピアノを弾こうとするのですか?)

  • 概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合

    概念と実体の関係について知りたいことがあります。私の説明におかしな点があればご指摘をお願いします。 A: Water is a clear pure liquid. B: I drank some water a few minutes ago. C: I'd like water, not wine tonight. D: Waiter, bring me water, quick! Aではwaterの概念が、カテゴリーとして表現されています。すなわちこの世に存在するwaterすべてに適用される言説です。カテゴリーとして表現されるときはそのまま語彙として文中で使われます。又は、限定詞として不可視の冠詞がついていると考えても構いません。今回の議論では限定詞不要という言い方で一括しておきます。  Bではwaterの外延(実体)としてのsome waterが表現されています。some は実体であることを示すための限定詞です。限定詞はあるものに時間や空間の限定を与えるためのものです。ここでsome waterは一定量のwaterを表しています。 Cではwineではなくwaterをと言ってるわけだから、waterの概念がAと同じくカテゴリーとして表現されています。意味(論)的にはこの世に存在するwaterすべてを指しています。水であればどこで採取された水でもいいはずです。ところが、現実には(語用論的には)この世に存在するwaterすべてを表すわけではありません。レストランでの会話だとしたら、waterには店が提供できる量的な限界があるはずです。Cの発話を聞いた後、聞き手はたぶんa glass of waterかa jug of waterを持ってきてくれます。つまり、現実には(語用論的には)実体としての水をも指していることになります。 この場合、カテゴリーを表すわけだから限定詞は不要と考えられます。しかし、同時に、現実に実体としての水をも指しているのであれば限定詞のsomeが必要なはずです。これまでの説明が正しいとすれば、この相矛盾する事態は文法違反として扱われることになりますが、文法的の問題がないとするためには、この矛盾を解決するための何らかの解釈が必要とされます。 そこで、私なりに仮説を立ててみました。 <認知対象に空間的制約(例えば量の表現)を与える必要がないと感じられる場合は、カテゴリーであろうと実体であろうと限定詞は不要である。Dのwaterは実体であるが量を意識しない表現だということになります。  一方、認知対象に空間的制約を与える必要があると思われる場合は(はっきり量を意識する場合は)someを含む数量詞を使う。この場合はもちろん実体のみを表すことになります。Bのsomeはそのような発想で使われる限定詞です。 付言すると、waterは分割されることが想定されない水を、some waterは分割可能な(取り分けることが可能な)水だということになります。>  この考えでよろしいでしょうか? Dは相当impolite(ネイティブはこういう指摘をする人が多いようです)な言い方に聞こえますが、実際にこのような使われ方を時々見聞きします。乱暴な言葉遣いをする人は平気でこういう文を使います。また、瀕死の重傷を負った人は丁寧な物言いをする余裕がないかも知れません。Give me water!あるいは単にWater (please)! と言うかもしれません。  限定詞がついていないということは、ここでのwaterはカテゴリーを表しているはずですが、文脈を考えるとそうではないようです。実体としての水を持ってこいと言っています。この世のwaterのすべてではなく、一部分のwaterを表すわけだからsomeがつくはずなのについていません。実体を表すものなのに限定詞がつけられていないわけですが、先ほど提示した仮説に立脚すれば一応の説明が可能です。Give me water!においては、実体としても水が要求されていると考えられますが、量を意識したものではないので限定詞は不要と言ってよさそうです。  だとすると、瀕死の重傷を負った人は丁寧な物言いをする余裕がないのではなくて、量を意識する余裕がないのではないかと思います。impoliteだとする説はたぶんに語用論的なものというか、少なくとも文法的には無視できるものであるような気がします。いかがでしょうか。 さらにこういうことも言えそうです。カテゴリーの全体ではなく部分を表す時、そのものはカテゴリーであると同時に実体でもあることも表しているわけですが、表現の重点がどちらに置かれるかは文脈(特に話者の気持ち)に依存するのではないかと思います。 同じことは抽象名詞の場合にも言えます。 E: Fear is the feeling that you have when you are frightened. F: I feel some fear now. G: I feel fear now, not anxiety. H: I feel fear now. I'm so scared. Eではfearの概念が、カテゴリーとして表現されています。カテゴリーとして表現されるときはそのまま語彙として、限定詞なしで文中で使われます。 Fではfearという概念に対する外延のすべてではなく一部分のfearが表されています。fearだけでなく、hopeやjusticeなど心の中でうごめくものは量的なものと見なされてsomeをつけることができます。 Gのfearは概念を表しているのでカテゴリーのすべてにあてはまるものです。ただし、現実に恐怖心を感じているわけだから実体としてのfearを感じてもいます。ただし、量的なものではあっても、具体的な量を意識したものではないので限定詞がつかないと言ってよさそうです。 ややこしいのはHです。文の内容を考えるに現実のfearをひしひしと感じているようです。実体としてのfearを表しています。Gと同じく、具体的な量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。  ついでに、複数名詞の場合にも言及しておきます。 I: Jewels are sold at the jewelry store. J:I bought some jewels at the jewelry store. K: Bring me jewels, not money. L: Bring me jewels. Be quick. IのJewelsは概念に非常に近いものを表しています。この世の宝石すべてに当てはまります。Jでは、カテゴリーの一部を表されています。実物を表すので限定詞のsomeが使われています。 KとLでは宝石強盗が店に押し入った場面を想定しています。  KではIと同じくカテゴリーを表しているはずですが、現実には宝石店の宝石なのでカテゴリーの一部が表されているにすぎません。また、文脈から実物が要求されていると考えられますが限定詞はついていません。具体的な数量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。 Lでは明らかに実体としての宝石が話題になっています。具体的な数量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。いくらでもいいからとにかく持ってこい、と要求しているものと思われます。 この問題は、前回の質問に対する回答者の方のご意見とも関わっています。たしかヘレン・ケラーの次のような話を紹介して頂きました。<ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! ....."> -ヘレン・ケラーがモノにはすべて名前があることを知ったのはwaterのみずみずしさに触れた時だったはずです。Water! Water! と叫んだ時、waterは彼女にとってカテゴリーの名でもあったし、同時に手で触って確認できるみずみずしさや冷たさを感じさせる実体でもあったはずです。 <認知対象に空間的制約(例えば量の表現)を与える必要がないと感じられる場合は、カテゴリーであろうと実体であろうと限定詞は不要である。>という考えに依拠するとき、waterには限定詞は不必要です。いかがでしょうか?

  • 概念が情感を喚起することがあるか

    概念が情感を喚起することがあるかというテーマで質問させて頂きます。 前々回と前回の質問の際に少しだけ話題に出しましたが、ヘレン・ケラーの話を再度取り上げます。たしか、前々回の回答者の方からも話題にして頂きました。その時の回答者の方は、「概念のwaterは心の中に存在するものなのに、どういうわけか文中(談話中)で使われる」という話と関係して紹介なされたように記憶しております。  その時の文を厚かましいのは承知の上で使わせて頂きます。(ご無礼でなければいいのですが)  <ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! ....." と何度も何度も叫ぶのでした。「私の唇の動きを感じて、これがwaterというものであることを知りなさい! そして言ってみなさい! 発音してみなさい!言ってみなさい!!」>---以上引用文 実に感動的な場面でした。映画「奇跡の人」のあの場面をみて感極まらない人はなかなかいないと思います。さて、ヘレン・ケラーがモノにはすべて名前があることを知ったのはwaterのみずみずしさに触れた時でした。Water! Water! と叫んだ時、waterは彼女にとってカテゴリーの名でもあったし、同時に手で触って確認できるみずみずしさや冷たさを感じさせる実体でもあったわけです。 では、なぜ、Water!という言葉が感動を与えたのでしょうか。そもそも言葉に感動を与える働きがあるのでしょうか。確かにあるとしか言えません。もし、あの場面が無声映画で字幕もついていなかったとしたら感動はあったとしてもさほどのものではなかっただろうと思われますから。  感動は、言葉そのものが持つ意味と文脈の相互作用によるものだと思えますが、今回の議論においては、文脈(状況)という要素を極力排除して、言葉そのものが持つ意味だけを問題にすることとします。文脈(状況)という要素については後で(つけたし程度ですが)言及することにします。  ここで、名詞が限定詞を伴う場合とそうでない場合とで感動の仕方(情感の感じ方)に違いがあるのかをwaterを例にとって考察してみたいと思います。 Water is a clear pure liquid. におけるwaterはカテゴリーであって、話者によって客体的(傍観者的に)とらえられるものなので情感を表すことはできません。カテゴリーの機能は整理と秩序づけだと思われますが、こうしたものを志向するときはどうしても客体的な見方が必要とされて、言語主体と対象との間に隔たりが生じます。隔たりのあるところに情感の行き来はありません。  I drank some water. におけるwaterは実体ですが、空間的限定が与えられている(客体化されている)ので言語使用者との間に隔たりを持ちます。隔たりによって情感の行き来は阻まれます。隔たりが消失するか、または隔たりが生じる前の段階でなければ情感が生まれることはないはずです。 Water, water, waterrr!! ....." の場面において、<水>の冷たさやさわやかさをヘレンは実感として感じ取っていますが、同時に、それを観客も実感しています。ヘレンだけでなく、観客も画面を通じて<水>の冷たさやさわやかさを実感しているわけです。  ただし、うれしさや驚きまでといったような情感までも、実体としてのwaterが生じさせることはないと思います。では、そうした情感はどこから生まれるのでしょうか。実体としての<水>には実感を引き出す力はあっても、情感を喚起する力を持っているとは思えません。なぜなら、情感がわくということは言語使用者が自分の心の中の何かと関わるからだとしか考えられませんから。そうした力があるとしたら実体ではなくカテゴリーの方だと思われます。  ということは、カテゴリーに2種類あると考えるしかありません。一つは定義文に見られるような客体的に言い表されたカテゴリー(意味)です。もう一つは言語主体との間に隔たりが存在しない前客体的なカテゴリー(意味)です。前者のカテゴリーの働きはその属性を表わすことだけです。一方、後者のカテゴリーには人間に情感を生じさせる力があると考えるしかありません。 でも、情感を実際に感じ取るためには、I feel fear now. におけるように、概念がカテゴリーでもあるし、同時に実体である(ただし、空間的制約が与えられず、量が明確に意識されない)という状況が必要とされるはずです。  ということは、Water! という実体が冷たさやさわやかさを実感させ、同時にwaterという前客体的なカテゴリーである<水>の意味と相まって、嫌だな、とか驚いたとか気持ちいいとかいった情感的反応が観客の心の中に生じるのではないかと思います。 (文脈・状況的なことには触れないつもりでしたが、少しだけ触れておきます。おそらく、我々観客が映像がかもし出す雰囲気の中に浸り込み、自分が観客であることを忘れてしまう時、前客体的なカテゴリーによって情感が引き起こされるのではないかと思います。)  結局、Waterの持つ前客体的なカテゴリーと<水>という実体とが相補的に影響しあって情感を引き起こすとしか言いようがありません。もちろん、私の仮説にすぎませんが一応の合理的な整合性を持っているように思われます。いかがでしょうか。  では、なぜその時に情感が生まれるのかということですが、情感が発生するのではなく、もともと認知行為の最初の時点において情感が存在していたのではないかと思います。そもそも認知行為の最初の時点において、知覚相だけでなく情感相も働いていたのだと考えるしかなさそうです。前々回の私の投稿でも述べましたが、一般に認知(認識)は知覚作業が主体になりますが、情動・情感の働きを常に伴っています。情感的な認知が必ず行われているはずです。そもそも言葉は心的な経験でもあるので、そうした経験に情動・情感的相がかかわらないわけがありません。知覚的相と情感的相は相互補完的なものであるはずです。 これは、私の仮説ですが、言語主体が何か(例えば水)を認知する時、まず訪れるのはカテゴリーと実体に分化する以前の状態だろうと思います。"Water!" も"Summer (has come)." も"(I feel) fear (now)."も、カテゴリーと実体に分化する以前の状態だと考えれば、言語主体が実感を伴って、場合によっては情感を伴って関わりを持つ、そのような状況だと思います。(その場合、文脈や状況次第で情感の強さが異なるのではないかと思います。) その後、概念がカテゴリーと実体とに分化してゆくと、情感や実感はもっぱら語が持つイメージや文脈などから間接的に与えられるものとなっていったのではないかと思います。 例えば、I feel fear now. においては、おそらく、不安・恐怖は話し手が直接的に感じ取るものだろうという気がします。一方、some fearという語からも実感がわきますが、これはfearという言葉の持つ意味が間接的に生じさせるものだろうと思います。 先ほど述べた仮説の言い方を変えると、時間と空間の制約を受ける実体(someや冠詞などの限定詞がつく)はもっぱら知覚の相において把握されるものであり、時間と空間の制約を受けない実体(someや冠詞などの限定詞がつかない)は前客体的なカテゴリーと共に、情動や情感の相において把握されたものであると言えるのかもしれません。 ここで、概念とまでは言いませんが内包に非常に近い用法の場合を考えてみます。 "(Bring me) jewels(. Be quick.)においては、 jewelsは概念ではありませんが概念に非常に近い働きを行っています。"Water"!やfearと同じように考えてよいのではないかと思います。宝石強盗の持つ切迫感とか、脅迫めいた語調が伝わってくるような気がします。 同様に、Summer has come. やNight is coming on. において、実体としてのsummerやnightは話し手に暑さや暗さを実感させると思いますが、暑さに伴う不快感・開放感や暗さがもたらす不気味さ・不安やロマンチックな感じをもたらすのは、カテゴリーと実体に分化する前段階のsuumerやnightだろうと思います。 以上です。ご意見をお持ちしております。

  • 助動詞dareの本動詞について

    クリックありがとうございます(∩´∀`)∩ ★次の文を助動詞、本動詞を用いて英訳しなさい。 ・彼はなぜ彼女がうそをついたのか尋ねる勇気がない。  助動詞→He dare not go into the house.  本動詞→He does not dare to ask why she told a lie. 本動詞のほうがどうも微妙です…。 これであっているのでしょうか。回答よろしくお願いします。

  • 英語動詞の原形についてです。

    田中茂範『表現英文法 増補改訂版』、224ページに、「 [原形を用いる] いずれの場合も共通しているのは、現に起こっている何かというよりも、むしろ『行為の未遂行』が前提にあるということです。この前提があるから、『何かをこれから行う』あるいは単に『何かをする』という意味で使うことが可能となります。[・・・] I heard him sing a Chinese song. [・・・] の sing a Chinese song もそれ自体は『何かをする』という行為を表しているだけで、現実に歌っていたということは問題にはなりません。」とあります。しかし、上の肯定文 I heard ... . で表された言明が真であるならば、sing a Chinese song は現実に起こったことではないでしょうか。 I didn't hear him sing a Chinese song. にも sing a Chinese song は使われているので、フランス語やスペイン語やイタリア語の接続法の節のように(?)、現実とは無関係なのです、ということであれば、I didn't hear him singing a Chinese song. の場合でも、この言明が真ならば、 singing a Chinese song は非現実ではないでしょうか。何故、田中氏は、現実と無関係と仰るのでしょうか。

  • 不定詞は原形不定詞とto不定詞の2つだけですか?

    不定詞は原形不定詞とto不定詞の2つだけですか? 中学1年の一番最初に習う、 this is a pen.このis(be動詞)は原形不定詞ですか? もしくは、 I like a dog.このlikeは原形不定詞ですか?いわゆる動詞の原形は原形不定詞のことですか? もしそうだとすると、私達は中学1年の最初の授業ですでに不定詞を習っていたということですか?