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昭和40年代を境に、変わった事はございますか?

今月から祖父と同居を始めました。 会話の中で、『昭和40年代』というフレーズが良く登場します。 例えば、 昭和40年代までは、お醤油を協同組合的に機材を揃え、各家で作ってたとか。 あ、誤解の無いようにお話しますが、そんな山奥ではないですよ。 新幹線なら東京まで1時間程度の関東北部のお話です。 一番びっくりしたのは、戦時中の焼夷弾のかけらに鍛冶屋さんで柄を付けた十能を昭和40年代までは使ってたそうです。 どうも生活様式ですとか、昭和40年代を境に変わったのでしょうか? 諸先輩方の体験談とか 昭和40年代をキーワードに思い当たるお話を お聞かせ頂けたら嬉しいです。

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  • IDii24
  • ベストアンサー率24% (1597/6506)
回答No.4

今でもそう思います。特に1970年(昭和45年以降)はガラッと日本が変わったと今も思います。 電話、車、カラーTVは一家に一台になります。もう会社からの緊急連絡先に三軒先のおばさんの家の電話を書かなくて良くなりました。道路の舗装もこの頃進みます。雨で長靴をはくことも少なくなりました。ということは下水が整備されたということです。 ガス給湯器も普及し蛇口からお湯が出るようになります。冬の寒い日ヤカンのお湯で顔を洗わなくて良くなります。トイレも水洗になります。新聞紙でお尻を拭くこともなくなりました。 海外渡航の敷居は低くなり、JALパックは一般に広まります。人々は初めてレジャーという言葉を実感し、家族で出かけるなど余裕を楽しむようになります。 レトルト食品やカップラーメンも出て食卓は手軽になります。八百屋、魚屋、養鶏場など別々に行かずスーパーマーケットが出始め一か所ですべてが買えるようになります。もう肉屋の親父が鶏を締め殺すのを見なくなりました。 セブンイレブンも出来始めます。夜も買い物ができるようになりました。マクドナルドが出店し、あれは猫の肉だと噂が広まります。 TVドラマでは青春ドラマが流行ります。フォークも流行りアイドルが出始めます。FM放送も始まり音楽が身近になります。若者文化の始まりです。世の中は若者中心になり始めます。石鹸で洗っていた髪の毛はシャンプーで洗うようになります。整髪料MG5も発売され男も髪の毛に気を使いだします。 レコードはシングル中心からアルバム中心になります。オリジナル曲が多くなります。マルチトラックで録音された音楽は重ねどりで音質もよくなり楽曲は生音に近い迫力になります。 どうでしょう。これらがすべてこの5年ぐらいの間に起きてます。びっくりではないでしょうか。この時代に比べると平成に入ってからの27年の変化なんかこの時の一年にも足りません。そう思いませんか?

yuria2014
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 電話は、有線で(音楽を配信してる有線じゃなく)村外からのは交換手が聞いたのを伝え、こちらの話をまた交換手を通じて相手に伝えたそうです。 今は有る事が当たり前の物が、この頃を境に出来てきたのですね。 確かにお話のように平成になってからと、この頃の1年の変わりようは比べるべくも無いように思います。

yuria2014
質問者

補足

その後調べたり、祖父に聞いたりして色々考える機会がございました。 吉野家の牛丼は昭和40年代に200円だったのが、昭和50年に300円その後乱高下は有ったにせよ横ばい。 衣料品は海外生産で昔より安くなって、家電やバイクも海外生産が増えて、それが最近の円安で、国内生産にシフトするとか新聞に出てましたよね。 庶民にとっては仕事が有って、収入内で楽に暮らせたらそれが何よりに思います。 私は難しい事は分かりませんが、多くの方が幸せに暮らせる世の中であって欲しいと、感じました。 皆様ありがとうございました。

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その他の回答 (12)

  • 31192525
  • ベストアンサー率19% (690/3451)
回答No.2

yuria2014さん、こんにちは。  一番変わったなぁ、と感じるのは 『道の舗装』  百万都市に住んでいるのですが、まだまだ当時は未舗装道路が多かったと思います。道に棒切れで絵をかいて、ケンケンパーなんて普通にやってました。  あとは当時まだ『量り売りの液体』が多かったと思います。醤油、酢、油、などなど。ガラス瓶からペットボトルへの移行が進んだのもこの頃ではなかったでしょうか。

yuria2014
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 百万都市に未舗装とは、今では考えられませんね。 バイクツーリングに行きますが、余程の山奥の林道でないと、未舗装路は有りませんものね。 そう言えば、昔の空き瓶がオークションに出品されてるのを見た事が有ります。

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回答No.1

昭和40年代といえば、昭和39年の東京オリンピックから、 昭和45年の大阪万博にかけての、高度経済成長の「高度」 ぶりの急上昇の最盛期だと言えるでしょう。 日本全体は、工業化をベースとした大量生産・大量消費 社会の好景気に浮かれていましたが、我が家はその正反対 でした。 家業は漆器塗りの職人、それも美術作品の作家ではなく 生活食器の職人だったので、工業化で普及するプラスチック 食器に押されて、漆器の塗師の腕がありながら、机のニス 塗りで糊口をしのいでいたオヤジは、ニスのシンナーで 肺をやられて肺炎で他界、我が家は母子家庭となり赤貧洗う がごとき生活(晩飯のおかずがもろきゅうだけとか)を 強いられた。 「高度経済成長の光と陰」の『陰』にもがいた幼少時代。

yuria2014
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 記念硬貨と記念切手は見せて貰いました。 現代でも伝統工芸士と言われる方々でさえ、厳しい状況のようです。 私もどん底生活を経験しましたから、お気持ちお察し致します。

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