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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:時間は神様が作ったのか?)

時間は神様が作ったのか?

noname#212313の回答

noname#212313
noname#212313
回答No.4

 物理学のみからの回答になります。物理学では神がどういう存在か、全く分かりません。まともには研究すらしたことがないのです。かつ、物理学が有効なのは、最大範囲を考えても、この宇宙内限定です。外がどうなっているかはもとより、外があるのかどうかすら全く分かっていません(外を仮定する仮説はあるが、思考実験の域を出ない)。  では、せめてこの宇宙ではどうなのか、ということになります。古典的な物理学(量子力学を含まないの意、相対論は含)ですと、ご存知のようにビッグバン仮説ベースで、あるときに一点から宇宙が生まれて、膨張しているということになります。宇宙が生まれる前は時間も空間もありません。  古典物理学だけの観点では、この宇宙は決定論的です。よく「宇宙のどの時点でもいいので、全ての粒子の位置と速度が分かれば、無限の計算力さえあれば、宇宙誕生から終焉まで、全てを知ることができる」と表現されます。そのように全てを知ることができる存在を仮想して「ラプラスの悪魔」と呼んだりします。  この考え方だと、宇宙は誕生の瞬間に全てが決まっていることになります。我々が自由意思で何かするとか、サイコロの目の出方はランダムだとか言っているのは、計算能力が低すぎて分からないからに過ぎません。ということは、宇宙を開始したのが神であれば、全ては神が仕組んだことになります。ただし、想定通りかどうかは我々には知る由もないですし、そもそも神の痕跡すら確かなものは一つも分かっていません。  ところが、この考え方では駄目だということも分かってきました。量子力学です。宇宙に存するものの本質は確率的であると示しているのが量子力学です。古典物理学の決定論的な立場からは受け入れがたく、さまざまに反論が為されましたが、かえって量子力学の正しさを証明する結果となっています。  人間の理解としては、この宇宙は決定論的ではなく、確率論的であるわけです。全部、サイコロの目の出方次第で決まってくる世界です。  ところが、それで止まるような物理学ではありません。シュレディンガーの猫という思考実験が有名で、ご存知かと思います。ある一匹の猫が、50%は元気に生きていて、50%は完全に死んでいる、そういう状態が重ね合わさった猫が存在し得る、というものですね。提唱したシュレディンガー(実は量子力学の基礎方程式を作った人)は、「だから、量子力学はおかしい、最終的な理論ではない」と言おうとしたんですが、ところが量子力学に欠点が見つからない。  じゃあ仕方ない、50%は元気に生きていて、50%は完全に死んでいる猫はあり得る、我々が不完全でそういう猫を想定できないだけだ、とする考え方が生まれました。コペンハーゲン解釈と呼んでいます(そのような解釈を始めた一群の物理学者がコペンハーゲンにいたことに由来)。これに対して、後に多世界解釈(あり得る確率的選択肢の分、宇宙が分岐して増える)につながった解釈にエヴェレット解釈があります。  エヴェレットは物理学者の名前です。彼は、「あり得る全て状態が重ね合わせの状態でずっと存在しているが、人間はある一つの状態しか観測できない」と量子力学の確率性を解釈しました。  注意したいのは、ある人間=ある観測者はある一つの状態しか観測できませんが、その観測者自体も、あり得る全ての状態の重ね合わせ状態だということです。たとえば、ある人がサイコロを振って6の目が出たとします。しかし、1~5の目も出ていて、対応する同じ観測者も重ね合わせ状態でいるわけです。 (※重ね合わせでなく、宇宙が分岐して、一つの宇宙には一つの状態と考えるのが多世界解釈。)  ただし、起こり得る全てのことが起こるからといって、何でもありでデタラメなことが起こるということではありません。サイコロなら1~6の目は均等に出ますが、7以上が出たりはしません。サイコロを二つ振れば、2と12は最も出にくいことも変わりません。  エヴェレット解釈で言えば、確率の高いことが起こる世界の濃度は濃く、あり得ないことが起こる世界の濃度はゼロです。濃度の高い世界ほど観測しやすいため、たいていは当たり前のことしか経験できません。 (多世界解釈で言えば、確率の高いことが起こる宇宙の数は多くなり、起こり得ないことが起こった宇宙の数はゼロということになる。)  それでも起こり得る全てが存在することに変わりはありません。それが宇宙の誕生からずっと続いているわけです。起こり得る全ての状態が重なり合い続けている。ということは、宇宙は開始時点で既に全ての可能性を含んだものであることになります。宇宙の開始から時間と共に、起こり得る全ての事象が起こって来たということにもなります。  このことを推し進めて考えて、時間も含めてしまう考え方もあります。我々は時間の流れに沿ってしか観測できないだけで、この宇宙が時間の始まりから終わりまでを含めた一つの静的なモノがあるに過ぎないということにもなります。  仮に超越的な存在が、そのような宇宙を作ったとして、「人間が争いばかりを繰り返している」というのは、宇宙のある1点でそうであるに過ぎません。仮に人間とその超越者が対話可能として、「どうして争いを鎮めないのか?」と人間が問えば、超越者に「そうでない所もあるんだが、なぜ分からないんだ?」と問い返され、さらに「要不要を問わず、全部作ってあるんだぞ」と駄目押しされるかもしれません。

tahhzan
質問者

お礼

物理学での解説をありがとうございました。なるほど、考えれば考えるほど、より深みに入っていく、という感じですね。そもそも、神がこの世をお作りになったのなら、この世が存在しない状態においては、神はどのような状態で存在していたんだろう、などとも考えてしまうこの頃です。科学的なご解説をありがとうございました。参考になりました。

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