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昭和40年代を境に、変わった事はございますか?
今月から祖父と同居を始めました。 会話の中で、『昭和40年代』というフレーズが良く登場します。 例えば、 昭和40年代までは、お醤油を協同組合的に機材を揃え、各家で作ってたとか。 あ、誤解の無いようにお話しますが、そんな山奥ではないですよ。 新幹線なら東京まで1時間程度の関東北部のお話です。 一番びっくりしたのは、戦時中の焼夷弾のかけらに鍛冶屋さんで柄を付けた十能を昭和40年代までは使ってたそうです。 どうも生活様式ですとか、昭和40年代を境に変わったのでしょうか? 諸先輩方の体験談とか 昭和40年代をキーワードに思い当たるお話を お聞かせ頂けたら嬉しいです。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 電話は、有線で(音楽を配信してる有線じゃなく)村外からのは交換手が聞いたのを伝え、こちらの話をまた交換手を通じて相手に伝えたそうです。 今は有る事が当たり前の物が、この頃を境に出来てきたのですね。 確かにお話のように平成になってからと、この頃の1年の変わりようは比べるべくも無いように思います。
補足
その後調べたり、祖父に聞いたりして色々考える機会がございました。 吉野家の牛丼は昭和40年代に200円だったのが、昭和50年に300円その後乱高下は有ったにせよ横ばい。 衣料品は海外生産で昔より安くなって、家電やバイクも海外生産が増えて、それが最近の円安で、国内生産にシフトするとか新聞に出てましたよね。 庶民にとっては仕事が有って、収入内で楽に暮らせたらそれが何よりに思います。 私は難しい事は分かりませんが、多くの方が幸せに暮らせる世の中であって欲しいと、感じました。 皆様ありがとうございました。