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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『本能寺の変』明智光秀の動機は何だと思いますか?)

明智光秀の謀反の動機とは?

からあげ ミームン(@marc2bolanti)の回答

回答No.17

今日は、事故調さん。こりゃまあ、ニンニンの問題かなぁ、、 事変直後に各地に潜んでた伊賀忍者が小規模ながら一斉蜂起したそうで、第三次天正伊賀の乱,とも言われてる。 明智殿は、前年迄の伊賀攻めに不参加の様なので、信長に駆逐された忍の者を当てにしたか?~光秀の所領は近江に加増されて丹波の国。此処に伊賀衆は逃げ込んでましたね。~主に伊賀焼の陶工ですが、誰が忍か判らぬ土地柄。当然忍者も含まれ此れは、江戸時代に岡山池田藩のお抱えになった資料が近年出てます。調略法で麻薬の扱い方も詳述されてる。ハシッシュでのアサシンと同じか⁈~伊賀の乱の将は上忍筆頭の,百地丹波(三太夫)だしね。 ~処が、信公と同盟の,神君家康が伊賀越えに、茶屋四郎次郎と,服部半蔵が伊賀の山賊を説得し協力を取り付け、難無く脱出出来た。 家康は寝耳に水で、当初は死を覚悟。堺に滞在当日の供回りは30数名で四天王も含まれ、捕われたら致命的。~なのに明智は何故取り逃がしたのか?其れが不思議!~伊賀衆に裏切られたか?、徳川方は這々の態で逃げたのだから明智と内通してたとは思えません。殺害しない迄も、捕虜にして味方に引き込めば違う展開も可能だったのでは? ですから、ご子孫の明智憲三郎さんが主張する、家康との共謀説は成り立たないと思う。~しかしながら結果的には、此れで徳川の天下の芽が出た訳です、信長存命では叶わない。後々は明智に感謝の意を持ったとも思えます。天海伝説も其れを匂わす。 家光の 乳母: 春日局;お福さんの父ごは斎藤利三、光秀側近ですからなぁ。 ~動機というなら、既に皆様仰る様な事でしょう。白隠禅師も罹った心火逆上なる心身症ですかね。信長とは相性悪過ぎ、互いが解らない。他の主君に仕えれば優秀な官僚だったと思いますが、真面目居士は冗談でも弄ると根に持つ人居ますね。 猿様だって長浜に蟄居させられたり散々雑言浴びせられたけど身分違い過ぎて蟠らないか。比べると光秀は自尊心が可成り強そうです。~信長殿は丹波の領国経営を褒めた書状も残したのですがね、扱い間違えた哉。~今でも六古窯の一,丹波焼の里訪れると、明智さんは名君と慕われてる様。~時代劇で丹下左膳らがぶら下げてる文字入りの徳利は大抵丹波 http://www.kikumasamune.co.jp/toshokan/10/10_05.html 貸徳利 通い徳利 http://www.hi-net.zaq.ne.jp/yousan/core-room3-6.htm ~情勢を、信長の敵、と云う切り口でも少し考えてみます。 叡山の山法師。一向宗、石山本願寺、その討伐には 明智も参戦してるので、当てには出来ないかな。では浄土真宗とは別の密教系で、根来寺。 さらに分裂気味で何方にも付く雑賀衆、孫市の鉄砲隊。紀州の惣国勢力は祭ろわぬ者共なので厄介だ。山の民は鉱山と蹈鞴の技術を独占し鉄砲拵え、更に海の民でもある。~根来と雑賀鈴木孫市は当初、木下藤吉郎の友らしく親織田派でしたが、石山合戦の後には秀吉に徹底して攻め込まれます。敗残者は非人に落とされ、後の被差別部落に繋がってる。京都の次に部落が多いのが和歌山と兵庫だと云う。カムイ伝が非人部落出自なのも故ある哉。 〈 紀州攻め〉太田城水攻め。刀狩も此処が端緒だ。此れで地侍の中世が終焉し、無縁の界と云う不可侵性が終るのですね。寺社と惣国の自治の象徴、此の地が重要なのは、徳川政権が御三家を置いて直轄した事でも明らかです。 明智勢はどうも、寺社や雑賀とも通じてた感は有りますが、さてどうなのか? 朝廷も期待はしてたのでしょう。反信長の公家と足利将軍家。毛利水軍、雑賀と長宗我部の連合軍、どう通じてたのか?、細川さんは当てに出来ません、機を見て逃げ出します。 後ろ盾、密約 も有ったかも知れませんが、登った梯子外された感ありですね。 忍者学は史学から排除され続け、漸く今世紀から真面に扱われるよになったので、此れから未だ史料が出て来ますよ。一寸前迄は 神保町で二束三文濡れ手に粟だったそうで、明智探偵事故長さんは捜査に行って下され、一攫千金かも。謀反は金儲けてからで(^^;。 あと地方の旧家や収集家が相続無く廃絶が増え、旧い物の値打に不明で其の儘ゴミと扱われる事態が出来し始めてます。鑑定団では廃屋から尾形乾山の皿が出たなあ。

oya_zico
質問者

お礼

marcさん、お礼が遅くなり申し訳ございません。 舛添さんのところにも事故?調査委員を派遣しましょうか? ヤメ検(元検事)よりも情報収集に優れた元伊賀忍者の方が有効かもよ。 ただ、お金に忠誠を誓うのであれば、どちらでも同じかもしれません。 (↑) こんな風に書きましたが、そもそも、忍者自体何者なのかも判っていない。 忍者が出て来る書物って漫画とか小説しかなくて、読んだ小説は、 『忍びの国』『真田太平記』『風神の門』『あずみ』『忍者ハットリくん』『さすがの猿飛』『伊賀のカバ丸』くらいで、全然当てにならない。 その中でも和田竜の『忍びの国』は、正に天正伊賀の乱を描いたものですが、あれは、もうファンタジー。 多くの忍者が、棟梁の幼少時からの洗脳で操られるも、一人だけはマインドコントロールから逃れ、好いた女とお金を稼ぐためだけに生きる。 そうなんですよ~。読み終えて、忍者が、より分からなくなってしまいました。 それにしても、明智光秀って、忍者とか身分の低い下々の人間と付き合うようなイメージが全く無い。 朝廷とか公家とか将軍家とか宗教界の重鎮とか、そういった方々とは良好な関係を築きそうですが。 だから、私のイメージでは、第三次天正伊賀の乱は、後出しジャンケン? 信長が死んだのを知ってから、今がチャンスと準備もなく慌てて蜂起した。そんな気がします。 ただ、百地三太夫が、こっそり明智光秀の寝所に忍び込み、ダメ元で『信長を討て』と催眠術(暗示)をかけていたとすれば、新説、本能寺の変の真相!!! ふ~う、そんな忍者関連の資料が、門前仲町の骨董市に並んでないですかね~(笑) 新しい視点からの、面白いご回答ありがとうございました。

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