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陸蒸気に乗った女性客は。

Kittynoteの回答

  • Kittynote
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回答No.1

期間を問わず著名外国人なら、たとえば、 明治12年7月3日特別仕立列車で午後1時15分横浜発、同2時20分新橋駅着の 米国前大統領グラント夫妻、 また『勝海舟の嫁 クララの明治日記<下>/クララ・ホイットニー/一又民子・ 高野フミ・ 岩原明子・小林ひろみ(訳)/中公文庫/1996.6』には、 明治12年11月29日(365頁)、同13年1月8日(409頁)、同15年11月25日(436頁) などの各条に、クララ・ホイットニー自身の乗車記録など、 あと詳しくは調べていませんが、明治11年のイザベラ・バードなどですが… 明治6年(あるいは明治5~6年の範囲内)限定の記録となりますと、 相当限られると思います。 下記は、新橋横浜間開通式の翌日乗車の直話のようですが、 残念ながら登場する婦人客は実話か、たとえ話かすら分かりません(><) 〇『鉄路/清計太郎著/輝文堂書房/昭和18.6』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068432/63 <63-65/163>(111頁4行目-115頁11行目)「陸蒸氣に初乘り」 <65/163>(114頁13行目-115頁4行目) …陸蒸氣は今の汽車と違って下等座席(畳敷きであつた)が、橫に區切られ、 縱に通ずる中央通路はなく一つ一つ座席の兩側に扉がついてゐる。 お客は座蒲團持參で乘る、發車前に車長(車掌)がいちいち扉をしめ、 停車すると一つ、一つ外から扉を開けて歩くという風で、 一つの座席に五人並んで腰かけると、前後の座席と往來できないばかりか、 眩暈で倒れる婦人客の介抱をしたくとも身動きもならなかつた。… ※余談ですが、交通博物館[鉄道が開業した頃の客車](実物大模造)では、 下等車の車内は5人がけ6列のゴザ敷きベンチのようです※ http://www.yossie.jp/photo/transport2.html 一般人では埒が明きそうにもないので、 幸い「皇族」を含むことから、真逆の方から調べてみました。 「太政官日誌明治六年 第百六十一號・百六十二號」などは如何でしょうか。 〇『太政官日誌.明治6年 第132-166号/太政官』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787665/147 <147/187>(1頁1行目) ・太政官日誌明治六年第百六十一號… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787665/148 <148/187>(2頁1-4行目) ○十二月十七日 本日 主上 皇后宮橫須賀造船所ヘ 行幸 行啓アラセラル[行幸中ノ詳細ハ後號ニ載ス] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787665/150 <150/187>(1頁1行目) ・太政官日誌明治六年第百六十二號… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787665/159 <159-160/187>(19-20頁) ○追錄 〔相州橫須賀造船所江 行幸 行啓記事畧〕 十二月十七日午前第七時二十分 御出門第八時新橋ステーシヨンヨリ汽車乘御 第九時橫濱江 着御同處中波戸塲ヨリ蒼龍艦江 乘御第十時揚錨 御發艦[御發艦御着艦ノ時ハ樂隊樂ヲ奏ス]午後第一時十五分橫須賀江 着御 …(中略)… 還御同十八日午前第八時猿島沖ニ於テ艦隊操練アリ 行在所ヨリ  天覽畢第九時二十分 行在所 出御同所山下ニ於テ輕氣球飛揚 天覽畢テ 波戸塲ヨリ蒼龍艦江 乘御此時同所詰官員及ヒ御雇教師奉送ス第十時 御發艦正午十二時三十分橫濱港江 着御午後二時橫濱ステーシヨン 御發車第三時新橋ステーシヨン江 着御暫ク 御休憩アリ第三時四十分 皇居江 還御アラセラル 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 一年間に144万人も乗車したわけですから、その内女性客は何割くらいだったのだろうか、と思いました。 これは、統計がなくては分かりませんから、多分統計はないだろうと思って、どんな女性が乗ったのですかと、質問しました。 裕福な商人・町人の妻たちが物珍しさに乗ったのだろうか、という疑問です。 また、最初の女性客は誰か、という興味もありました。 あれやこれや色んな思いがあって質問したのですが、私のこんな平凡な思い以上に『鉄路/清計太郎著/輝文堂書房』「陸蒸氣に初乘り」は面白かったです。 中仙道本山宿池田屋の若主人・田中仙之の体験談は、貴重ですね。 しかも開業翌日の話ですから。 直に、雰囲気が伝わってきます。 >陸蒸氣は今の汽車と違って下等座席(畳敷きであつた)が、橫に區切られ、 縱に通ずる中央通路はなく一つ一つ座席の兩側に扉がついてゐる。 お客は座蒲團持參で乘る、發車前に車長(車掌)がいちいち扉をしめ、 停車すると一つ、一つ外から扉を開けて歩くという風で、 一つの座席に五人並んで腰かけると、前後の座席と往來できないばかりか、 眩暈で倒れる婦人客の介抱をしたくとも身動きもならなかつた。… 「客車の内部」をキーワードで画像検索しました。 私の想像した客車とは大違いでした。 「眩暈で倒れる婦人客の介抱をしたくとも身動きもならなかつた。」とのことですが、田中仙之の体験談なのかどうか、判断に困ります。 もし、体験談であれば、女性客第一号かも知れません。 鉄道規則に次の条文があるそうです。(ネットの記事) 「一.何人に限らずステーション構内で別段に吸煙のために設けし場所、または吸煙のために設けし車より他の車内にて吸煙するを許さず。かつ婦人のために設けある車および部屋などに男子はみだりに立ち入るを禁じ、かつ払いたる賃金をも取り上ぐべし」 男女の席が分けられていたようですが、中等車だけなのか、下等車にも適用されていたのか、不明です。 そんなことより、この規則は日本人がつくったのだと思っていましたが、元はセイロンの規則だったと知って驚いています。 喫煙規制、男女の席を分けたのは儒教思想から、当時の日本の習慣からだと早合点していました。 ただ、日本の習慣に合致していたという面もあるでしょう。 とにかく面白いですね。 何を質問したのか忘れてしまうくらいです。 「汽車は出てゆく煙は残る残る煙がしゃくの種」は、訳を知らずに子どものころから歌っていました。 『太政官日誌.明治6年 第132-166号/太政官』は、参考になりました。 両陛下が乗車されたのですね。 二人お揃いで視察とは、明治になった実感があります。 ただし、皇后と女官だけで乗車のケースに興味がありますので、もう少し読んでみます。 お召し艦「蒼龍」も調べておきました。 軍艦?に初めて乗った女性では、と一瞬思いましたが、軍艦とは言えぬ小さな木造船でした。 いつも素晴らしい資料を教えて下さって、真にありがとうございます。

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